2006.02.04 御前崎お泊まりツーリング.3 |
代官屋敷とおねえじゃまん? この籠は私は持っていません ねぇ。私の背負子はこれです。 さて、菊川の川沿いサイクリング道路です。今年も相変わらず向かい風。トホホホホ でも、この方は初代ラ真理教教祖だそうですがとっくのとおに引退なさって、私のセンタースタンドを見て「いいなぁ、便利そうだなぁ、でもこれ付けると邪になっちゃうしなぁ」、ワンタッチ脱着のペダルを見て、「う〜ん、欲しいなぁ〜、ラ真理教は偽物しもだかおりにあげちゃったんだから、もう邪に改宗してもいいかなぁ、どうしようかなぁ・・・」と、あと一押しで御座いますよ。
い、いかんですよそれは!(;^_^A アセアセ… 途中に有ったこの鐘、なんなんでしょうね? でもなんか味がありますね。 代官屋敷の長屋門(重文)去年はひとりで表の写真だけ撮ったのですが、今回は他の人達も立ち寄ってちょいと時間がありました。と言うか私が勝手に入っていったのでしかたなしにかもしれないけど。 基本的に江戸時代後期として良いと思いますが、長屋門は18世紀中頃のものを安政の頃に改修。2000石の格式を示すそうです。母屋は、安政の地震以後の建物とのこと。 黒田家はどうも足利氏の一族と言うことらしいです。足利下野守義次のとき越前黒田荘に居住したことから黒田姓を用いたとのことですが、足利下野守義次は他の資料では確認できません。まあ伝承と言うことで。室町時代頃からこのあたりの小規模領主だつたようです。 江戸時代に入って、1645年(正保2年)に三河岡崎城主本多利長が庶兄助久に4500石を分知し旗本として分家させたときに、おそらくは大庄屋であったろう黒田氏をこの地の2000石の領地の代官としたそうです。現実的ですね、領地経営はそもそもその地で農地・農民経営に当たっていた者に任せ取り込むと。と同時に庄屋=農民と言ってもそれなりの名門として格式(士分)を認められていたのかもしれません。良くあります。 こちらが母屋、でもこの黒田家は現在も住居としてお住いな為、母屋は公開はされているのですが、見学には事前の連絡が必要だそうです。と言うことは後で知ったのですが、如何にも普通のお宅と言う感じだったので、「見学入り口」の看板は見えてもなんとなく遠慮して、門の内側あたりで見させて頂きました。 こちらは中から外を見たところ。 その前の駐車場にかわゆいおねえしゃまが! で、婚礼の支度金に800両を差し出すと、このおねえしゃま御自ら菊川茶を袋に入れてくださったので御座います。 (*^,^*) いや、この段階ではまだ休戦協定は締結されていなかったのであります。勝利の快進撃が1日目のツーリングだけで終わってしまったなんて、残念だなぁ。 |