古道三浦道  三浦道の終点・筋違橋

筋違橋は鎌倉史では一番有名です。小町大路(三浦道)と六浦(むつら)道が接続するあたりです。今で言えば横浜国大付属小学校正門前の道が金沢街道に出たところ。

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付属小学校から見て右側に石碑が二つあります。

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川は今ではコンクリートの下を流れていて一見どこだか解りませんが、正面の北に向かう道の左側(西側)を流れています。その道の突き当たりが横浜国大の附属小中学校の正門。現在コンクリート下の川はその正門から右の道沿いに曲がっていますが、横浜国大がここに出来る前は、おそらくそのまま真っ直ぐ伸びていたのでしょう。『吾妻鏡』によると、この先に三浦氏の屋敷が有りました。宝治元年のこと、ここから宝治合戦が始まり、三浦氏が滅びます。

1247年(宝治1)6月5日条
城九郎泰盛・大曽祢左衛門尉長泰・武藤左衛門尉景朝・橘薩摩十郎公義以下、一味の族、軍士を引率して甘縄の舘を馳せ出づ。・・・鶴岡宮寺の赤橋を打ち渡り、相構へて盛阿帰参以前に、神護寺門前おいて時の声を作る。公義、五石畳紋の旗を差し揚げ、筋替橋北の辺に進みて鳴鏑(鏑矢)を飛ばす。

合戦の合図となった鏑矢は、あの軽トラのあたりから、付属の体育館の方に飛ばしたんでしょうか。和田合戦の時もここで足利義氏と朝比奈義秀が出会い、足利義氏は馬で川を飛び越えたが、朝比奈義秀の馬は既に疲れ切っていたので飛び越えられず、筋違橋へ廻ったとあります。それもこの目の前で繰り広げられたのでしょう。

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上の写真を撮った位置で振り返ったところ。川は見えません。か、下が川であることを示すマンホールが点々と。川はこの位置を正面の白っぽい車の先まで、アスファルトに隠れて流れています。

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そしてその先で、道から外れて姿を現します。この先で滑川に流れこんでいます。

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2009.11.17 写真を追加し追記