北鎌倉の紫陽花 長寿寺観音堂と足利尊氏の墓 2008.6.1 |
こちらの観音堂は、大正時代に奈良の忍辱山園成寺の多宝塔を改造移築したものとか。係の方に聞いたら江戸時代でしょうか? とおっしゃっていましたが、室町時代の様式を残しています。 こちらが先ほどの大正時代の建物のお座敷から。 正面です。 ここのご本尊は聖観音菩薩。桐の一本彫だそうです。良いお顔でした。 左右にはこういう像が2体。いつの時代かは判りませんが、室町時代と言われてもそうなのか、と思うぐらい。でも何でしょう? 十王? 違うんじゃないかなぁ。 その観音堂への途中に鬼瓦? 屋根に付ける魔除けですね。 足利尊氏のお墓に行く途中、振り返ってみたら山門を横から。 階段を登ると足利尊氏のお墓が。 と言うと「そりゃ嘘だ!」という声が聞こえてきそうですが、こちらには遺髪が埋葬されているとのこと。長寿寺は尊氏の第四子(三男とも)、初代関東管領足利基氏が、父尊氏の菩提を弔う為にその尊氏の邸跡に創建されたと長寿寺で貰った「略縁起」にはあります。 しかしこの五輪塔(宝篋印塔)、なんか原型を留めずというか、寄せ集めという感じですが、どうも尊氏は朝敵だという訳で、子供達に壊させたという話しがあるそうです。皇国史観華やかりし頃のことでしょうか。 先に見た通り、足利尊氏の法名は生前から長寿寺殿、没後の院号(戒名)もしばらくは長寿寺殿でしたが、しかし長寿寺殿という院号は京都ではその後用いられていません。、「等持院殿」と呼ばれるようになります。そのいきさつにはどうやら臨済宗内部の派閥抗争?の匂いも。たとえば、足利将軍家の菩提寺万年山等持院とは別に、同じような名前の洛中等持寺(室町時代末期に廃寺)がありましたが、もともとは古先印元の開山らしいのです。古先印元は足利尊氏、足利直義兄弟の信頼を得ていましたが、どちらかと言えば足利直義との結びつきが強かったのか、その直義の失脚し殺されたこと、そして禅宗で最も足利尊氏に近かった夢窓疎石の後継者となることを蹴ってしまったため、足利尊氏は等持寺の開山を古先印元から夢窓疎石に代えてしまい、古先印元を第2世としてしまったといいます。 開山の改竄? というか開山てなに? って感じですが、開山って特別の意味があるみたいですね。単なる初代住職ということではなく、何百年たとうが、そのお寺の一番偉い人として開山堂に祀られたりするぐらいですから。そういえば浄智寺の開山はそのときはもう日本には居なかった、というか生きてもいなかった兀庵普寧(ごったんふねい)だったりしますし。 夢窓疎石は尊氏より早くに亡くなっていますが、夢窓派はその後も足利氏の氏寺から古先印元の影響を払拭し、氏寺を自派で固めようとする傾向がみられるそうです。長寿寺は少なくとも尊氏死去の頃には古先印元が住持を務める寺院であり、京では尊氏の院号に「長寿寺」を用いるのには夢窓派の根強い反対があり、次第に等持院殿と呼ばれるようになったのではないかと言われます。 一方関東では「長寿寺殿」という院号がこののちも継続して用いられます。 円覚寺はその頃夢窓派だったかもしれませんが、建長寺は違ったのでしょうね。室町時代には円覚寺と建長寺は仲が悪かったし。というか古先印元は建長寺や浄智寺の住持となったこともあるそうです。 そこから竹林を抜けると・・・ あっ、紫陽花。そう言えば紫陽花シリーズだったんだ。 更に進むと先ほどの書院のお庭が。なんか皆さんくつろいでいますね。でも本当にくつろげるお庭です。 他の季節の長寿寺は鎌倉の寺院と神社 indexから(まだ今回分だけですが) |