飛騨高山 2009.4.11 日枝神社 |
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早朝の上三之町から陣屋朝市のあと松本家住宅に行ったのですが、まだ開いていない。というので城山の麓の日枝神社に行ってみました。
昔の村落での共同作業の集まりを「結(ゆい)」あるいは「もやい」と言いますが、このあたりは「ゆい」だったかな? その「ゆい」の方々でしょうか。神社のお掃除をなさっています。 42年前に初めてここ高山に来たときの城山の麓の神社の灯籠が印象に残っているんですが、覚えているのは石段の上から見たその灯籠だけ。もういちどそこに行ってみたかったんです。それがここなのか、それとも隣のもうひとつの神社だったのか。 日枝神社(ひえじんじゃ)は、別名というか正式名というか飛騨山王宮日枝神社と言うそうです。高山は山車が繰り出す高山祭で有名ですが、その春の4月14日〜15日の高山祭はここ日枝神社の例祭(山王祭)です。つまり私らはその直前に来た訳で、町の何カ所かではその準備が始まっていました。秋の高山祭はこのあとにご紹介する櫻山八幡宮の例祭ですね。 高山城下町の宮川以南の氏神だそうですからナンバーワンと言えるかもしれません。 その参道を進むと、朱塗りの鳥居の脇に出ました。う〜ん、通ってきた立派な参道はあとから出来たもののようですね。 このモヤのように見えるのは、ゆいの方がお掃除した落ち葉や枯れ木を燃やしているその煙です。 こちらが正面。この石段の上が社殿です。上の方でもお掃除をされていたゆいの方が沢山の枯葉を下に運んでいました。 御祭神は大山咋神です。 社殿の右手前に天然記念物になっている大杉があります。 言い伝えでは、1141年(永治元年)、飛騨の国司平時輔が狩りを行なっていたところ、一匹の老狼を見つけ、これを仕留めようと矢を射たが獲物は見当たらず、矢は大杉に深くつき立っていたとか。平時輔は「大山咋神が、お使いである老狼を救われたものであろう」と神の力を感じ、その大杉の処に、鎮護神として近江国より日吉大神を勧請したのが日枝神社なんだそうです。それがこの大杉? 残念ながら違います。 1586年(天正13)に金森長近が飛騨国に入り、その後高山城を築きますが、1605年(慶長10)に、その高山城の鎮護神としてこの場所へ移転したんだそうです。背後の山が高山城のあったところです。1692年(元禄5年)に飛騨国が天領となった後も、高山陣屋(飛騨郡代)の鎮護神とされたそうです。その当時の呼び名は山王権現宮。もっとも明治になるまでは神仏混合ですから、江戸時代後期にはここも真言宗のお寺になって、それが1869年(明治2)の神仏分離により日枝神社に改称したそうです。 私は鎌倉で沢山の神事を見ているので、門前の小僧のなんとやら、拝礼の仕方は一般人にしてはちゃんとしているんです。そのせいなのかどうか、お参りをしたあとで、お掃除をされていたゆいの方に声を掛けられました。 と言っても「どちらから?」「鎌倉です」「じゃぁもっと立派な神社が沢山あるでしょう」「いや〜、旅行先では地元の神様にご挨拶しないと。それに鎌倉はお寺ばっかりで、鶴岡八幡宮ぐらいのもんですよ」なんて言ったのですが後で考えたら・・・、荏柄天神社に怒られるかしら。(笑) 帰りは真っ直ぐに石段を降りていきました。 すると、こ、ここです。42年前に私が来たのは。あれ? 写真を撮ったような気がするぞ。 すると40年前の時かなぁ、ここに来たのは。 |
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