鎌倉 2013.02.16   東慶寺仏像展ギャラリートーク 

3時からは東京国立博物館 東洋室長浅見龍介先生のギャラリートークです。実物を詳細に見ながらですから説明は「聖観音菩薩立像(重文)」と「水月観音菩薩半跏像(神奈川県指定文化財)」それとの比較として「観音菩薩半跏像」に絞って説明して頂きました。

聖観音菩薩立像の土紋装飾

まずは常設の聖観音菩薩立像の土紋について。実はこの聖観音菩薩、私にとっては一番神妙になる日常的な観音様なんです。宗教心なんてたいして持ってはいないのですが、このお像の前ではなんかコメンナサイというか、手を合わせたら助けてくれるんじゃないかとか。

ただ、東慶寺の聖観音菩薩像は絵葉書写真で見るとなんか違うって感じてしまいます。何でだろう? あっ、鏑木清方の築地明石町と同じだ! 写真は被写体に対して垂直の位置から撮っていますが、仏像、特に立像は下から見上げることを想定して作られているんですよね。上から見下ろされている。目があっちゃうとドキッ。で、見透かされてゴメンナサイ状態?
「築地明石町」も展示室で下から見上げているときは思わず「お、お嬢さん、結婚してください!」と言いたくなっちゃうんですが、絵葉書で見ると「無かったことにしてください」になっちゃうんですよね。絶対あれは見る人の角度を意識して書いてるぜ。えっ、「築地明石町」のモデルはお嬢さんじゃないだろうって? そうなんですよね〜。生まれてくるのが100年遅かった。(゜。)シクシク..

それはともかく、土紋装飾というのは、粘土と漆を混ぜて落雁のように型で抜き、それを漆で貼り付けて刺繍の様に文様を立体的に表現する装飾です。

鎌倉にはこの聖観音菩薩立像の他に、浄光明寺の阿弥陀如来坐像、覚園寺にも同じく阿弥陀如来坐像、来迎寺の如意輪観音半跏像、宝戒寺の歓喜天像、鎌倉国宝館に寄託されているのが浄智寺の韋駄天立像、円覚寺伝宗庵の地蔵菩薩坐像と7体あるそうです。

浄光明寺の阿弥陀如来坐像は2度見たことがありますが、確かに土紋だとは解るんだけど遠くて。
覚園寺は行ったんだけど拝観時間が日に何回と決まっていてアウト!。
来迎寺の如意輪観音半跏像は北条政子の念持仏という伝承があり、拝見させて頂いたことはあるんですが土紋だったかどうかは覚えてない。お顔だけじっと見ていました。
宝戒寺の歓喜天様はとっても怖い神様なので秘仏。見ることが出来るのはおっきな厨子だけです。
鎌倉国宝館
は最近行ってないんですが、あったような気はする。こんど改めて拝見しなければなりませんね。

でもまあ、一番見やすいのはここ東慶寺の聖観音菩薩立像でしょう。間近に拝観出来るし。
ただし薄暗いので土紋の詳細な模様までは解りませんでしたが、今日のギャラリートークでは、特別にミニライトを当てて説明をして頂きました。

下の画像はそのとき頂いたカラーコピー資料の一部分です。畳んでウエストバックに入れたので皺がついちゃいましたが。解りやすいようにちょっとコントラストを上げています。

これは普通解りません。ライトで照らして、説明を受けてやっと模様が見えてきたぐらい。筋の幾何学模様みたいのが解るでしょ。これは金泥を塗った上に金箔を細く切って貼り付けてあるそうです。沈金ですね。見た目には金には見えませんが。今でこそ古色蒼然、侘び寂びの世界ですが、昔はキンキラキンの豪華絢爛だっのでしょう。

東慶寺仏像展ギャラリートーク_17.jpg

土紋がこちら。いや〜、今まで碁石状の粘土を貼り付けてあるとしか見えなかったんですが、本当に落雁みたい。花やら葉っぱやら。ちょこっと赤く見えるのは茎だそうです。ギャラリートークに行くと普段は見えないものまで解るのが良いですね。

東慶寺仏像展ギャラリートーク_17.jpg

 ところでこの土紋装飾は、日本では鎌倉時代後期から南北朝時代ぐらい、それも鎌倉にしか見られないんだそうです。「日本では」というのは、中国では宗の時代に流行っていたので。

ちょっと宗時代の仏像を探してみました。これが土紋装飾と云えるのかどうかは解りませんが、でもお腹のあたりは金泥で模様を付けているようにも見えますね。 

鎌倉時代、特に北条時頼(元寇で有名な北条時宗のおっとさん)の時代以降、建長寺、円覚寺、あるいは蘭渓道隆無学祖元兀菴普寧 (ごったんふねい)、と言った中国(南宋)でも偉いお坊さんが日本にやってきたり、日本からも沢山の僧が中国(南宋)に留学したりして、当時の中国の文化が沢山日本に流れ込みます。でもそのルートは博多から京を経由して鎌倉へ。中国の流行は京にも伝わっているはず。なのに何故この土紋装飾は京には見られず鎌倉だけなのか。

浅見先生は、北条時頼の時代以降、京の文化的権威に対抗して鎌倉が新しい文化的権威を貪欲に吸収しようという気運が高まっていったのではないかと。
建長寺なんてまさにその象徴です。京の仏教は黒田俊雄の言う権門体制の一角である顕密仏教ですが、それに対して鎌倉は禅宗や律宗を鎌倉に呼び、スポンサーとなります。

もっとも、北条時頼らが律宗の叡尊を鎌倉に招いたのは、単に対京都の政治的理由だけとは思えません。それ以前に鎌倉では浄土宗が上から下まで入り込んでおり、特にその下の方での風紀の乱れに苦慮そていたことが『吾妻鏡』からも伺え、その下層民衆の秩序維持には浄土宗より律宗の方に期待したところが大きかったのかと。忍性(に んしょう)なんて非人救済で有名ですし。もう一つは、律宗は下層民衆、その中でも特に土木などに関わる民衆、石工などを組織していました。この二つの面で 鎌倉幕府にとってはかなり助かったようです。禅宗は建前(と学問)の世界で。律宗は実利の世界で必要だったと言いたくなるぐらい。

ついでに、歴史学で言われる「顕密」とは歴史学限定の学術用語で、学術を離れれば仏教そのもののことです。

当時の律宗の中心は奈良の西大寺と京都の泉涌寺(せんにゅうじ)。西大寺の叡尊は宗には渡っていませんが、泉涌寺の律は俊芿(しゅんじょう)が中国(南宋)で学んできたものです。西大寺の叡尊の門弟が常陸三村寺(廃寺)を最初の拠点に、極楽寺称名寺多宝寺(廃寺)などを開き、遅れて北条貞時の時代に泉涌寺派は土紋装飾の阿弥陀如来坐像がある覚園寺を開いて鎌倉幕府の後ろ盾で勢力を伸ばします。

西大寺派より遅れて泉涌寺派が、というのは今知られる寺院ベースの話です。覚園寺住職の大森順雄氏は『覚園寺と鎌倉律宗の研究』で、泉涌寺開山の俊芿が 1224年に北条氏の招きで下向し、北条政子と泰時等北条一門に菩薩戒を授けたと「不可○法師伝」にあると書かれていますが、その法師伝の成立年代はいつ 頃なんでしょうね。俄には信じられませんが。ただ、覚園寺創建に漕ぎつけるまでに相当強力な政治工作を展開しているはずで、その拠点が何処だったのかは不明です。創建当時の覚園寺についての研究は、なんと建築史の学者さんで奈良文化財研究所遺構研究室長の箱崎和久さんが『建築史の空間』という本の中に「北京律僧の活動からみた鎌倉の寺院と建築」という論文をお書きになってます。建築のことなんかほとんど書いて無くて、建築史家がこんなことでええんかしらな んて思いましたが。今一所懸命そのコピーを探したんですが見つからない。しかたがないのでまた図書館に行ってコピーを申請してきました。

おや? 同じ律宗系でも西大寺派(現真言律宗)寺院には土紋装飾が無く、数少ない南宋律の泉涌寺派寺院二つともに土紋装飾が残っているところが面白いですね。鎌倉の禅宗はもちろん南宋直輸入です。これはもしかして・・・。何を企んでいるのかというと、土紋装飾があったのは鎌倉でも南宋伝の禅宗と、同じく南宋伝の律宗寺院であると論証できたら面白いなぁと。

浄光明寺については、その住職であり歴史学者でもあった大三輪龍彦先生の『浄光明寺敷地絵図の研究』が一番詳しいでしょう。というのでそれを参考にしながら。

土紋装飾の阿弥陀如来坐像がある浄光明寺は北条庶流ながら第6代執権北条(赤橋)長時の寺で、1251年(建長3)頃の創建です。最初は浄土宗ですが、ただし専修念仏の浄土宗ではなくて、浄土宗諸行本願義の寺院のようです。浄土宗諸行本願義の開祖覚明房長西は法然の晩年の直弟ですが、泉涌寺の俊芿から摩訶止観(まかしかん)を伝授されており、更に伝承ながら泉涌寺六世願行作と伝える愛染明王像があり、創建当時願行は鎌倉に来ていたなど、泉涌寺派とは親しい関係にあります。

1314年(正和3)この浄光明寺三世の性仙のとき、覚園寺、極楽寺、称名寺、多宝寺など、鎌倉近郊の12の律宗系寺院の13人の僧がここを「浄土宗諸行本願義、華厳、真言、律宗四箇之勧学院」、つまり四宗兼学の総合大学にしようと連署し、性仙も「随喜訶餘同心」と後から署名しています。その性仙が長老を務めていた頃に阿弥陀三尊像が造られています。この制作年代ははっきりしていて、胎内文書から1299年(正安元年)です。

残念ながら、当時の浄光明寺が泉涌寺派だったと断定出来る証拠はあがりませんでした。阿弥陀三尊像が造られた頃の長老性仙は律宗に非常に近い方とは見えますが、西大寺派じゃなくて泉涌寺派、と云えるほどではありません。それどころか臨済宗側からも評価されている人ですしね。しかたがない、話を戻しましょう。

西大寺は奈良、泉涌寺は京都ですし、禅宗だって鎌倉五山より格の高い南禅寺が京都にあります。なんで関西には定着しなかったの? ということになりますが、奈良時代以来の比叡山や高野山、三井寺や東大寺などの顕密仏教の文化的伝統の方が圧倒的だったんでしょう。鎌倉にはそうした文化的伝統の無風地帯だったから一気に宗風文化に染まったということでしょうか。ただ、宗(南宋)は鎌倉滅亡の1333年より前の1279年に滅んでいます。文化の変容にはタイムラグがあるにせよ、宋文化の土紋装飾は鎌倉でも次第に消えて行き、今に残るのは7体の仏像だけということなのでしょう。

ちなみにこの「聖観音菩薩立像」は元々ここ、東慶寺にあった訳ではなく、鎌倉尼五山第一位の太平寺にあったものです。

尼五山第一位が太平寺で第二位が東慶寺です。おまけに太平寺滅亡の頃の東慶寺住職は里見氏と結婚した元太平寺住職の妹だったそうです。尼五山第 一位ということは太平寺も禅宗(臨済宗)だったんでしょう。日本では五山の制は臨済宗が対象ですから。おまけですが、東慶寺が鎌倉五山に入っていないの は、尼五山の方だったからです。

そのあたりはどこかに書いたと思うんだけど。あった、これだ、円覚寺の梅と歴史.2 、円覚寺の正続院・舎利殿の最後の方。その経緯は三山 進氏の『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』 (有隣新書)に詳しいと教えて頂きました。この本は知らなかった。浅見先生有難う御座います。今読み終わったところですが、結局太平寺についてはほとんど解っていないということが良く判りました。かなり昔の本なのでその後の研究の進展ということも有りえるんですが・・・。無いだろうなぁ。

でも三山 進ってどっかで見覚えが。何だっけ? 

ただ。制作年代について、鎌倉時代から南北朝時代、14世紀とありますが。もしもこれが太平寺にずっとあったのなら、鎌倉時代の可能性は少ないんじゃないでしょうか。14世紀も後半かと。というのは足利尊氏の子で初代鎌倉公方足利基氏の妻の清渓尼(畠山家国の娘)がこの太平寺を再建する以前はかなり小さな仏堂+庵ぐらいだったはずです。とてもじゃないけど、当時としては最高級な金沈や土紋で飾られた仏像など作れるはずがない。足利基氏の正妻にして関東公方二代目足利氏満の母の隠居所ならそれも解ります。

いや、あれは鎌倉時代の作で、最初は他の裕福なお寺にあったものを太平寺に持ってきたんだ、というケースも考えられるでしょうが、でも関東公方二代目の母の寺の本尊にそんなけちくさいことをするでしょうか? 私はしない方に100カノッサ。という話は円覚寺の舎利殿と大平寺にまとめました。

土紋以外の様式の点でも、1299年の浄光明寺阿弥陀如来坐像よりもあと、更に言うなら鎌倉時代ではない。ただし15世紀前半頃まで時代を下げることは難しいというのが一般的な見解のようです。


この写真は2007年2月に来迎寺を探しに行ったときです。西御門の来迎寺の石段の脇に「太平寺跡」という鎌倉青年団の石碑があってびっくりしました。ただこの石碑、いつもそうですが、この辺というだけで此処と示している訳ではありません。

水月観音菩薩半跏像

水月観音菩薩半跏像は普段は水月堂にお住まいです。毎年この時期の仏像展のときだけ、宝蔵にお越しになります。宝蔵では毎年何度も拝見しているのですが、ホームな水月堂に御お邪魔したのは去年5月のアーユルベーダ講演会のときだけです。いや〜、水月堂におられる水月観音様は全く別人の様。ホームとアウェイでは気分が違うんでしょうか。というよりこれも目線の関係でしょうね。ガラスケースも無いし。

すると宝蔵の展示でも床に正座して見上げれば本当の水月観音様のお姿が見られる? でもねぇ、いくら恥も外聞もない私だって、あそこで床に正座するのはちょっと恥ずかしいです。精々屈んで見上げるぐらい。でもね〜、それでも何か違う。最後は気分の問題ですかね。

ところで、ギャラリートークでの説明ですが、私にとって重大な関心事がひとつ。この水月観音菩薩の制作年代はこれまで不詳とされていたのですが、去年の東慶寺HPで、最近の研究では鎌倉時代中期、13世紀頃の作ではないかと改められたとか。あたしゃ江戸時代ぐらいじゃないの? と思っていたんですが、ほんまかいな! 何で? その根拠は? という点です。

去年もそれを聞きたさでやってきたんですが、お茶室白蓮舎の係りの方に「あれは申込みが必要だったんじゃないかしら?」と言われて「ガーン!」で御座いました。今年こそはとちゃんとメールで申し込んだんです。そうしたらまた見落としが。いや、ギャラリートークはちゃんと参加出来たんですが、それとは別に「講演会」が3月にあるんですね。慌てて会場で直に申込みました。これでもう大丈夫。
(世間の声:ちゃんと読めよ! そそっかしい!)

で、これは鎌倉時代後期という理由は、ここでもまた宗風の様式なんだそうです。「飾りの金物は新しそうじゃないか!」と思うんですが、それは後付のもの。更に鎌倉時代後期でも新田義貞が攻めてくる直前ではなくて、13世紀、つまり1200年代後半ではないかと。更にたたみかけて、この水月観音がもしもずっとここ東慶寺にあったのなら、北条時宗夫人でここ東慶寺開山の覚山尼のものということも考えられると。

誰だ江戸時代なんて言ったやつは!バッカじゃね〜の?(世間の声:お前だ、お前!)

結跏趺坐と半跏趺坐

「水月観音菩薩半跏像」の「半跏」とは座り方のことです。座禅の座り方は結跏趺坐(けっかふざ)ですね。えっ、知らない? ナンタルチ〜ヤ!  
しょうがない、教えてさしあげましょう。まず胡座(あぐら)をイメージしてください。足先は太ももとか脛の下になるでしょ。あぐらだと下にくる足先を太腿の上に持ってくる座り方です。まづ右の足を左の腿の上にのせ、次に左の足を右の腿の上にのせて、兩足を交叉させる。これが結跏趺坐です。

お前は昔から知ってたのかって? 座禅の足の組み方は高校生の頃から知ってましたよ。それを結跏趺坐というのはこの日初めて聞きましたが。(。_・☆\ ベキバキ

というようなオチャラケはおいといて、その結跏趺坐に対して半跏趺坐は座禅では片足の足先を、もう片足の太腿の上にの、もう片方の足は交差させずに足先は反対側の膝の下になるという座り方です。こっちの方がずっと楽。

座禅ではそうだし、そういう仏像も沢山あるのですが、仏像には何かに座って片足を下に下ろし、もう片足の足先を、下ろした片足の太腿の上にのせる座り方もあります。ところが水月観音菩薩半跏像は片足は下に下ろし、もう一方の足先はあぐら状態で、足先が下に下ろした足の太腿に乗っていない。観音菩薩半跏像もそこはそうなんですが、でも背中がピンとしている。それに対して水月観音菩薩半跏像は肘置きに肩肘ついたような、実に仏像らしからぬ。もうリラックスし過ぎ!
副交感神経な世界です。 

だからそんなに古くはないんじゃない? なんて思ったんですが、実はこれが中国の宗朝風なんだそうです。なんでこんなにリラックスし過ぎちゃってるのかというと、観音様はインドでは補陀洛山(ふだらくせん)という山に住んでいたんですね。ところがそれが中国に入ってくると、山は仙人のいる場所なんです。それで観音様に仙人イメージが重ね合わされてこうなっちゃったとか。要するにこれって仙人のポーズなんですよね。それに髻(もとどり)も中国的で他の観音像にはほとんどだったか、全くだったか見られないとのこと。
このリラックスムードの宗朝風が日本に伝わりますが、伝統ある堅苦しい顕密仏教文化の京ではちょうど私のように、「仏像でそりゃないでしょう〜」と流行らず、土紋装飾と同様に鎌倉だけで流行り、南宋の滅亡と同時に消え去っていったということのようです。

ただ、仙人のポーズは片膝を立ててるんですが。例えばこの宗朝の観音像の様に。


Photo by Mountain 確かに宗の観音様は写実的だなぁ。

浅見先生のお話では、日本では流石にそれではお行儀悪すぎって思われたのではないかと。
日本でも如意輪観音だけは膝立てが多いですけど、それ以外では片膝を立てたのはほとんど無いそうです。

観音様って男なの?女なの?

ところで観音様って男なの? 女なの? って下々な人間は話題にします。東慶寺では今回説明を受けた聖観音菩薩立像水月観音菩薩半跏像観音菩薩半跏像共に女性に見えますね。
宝戒寺に歓喜天像がありますが、歓喜天はふたりでひとつの神様なんです。四部毘那夜迦法によれば、像頭の毘那夜迦(びなやか)王が悪いことばっかするのに心を痛めた十一面観音が毘那夜迦王の前に現れて「仏法に帰依して悪いことを止めるなら抱かれてあげても良いわよ」と言ったとか。そうして抱き合って、というのが歓喜天像ですから観音様は女性ということになりますね。 

もっともこの『四部毘那夜迦法』って本当にインド、中国から伝わったものなのかどうかは疑わしそうですが。
でも、荒神はともかく、上記の話はインドの大乗仏教の説話ならありそうな話ですね。なんせ当時のインドはこういう感じで、その土壌のヒンドゥー教の神様を吸収しながら大乗仏教が出来上がっていくのですから。中国や日本の発想とは考えにくいんじゃないでしょうか。でも禅宗って、大乗仏教から発してるんだけど、インドで云えば上座仏教みたいな感じもありますよね。先祖返りでしょうか?  

で、もっと調べたら、元々の教典では、男みたいです。
でも相手に合わせていろんな形で現れるためと、もうひとつは仏教があちこちで色んな信仰やら神様やらを吸収していく内に女性の姿で描かれることが多くなったとか。六観音、七観音、十五尊観音、三十三観音とか云われるのは、そのいろんな形で現れるということからのようで、例えば三十三観音は『法華経』で観世音菩薩が「三十三身に変身して相手に応じて法を説く」とあることかららしいです。実は一人であって、三十三人いる訳ではありません。

雑談でその三十三観音の話になって、「鎌倉にも三十三観音霊場ってありますよねぇ」と云ったら、ご住職の奥様が「うちの聖観音菩薩様もそのひとつですよ」と。そうだった忘れてた。ところでその聖観音菩薩様って、「いろんな形」じゃない基本的な観音菩薩の姿なんだそうです。だから「正観音」とも。水月観音様の方は「三十三身に変身」のひとつですね。

ちなみに私は鎌倉史の関係で覚園寺と律宗を調べたことはありますが、仏教史や仏教美術は即席の付け焼き刃です。多分間違いもあるかと。明日になったらまた変わっているかも。m(_ _)m 2013/2/25 追記

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