2013.03.02 東慶寺の梅と仏像展講演会 |
先週は山門を覗いてもあまり梅はみえなかったのに今週はここから見ても♪ 鐘楼の白梅も既にこうです。
こちらの福寿草も先週より数を増やしていますね。 先週は蕾だけだった本堂手前のこの紅梅も。 でもこっちはまだだなぁ。そういえばこの梅の名前をまだ調べてないや。(;^_^A アセアセ… その反対側のお茶室の白梅。 こちらは白蓮舎の入口の白梅です。 その反対側の本堂門前の紅梅は、割と早い方なんですが、既に満開。 では本堂にお詣りを。 本堂中庭の梅は紅白揃い咲きとなりました。
またこのアングルかいって? 何をおっしゃるやら。良く見てください。 しかし今日は大失敗。 講演会の成果ですか? 新事実発見! いや、私にとってですが。浄光明寺の阿弥陀三尊像の制作年代は、真ん中の像の胎内文書から1299年(正安元年)と云われているんですが、それは三尊像全体ではなくて真ん中の像だけではないかと。右はもっと古く1265年ぐらい、左は1280年頃ではないかと云うのです。この現在の三尊像、何で浄光明寺の創建から50年近くも経ってから作られたのかという疑問がありました。創建は第6代執権の北条(赤橋)長時で、そのバックには北条時頼がついていますから決してチャチなお寺ではありません。ここの住職で、歴史学者でもあった大三輪先生は元の本尊が何らかの理由で壊れた、もしかすると1293年(永仁元年)の大地震あたりで? と推測されています。 永仁の大地震については当時鎌倉にいた京都醍醐寺の僧の日記(親玄僧正日記)に「卯時、大地震。先代未曾有の大珍事。・・・堂舎・人宅ことごとく顛倒。上下死去の輩、幾千人かを知らず。同じき時、建長寺炎上。道隆禅師影堂のほか一宇も残さず」。 もしそうなら、壊れたのは三尊像全体ではなく、中尊が激しく損傷し、それで作りなおしたのかもしれません。ちなみに、中尊の体内文書には創建北条長時の孫の久時の名があるそうです。 土紋については、実は中国には残っていないと。そもそも今の中国には仏像そのものがあまり残っていないのです。文化大革命の影響でしょうか? ただし海外に流出した仏像の中に、確かスイスの美術館にある仏像に土紋があるそうです。ちなみにギャラリートークのページで紹介した宗時代の仏像は中国の上海博物馆 に残っているものです。土紋はありませんが、宗の時代の写実性は良く判ります。 ところで、宗朝風が何故鎌倉だけに残ったのかという例の話のからみでですが、鎌倉は頼朝が来る前は田舎だったからと。「いや郡衙(ぐんが)があったじゃないか、田舎じゃない」という人もういるけど云々。 ん? おいらのことかい? 「少なくとも奈良時代にはその時代としては寒村だった訳ではありません」と書いたことはある。いや、浅見先生がおいらのことを知っているはずはない。 その話の中で、田舎だったということは鎌倉に残る平安仏を見てもそれが判ると。この話は面白かったですね。で、どこから判るのかというと、杉本寺や辻薬師堂の平安仏を見ても非常に鄙びていると。 ただひとつ、浅見先生は円覚寺舎利殿の建築時期を「1500年代の前半」とおっしゃいましたが、あれは「15世紀の前半」の言い間違えです。私は「えっ、移築時期のこと? いや、移築は1500年代の後半だし、えっ? えっ? 何の話?」と思いましたが。 ところで昔このHPでは何て書いていたっけ、と今確認してみたら、「太平寺(尼寺)の佛殿(鎌倉時代末〜室町初期に再建)を移築」と書いてました。宝物風入のときに円覚寺のお坊さんがそう説明していたんですよ。きわどいところで嘘はついてませんでしたね。ちゃんと室町初期が入っている。でもあとで修正しよっと。(苦笑) 余談ですが、無学祖元と兀菴普寧 (ごったんふねい)は中国(南宋)でも偉いお坊さんだったけど、蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)は中国(南宋)では道が開けずに、新天地を求めて日本に来たようだと。 という講演会が終わって。 やはり門越しの風景って、絵になりますね。
そのあと、白蓮舎へ。 そして中へ。まだフォトギャラリー写真展はやっています。いつまでだ?10日までだったかな? 席に座って見上げると、おっ、向こうの白梅も咲いてる。 来週こそはこの紅梅も満開かな? いや、そうでないとお茶屋さんが終わってしまうので満開になってくれないと困りますが。 他の季節は北鎌倉・東慶寺 indexからどうぞ |