2013.03.02    東慶寺の梅と仏像展講演会 

先週は山門を覗いてもあまり梅はみえなかったのに今週はここから見ても♪

東慶寺の梅と仏像展講演会_01.jpg

鐘楼の白梅も既にこうです。

東慶寺の梅と仏像展講演会_02.jpg


こちらの福寿草も先週より数を増やしていますね。

東慶寺の梅と仏像展講演会_03.jpg

先週は蕾だけだった本堂手前のこの紅梅も。

東慶寺の梅と仏像展講演会_04.jpg

でもこっちはまだだなぁ。そういえばこの梅の名前をまだ調べてないや。(;^_^A アセアセ…

東慶寺の梅と仏像展講演会_05.jpg

その反対側のお茶室の白梅。

東慶寺の梅と仏像展講演会_06.jpg

こちらは白蓮舎の入口の白梅です。

東慶寺の梅と仏像展講演会_07.jpg

その反対側の本堂門前の紅梅は、割と早い方なんですが、既に満開。

東慶寺の梅と仏像展講演会_08.jpg

では本堂にお詣りを。

東慶寺の梅と仏像展講演会_09.jpg

本堂中庭の梅は紅白揃い咲きとなりました。

東慶寺の梅と仏像展講演会_10.jpg


またこのアングルかいって? 何をおっしゃるやら。良く見てください。
これが本堂前の光景ですか? これは書院の門内から。今日は書院で仏像展の講演会があるんです。 講師はギャラリートークのときと同じ東京国立博物館 東洋室長浅見龍介先生です。

東慶寺の梅と仏像展講演会_11.jpg

しかし今日は大失敗。
あんなに来るとは思わなかった。おかげで前の席に座れず、スライドがあまり良く見えませんでした。あんなに来るならさっさと席をとって、それから写真を撮りに行けばよかった。(泣) 

講演会の成果ですか? 新事実発見! いや、私にとってですが。浄光明寺の阿弥陀三尊像の制作年代は、真ん中の像の胎内文書から1299年(正安元年)と云われているんですが、それは三尊像全体ではなくて真ん中の像だけではないかと。右はもっと古く1265年ぐらい、左は1280年頃ではないかと云うのです。この現在の三尊像、何で浄光明寺の創建から50年近くも経ってから作られたのかという疑問がありました。創建は第6代執権の北条(赤橋)長時で、そのバックには北条時頼がついていますから決してチャチなお寺ではありません。ここの住職で、歴史学者でもあった大三輪先生は元の本尊が何らかの理由で壊れた、もしかすると1293年(永仁元年)の大地震あたりで? と推測されています。

永仁の大地震については当時鎌倉にいた京都醍醐寺の僧の日記(親玄僧正日記)に「卯時、大地震。先代未曾有の大珍事。・・・堂舎・人宅ことごとく顛倒。上下死去の輩、幾千人かを知らず。同じき時、建長寺炎上。道隆禅師影堂のほか一宇も残さず」。
京の公家の日記(実躬卿記)にまで「去る十三日の暁、関東大地震。数刻に及ぶの間、将軍御所および若宮より始めて在家・民屋等に至るまで、多くもって破損す。人また多く死去すの由、風聞すと。山・岸等また散々。およそ言語のおよぶところにあらずと云々。先代未聞の珍事なり。建長寺顛倒。よって火出来焼失と云々」と書かれるぐらいです。あっ、これって平禅門の乱のときの地震じゃないか! 
確かに浄光明寺だけ被害無しなんてはずはありません。

もしそうなら、壊れたのは三尊像全体ではなく、中尊が激しく損傷し、それで作りなおしたのかもしれません。ちなみに、中尊の体内文書には創建北条長時の孫の久時の名があるそうです。

土紋については、実は中国には残っていないと。そもそも今の中国には仏像そのものがあまり残っていないのです。文化大革命の影響でしょうか? ただし海外に流出した仏像の中に、確かスイスの美術館にある仏像に土紋があるそうです。ちなみにギャラリートークのページで紹介した宗時代のは中国の上海博物馆 に残っているものです。土紋はありませんが、宗の時代の写実性は良く判ります。

ところで、宗朝風が何故鎌倉だけに残ったのかという例の話のからみでですが、鎌倉は頼朝が来る前は田舎だったからと。「いや郡衙(ぐんが)があったじゃないか、田舎じゃない」という人もういるけど云々。 

ん? おいらのことかい? 「少なくとも奈良時代にはその時代としては寒村だった訳ではありません」と書いたことはある。いや、浅見先生がおいらのことを知っているはずはない。
でも念のため云っておきますが、先の「少なくとも奈良時代・・・」の直前は、「今から見ると、あるいは人口が万の単位と言われる三代執権泰時以降と比べれば寒村だと思いますが、かといって」ですから。「草深い寒村」というイメージとはちょっと違うぞ。結構物流の拠点だったのではないか、と云うぐらいです。そりゃ〜当時の奈良・京都、博多に比べれば田舎ですって。

その話の中で、田舎だったということは鎌倉に残る平安仏を見てもそれが判ると。この話は面白かったですね。で、どこから判るのかというと、杉本寺辻薬師堂の平安仏を見ても非常に鄙びていると。

ただひとつ、浅見先生は円覚寺舎利殿の建築時期を「1500年代の前半」とおっしゃいましたが、あれは「15世紀の前半」の言い間違えです。私は「えっ、移築時期のこと? いや、移築は1500年代の後半だし、えっ? えっ? 何の話?」と思いましたが。
舎利殿と太平寺については「円覚寺の舎利殿と大平寺」にまとめ直しました。

ところで昔このHPでは何て書いていたっけ、と今確認してみたら、「太平寺(尼寺)の佛殿(鎌倉時代末〜室町初期に再建)を移築」と書いてました。宝物風入のときに円覚寺のお坊さんがそう説明していたんですよ。きわどいところで嘘はついてませんでしたね。ちゃんと室町初期が入っている。でもあとで修正しよっと。(苦笑)

余談ですが、無学祖元と兀菴普寧 (ごったんふねい)は中国(南宋)でも偉いお坊さんだったけど、蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)は中国(南宋)では道が開けずに、新天地を求めて日本に来たようだと。
私は後で知ったのですが、蘭渓道隆は南宋の臨済宗の中で松源派の祖、松源崇嶽の直弟子無明慧性の法を嗣いだ方です。しかし当時の南宋で全盛であったのは松源派ではなく破庵派だったので、蘭渓道隆は不遇で、それ故に新天地を求めたようです。一方、兀菴普寧 (ごったんふねい)、無学祖元は南宋で全盛であった破庵派です。なので南宋の五山の中でも偉いお坊さん。
ところが、蘭渓道隆自身にはそんなつもりは無かったでしょうが、この法流の違いが蘭渓道隆の弟子達にちょっと問題を引き起こします。兀菴普寧 (ごったんふねい)は中国では正統派なのに、蘭渓道隆の弟子達に異端扱いされて、嫌になって帰ってしまうし、無学祖元は日本に骨を埋めたけど、その何世代か後には大覚派(道隆派)と仏光派(祖元派)の派閥争いが、建長寺と円覚寺の根深い対立となってしまします。
その火種の蘭渓道隆、日本に来てからも不幸は続いて、建長寺を開いたあとも、何度か配流されていますね。
浅見先生は、私が弟子になるとしたら、蘭渓道隆より無学祖元に弟子入りしたいと。何故かというと無学祖元の方が優しそうだからと。私もそう思うなぁ。蘭渓道隆はとっても厳しい人だったようです。肖像や坐像にもそれが現れています。

という講演会が終わって。

東慶寺の梅と仏像展講演会_12.jpg

やはり門越しの風景って、絵になりますね。

東慶寺の梅と仏像展講演会_13.jpg


そのあと、白蓮舎へ。
これは待合いの窓から。先週は一輪しか咲いていなかった紅梅もやっと花開きました。

東慶寺の梅と仏像展講演会_14.jpg

そして中へ。まだフォトギャラリー写真展はやっています。いつまでだ?10日までだったかな?

東慶寺の梅と仏像展講演会_15.jpg

席に座って見上げると、おっ、向こうの白梅も咲いてる。

東慶寺の梅と仏像展講演会_16.jpg

来週こそはこの紅梅も満開かな?

東慶寺の梅と仏像展講演会_17.jpg

いや、そうでないとお茶屋さんが終わってしまうので満開になってくれないと困りますが。

他の季節は北鎌倉・東慶寺 indexからどうぞ