円覚寺の舎利殿と大平寺

正続院  舎利殿  舎利殿の評価の変遷  太平寺  仏舎利

正続院

正続院は開山仏光国師無学祖元禅師の塔所です。無学祖元禅師は、北條時宗の招請で弘安5年に円覚寺を創建した後、北条時宗が死んだ1284年の12月に円覚寺を退いて建長寺に移り,その2年後の1286年(弘安9)9月3日に61歳で亡くなりました。

 2010年11月宝物風入 

北条氏が1333年に亡んだ直後の1335年(建武2)に夢窓疎石は建長寺にあった無学祖元の塔所(墓)を後醍醐天皇の勅使によって円覚寺正続院に移し、それ以来ここ正続院が円覚寺の開山塔頭となります。

江戸末期天明年間に円覚寺の復興に力を尽くし僧堂・山門等の伽藍を復興した誠拙周樗(せいせつしゅうちょ、大用国師 1745-1820)によって座禅の専門道場である僧堂が開かれ、以来ここが臨済宗円覚寺派の専門道場となります。そのためここは一般には公開されていません。あの門の中に入れるのは、正月の三日間と秋の宝物風入のときだけです。何故か去年(2012年)の5月5日には入れましたが。

舎利殿

舎利殿とは仏舎利、つまりお釈迦様の骨を収めるお堂のことです。それって本物の釈迦様の骨なのか、いつからここに有るんだ、という話はまた改めて。

今回はこの建築物についてです。あの唐門の向こうに入れるのは秋の宝物風入のときだけ。正月の三賀日も入れません。


 2006年11月宝物風入 

秋の宝物風入のときもこの中は通常撮影禁止でした。今年はどうなるのか解りませんが。


 2009年11月宝物風入 

なので、写すとしたらこうして唐門の外からでした。今まではね。 


 2008年11月宝物風入 

こちらが宝物風入のときの入口。唐門は何のためにあるんだって? 寝殿造りの時代から、建物の正面から入るのは特別な人の特別なときだけです。向こうに見えるのが僧堂。現在も雲水さん達はここで修行をしています。どういう生活なのかというと、まるで中世そのままです。


 
2006年11月宝物風入 

上の写真に文字を書いた板に木槌がぶら下がっているでしょ。
中は撮影禁止なのですが、2002年のときにこれだけ許可を頂いて撮ったのが下の写真です。
「修行の時間だぞ!」と叩くのか「飯のの時間だぞ!」と叩くのか、まあ、修行僧のチャイムみたいなもんです。それにしてももうちょっとで穴が開いちゃうんじゃないかと言うぐらいえぐれていて。
なんかこんなとこにも修行の厳しさを感じてしまいます。でも4年の間に取り替えたみたいですね。

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 2002年11月宝物風入 

舎利殿の評価の変遷

この舎利殿はかつては鎌倉時代からここにあり、唯一残る鎌倉時代の建造物と考えられていました。例えば建築史の大家、太田博太郎先生は昭和32年にこう書かれています。

「舎利殿は1285年(弘安8年)に造立された。この建物は唐様(中国の宗朝風)のもっとも代表的な例である。唐様は建仁寺創立以来、禅宗とともに徐々に宗より伝来し、建長寺創立にいたって確立した。禅宗建築は中世以降もさかんに建てられたが、京都・鎌倉五山のうち、創建当時のものとして残るのはこの舎利殿一棟である。」

ほとんどは今でも正しいと思います。「1285年(弘安8年)に造立」と、「創建当時のものとして残るのは」という処以外は。


2012年5月5日

何故かこの日は撮影可でした。ネットで検索したら、前日までは不可だったのを管長猊下のお計らいで撮影も可になったと何方かが書いておられました。しかしなんでこの日に公開されてたんだろう?

確かにここ円覚寺では鎌倉時代に舎利殿が造立されたようですが、しかしそれは今ここに残る舎利殿ではないのではないか、という話が出てきます。

その根拠は『鎌倉市史』編纂のために、諸寺院等に残る古文書を精査、翻刻した結果からです。まずここ円覚寺に最初に舎利 殿が造立されたのは1285年(弘安8年)ではなく、1309年(延慶2)であり、更にそのあと、1374年(応安7年)と1411年(応永28年)の2度に渡って炎上しており、現在のものは応永の大火以降に建てなおされたものである可能性が高いというのです。

しかしこの建築様式は1411年以降ということは有りえないだろう、というのが建築史家側の反応だったようです。どっちの言い分にも一利ある。

ところがまた新たに古文書が発見されます。その古文書とは、円覚寺塔頭富陽庵に残っていた「円覚寺汁物等雑記」です。それによると、1563年(永禄6年)11月23日に、一山のほとんどを焼いた大火があり、そのときにあった舎利 殿もまた燃えていると。そうなるとこの舎利殿は1411年(応永28年)どころか1563年(永禄6年)以降の建物ということになります。しかし建築史家側は百歩譲って1411年が有りえるとしても、この建築様式が1563年の永禄以降なんてことは絶対に有りえないと。

この矛盾を解決できるストーリーはひとつだけ。古くに建てられた建物を1563年(永禄6年)以降にここに移築したというものです。となるとその証拠はあるのかということに。

それを臭わせるような古文書はあるんです。ひとつは「新編鎌倉志」。そこには「円覚寺の開山塔の昭堂は、大平寺の仏殿なりと云ふ」と。ただし「新編鎌倉志」は江戸時代初期に水戸藩主の水戸光圀が編纂させたもので、その時点での言い伝えをまとめたものですから、証拠能力にいまひとつ。実際、おかしなところも沢山あるので私でも眉に唾をつけて眺めます。とは云っても、私がおかしなところも沢山と思っているのは平安時代末から鎌倉時代初期のことですから、「新編鎌倉志」でも120〜130年前のことについての言い伝えなら。

それ以外にもうひとつ一級の史料があるのです。それは北条氏康の円覚寺宛の書状で、「太平寺殿客殿正続院へ被引、則可有建立由、尤承届候」と。書状ですから年はなく11月25日と。
しかしひとつ問題が。北条氏康の書状では「客殿」とあり、「新編鎌倉志」では「仏殿」です。今の我々は、「客殿」と云われると「書院のことでしょ?」となりますが、この議論の中心人物、『円覚寺史』の主執筆者で当時東大史料編纂所助教授であった玉村竹二氏が、当時は大伽藍ではない小寺院においては、同じ建物を客殿とも仏殿とも云うことがあったと述べ、この問題も解決します。

つまり、円覚寺の舎利殿は、もとは鎌倉にあった太平寺(尼寺)の佛殿で、それを1563年(永禄6年)の火災以降に、ここ円覚寺正続院に移築したものだということです。 


次なる問題は、その太平寺はいつからあったのか。この仏殿はその太平寺でいつ頃建てられたものなのかということになります。

太平寺

さて、その太平寺とはいつから何処にあったお寺なんでしょうか。

まず場所

鶴岡八幡宮の東側を西御門と云います。東なのに西って何なの? と思われるでしょうが、鶴岡八幡宮から少し東側に頼朝の屋敷、大倉御所があり、その西門の一帯という意味で西御門と云うんです。太平寺はその西御門の南北の道の北側の東です。江戸時代の地図には高松寺と書かれている場所です。現在も西御門には来迎寺があり、その来迎寺にも土紋装飾の施された如意輪観音半跏像があります。その来迎寺のほとんど北隣。現在はテニスコートになっています。

ちなみに、この地図は明治14年の日本で最初の西洋式測量図ですので、現在の道とは少し違います。例えば横須賀線はまだありません。実は東海道線も。巨福呂坂切通は今の道ではありません。鶴岡八幡宮の右、来迎寺や太平寺に通じる道も、鶴岡八幡宮のすぐ東が師範学校、現在の横浜国立大付属小中学校になって、昔からの道は今は無くなり、グランドの東側に押しやられています。


この写真は2007年2月に来迎寺を探しに行ったときです。西御門の来迎寺の石段の脇に「太平寺跡」という鎌倉青年団の石碑があってびっくりしました。ただこの石碑、いつもそうですが、この辺というだけで此処と示している訳ではありません。この左側に少し入った先にテニスコートがあり、そこが太平寺跡のようです。

太平寺はいつからあったのか

これが少々やっかいです。結論から言うと、北条時宗の頃からあるにはあったんだと思います。
ただし舎利殿や、その中に本尊として安置されていた現在東慶寺にある聖観音菩薩立像がその当時からとはとても思えません。最初に太平寺を開いたのは妙法尼と云う方で千葉氏の細君だったとか。大休正念の「念大休禅師語録」に、この太平寺の仏堂供養の原稿が載っており、このときの本尊は釈迦如来像だったようです聖観音菩薩立像ではありません。亡くなったのは1306年(徳治元年)11月頃。これは秋礀道泉(しゅうけんどうせん)や約翁徳倹(やくおうとっけん)の語録にあります。ただしそれほど豪勢なお寺だったとは思えません。かなり小さな仏堂+庵ぐらいだったはずです。

ところでこの妙法尼。千葉氏の誰の細君だったのでしょうか。千葉氏の惣領とするなら時代的には元寇のとき異国警固番役として九州に渡り、負傷して後に死亡した千葉頼胤? それともその長男の千葉宗胤? 宗胤は1294年(永仁2年)1月に30歳の若さで死んでいますので、その妻がそれより10年以上前に出家して寺を開くというのは不自然です。その母、つまり千葉頼胤の妻が妙法尼なら下総国千田荘を領した千葉氏の一族で、そこそこ裕福な御家人千田泰胤の娘ということに。ならば北条(金沢)顕時の妻とも姉妹。鎌倉に小さな寺を建てるぐらいは出来たでしょう。大休正念が開山供養に駆けつけ、葬式には秋礀道泉や約翁徳倹が駆けつけることも納得できます。それ以外の千葉氏の一族では、下総のどこかに寺を建てることはできても、鎌倉には難しいのではないかと。

妙法尼については「念大休禅師語録」、秋礀道泉や約翁徳倹の語録以外の情報は、後世の「延宝伝燈録」や「眼裡砂」などの伝記に出てくるそうですが、「眼裡砂」によると「千葉以事在洛久也、在洛間別女」、つまり夫の千葉氏が京都に長いこと単身赴任して、あっちで女を作ってしまった。それを聞いて長き悲しみ、とうとう病気になってしまい全身に腫ができてしまった。思い立って京都に上ったら逗留先で無学祖元に出会って、「嫉妬や憎しみは身を滅ぼす。その心を捨てれば病もなおるだろう」と言われます(原文は意味不明なんだけどこう云われたとしか思えない)。それで剃髪して出家したと。もちろん無学祖元に出会って云々は伝記に有りがちな創作でしょう。空海でないだけましかと。

妙法尼が千葉頼胤の妻ならですが、「在洛間別女」ではなく、夫の赴任先は博多の戦場で、元の毒矢の傷がもとで1275年(建治元年)に37才で死にます。その妻は何歳ぐらいだったのでしょうか。そのとき長男宗胤は10歳ぐらいですから30歳前後? おまけにまだ10歳ぐらいの長男は父の代わりに九州へ。病気になるほど嘆き悲しむのはよく解ります。しかし後世に伝記を創作した人はそこまでは知らなくて、わかりやすく「在洛間別女」としちゃったんじゃないでしょうか。「延宝伝燈録」の方は思慕のあまり病気というところは同じでも「在洛間別女」ではありません。「千葉氏因事在雒」だけです。三山先生感傷に流されすぎ!

聖観音菩薩像

その次ぎに記録に出てくるのは、足利尊氏の子で初代鎌倉公方足利基氏の妻(畠山家国の娘)が基氏の死後に仏門に入り、清渓尼となってここ太平寺を中興します。既に太平寺はあったんだから中興のはずなんですが、報国寺過去帳には「建一精舎」とまるで新しく建てたかのような書き方がされています。

現在東慶寺にある聖観音菩薩立像は元は太平寺にあったものですが、非常に豪華な、当時としては最高級の金沈や沈金、土紋で飾られた観音菩薩像です。土紋は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてみられる宋風の装飾です。千葉氏は確かに大豪族ですが、しかし北条時宗の時代にはそれほどの財力は無かったはず。所帯がでかけりゃ出費もかさむというその出費の方で汲々とし、更には一族がバラバラになり、内紛の最中です。そんな贅沢はできません。すると鎌倉時代末期はなくなる。

足利基氏の正妻にして鎌倉公方二代目足利氏満の母清渓尼の隠居所の本尊ならあの豪華絢爛さも解ります。と言っても今は金箔も金泥も多くは剥脱して侘寂の世界ですが。旧太平寺跡に仏殿、庫裡などを作り、本尊も聖観音菩薩像に作り替えたと見る方が良いのではないでしょうか。すると基氏が死んだ1367年から南北朝時代が終わる1392年までの間、関東公方足利氏満の頃。京の将軍は足利義満の時代と綺麗に重なります。この時代の関東公方の母ならば、これぐらい豪華な仏像でも有りえます。その後解っている太平寺の住持は、足利持氏の娘、足利成氏の娘です。太平寺が鎌倉尼五山筆頭となったのは、こうした関東公方との縁の深さ故でしょう。

現舎利殿の建立時期は

ところで、円覚寺の舎利殿が大平寺の仏殿だったのは良いとして、かつまた、足利尊氏の子で初代鎌倉公方足利基氏の妻清渓尼が中興したあとのものだろうということも良いとして、ではその清渓尼の中興のときからの仏殿だったのだろうかという問題が残ります。

先に登場した鎌倉時代であろうと云った太田博太郎先生は、この人を抜きに建築史の歴史は語れないぐらいの大家ですが古い方です。私も『日本建築史序説』の増補第二版を持っていますが、その初版は1947年。私が生まれる前です。

その後、建築史も研究が進み、横浜国立大学の関口欣也教授は、この舎利殿は南北朝期より室町前半頃の特徴を持ち、鎌倉時代末にまで遡ることは出来ず、15世紀前半、応永(1394〜1427年)の後半から永享(1429〜1441年)ぐらいとされました。比較対象は東京都東村山市の正福寺地蔵堂です。正福寺地蔵堂は、改修の際発見された墨書銘により室町時代の応永14年(1407年)の建立と年代が確定したものです。細かい様式は解りませんが、似てますねぇ。円覚寺のこれと
今度写真を撮りに行かねば。

それにしても先に触れた1960年頃の議論では、この建築様式は1411年以降ということは有りえないだろうというのが建築史側の反応でしたが、そうなってしまいました。まあ、半世紀も昔のことですから。武士論だって半世紀前は「違うだろ!」のオンパレードでしたし。

ところでこの舎利殿が舎利殿と呼ばれだしたのはいつ頃からかは判りませんが、江戸時代の仏舎利信仰ブームあたりが怪しいかも・・・。と教えてくれたのはこの時のお坊さんです。


 2010年11月宝物風入 

仏舎利

舎利殿というと仏舎利を納めている建物のことで、仏舎利とは釈迦の遺骨のことです。もっと正確には「入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰塵」ですから遺骨とは限りませんが。

今の舎利殿がいつ何処から来たかは解明されましたが、納めてある仏舎利はいつ何処からここ円覚寺に来たのでしょうか。無学祖元の塔所たる正続院が、後醍醐天皇の命により建長寺からここ円覚寺に移ったときに、以前からあった舎利殿の建物を正続院としたようですから、おそらく鎌倉時代からここに舎利殿があり、故に仏舎利もあったということは言えそうです。

円覚寺の仏舎利は実朝が中国の 能仁寺からもらったという伝承があり、最初は大慈寺に置かれ、北条直時の時にここ円覚寺に移されたという伝承がありますが、出所は「新編相模国風土記稿」、と思いきや、それが参照したらしい「萬年山正続院仏舎利略紀」という文書らしいです。で、この文書がいつ誰が書いたものなのかは確証はないのですが、どうも南北朝末の頃で、問注所の記録に基づいて記したとあるとか。

中国の能仁寺からもらったのかどうかは解りませんが、実朝が建てた大慈寺に仏舎利があったことは確かなようす。無学祖元同様南宋より招かれた大休正念が、寿福寺住持の頃に「大慈寺舎利会上堂」の法語が3回も記録に残っています。上堂というのは住職が法堂などで、その寺の僧に対して行う講義のようなものです。大慈寺に仏舎利があり、舎利会が行われていたことは確かでしょう。
かつまたその大休正念が円覚寺の住持となった年、1285年(弘安8年)に円覚寺で「安奉仏舎利上堂」を行っています。大慈寺の仏舎利を移したとは書いてありませんが、その可能性はからりありそうです。もちろん今の国宝舎利殿ではありませんし、その頃の仏舎利は足利義満が京都の相国寺に移しています。

もっとも鎌倉には義満の知らなかった仏舎利はまだあって、2008年に金沢文庫は称名寺光明院に所蔵されている高さ20cmほどの平安初期の弥勒菩薩の修理の際、その体内から東寺と室生寺からのそれぞれ4粒の仏舎利(米粒ほどの貴石)が発見されたと発表しています。それが入れられたのは鎌倉時代であろうと。同じく金沢文庫の修理で運慶作と判明した大威徳明王像内のハスの実にも一粒の仏舎利と思われるものが埋め込まれています。それだけでも計9粒ですから、鎌倉時代の鎌倉にはもっと多くの仏舎利が来ていたことになります。

しかしそれが判ったのはここ数年のこと。ただしここで室生寺が出てくるところがちょっと気になります。元寇の頃、安達泰盛が室生寺の塚から仏舎利を盗掘させて、その一部を称名寺が貰っています。まさかそれでは。
というか、金沢文庫の見解はそのようですね。おまけに石の種類が大陸のものではないようです。

円覚寺舎利殿に納められているのは多分一粒なんですが、実は日本だけでも沢山あります。空海が中国から持ち帰ったという甲乙の2つの壺に入れた仏舎利と伝えるものが東寺にあり、多くはそこから配られたようです。東寺百合文書の中に「北畠親房仏舎利奉請状」というのが残っています。簡単に言うと仏舎利の受領書なんですが、それによると、後醍醐天皇が37粒、それとは別に北畠親房が2粒もらっています。


正中元年12月14日ですから正中の変の直後ですね。
この仏舎利で関東(鎌倉)調伏の祈祷でも行ったのでしょうか? 
えっ、鉛筆書きの跡が見えるって? 気、気のせいで御座いますよ。
(;^_^A アセアセ…

東寺にはいったい何粒あったのでしょうか。室生寺にも沢山あったようですね。でも、空海が持ち帰ったのは40粒のはず。そこから室生寺にも分けてるのに、後醍醐天皇と北畠親房が合計39粒っておかしいんじゃない?
学者さんに聞いた話では東寺の甲乙2つの壺の仏舎利は増えたり減ったりするんだそうです。あげたのは別にしてですよ。勘計状と云って、時々その数を数えて記帳するんですが、増えてるときは天下がうまく治まっている証拠つまり吉兆で、減っているときはよくないことが起こる前触れとか。不思議な話ですね。
学者さんは「割れたんじゃない?」と。いや、増える説明にはなるけど、減った方はどうすんだよ!
と言うツコミはあとで思いついたんですが・・・。割れすぎて砂になった?

円覚寺の仏舎利は知りませんが、仏舎利といわれるものはガラス(奈良時代からガラスはあります)や石(石英とか宝石なども含む)などの代替仏舎利が多いそうです。東寺の仏舎利が増える理由は知りませんが、代替仏舎利はこっそりと水増ししているとは限らず、中国の段階から高僧が石英、真珠、水晶などを持って、「真骨」とされるものの前で供養すると、それらが仏舎利の代替品になるんだそうです。それらも含めて全世界で2トンの仏舎利があるとか。桁違いに高級なお札のようなものと思っていればよいのかもしれません。

最近見つけたネット上の真宗大谷派の紫雲寺サイトです。
仏教夜話・5 仏舎利異聞 その前の1〜4話は・・・、日本の恥ですね。

2013/3/18 追記