2013年夏 東慶寺・縁切寺の今昔展講演会 |
2013.8.31 追記 東慶寺で開催中の「縁切寺の今昔(いまむかし)展」の記念講演会が7月28と8月18日の2回に渡ってありました。講師は高 木侃先生。お題は7月28日は「世界に二つの縁切寺」、8月18日が「三くだり半の世界」です。ここではその2回をまとめて、かつ私の関心にそって話を進めることにします。 江戸時代の離婚制度
書院の前には「縁切寺の今昔展記念講演会・会場」の札が。 江戸時代の離婚制度といっても庶民での話です。武家社会は別です。 江戸時代の離婚そのイメージ東慶寺の縁切寺法を理解するには、まず「三くだり半の世界」への大まかな理解が必要だと思います。というのは、当時の結婚・離婚制度とその実態をすっ飛ばして東慶寺の縁切寺法を説明しようとすると、とても大きな誤解を生んでしまう。 たとえばネット上で「縁切寺」を検索するとトップに出てくる「縁切寺-Wikipedia」には「夫側からの離縁状交付にのみ限定されていた江戸時代の離婚制度において」とあります。文章に間違いは無いんだけど。でもこの言葉からイメージされるものは何んでしょうか。 「縁切寺とは-コトバンク」の方は、平凡社『世界大百科事典』での記述を紹介しています。 このあたりの研究では今回の講師高木侃先生が第一人者です。しかし高木先生は「カカア天下」で有名な上州は縁切寺満徳寺資料館の名誉館長さん。上州バイアスがかかっているかもしれませんねぇ。念のため他の人も証人に呼んでみましょう。一人目の証人は幕末から明治にかけての日本の庶民の女房を観察した外国人(アメリカ人?)ベーコンさんの証言です。
どうやら上州だけのことでは無かったようです。 法のタテマエと実態公の世界と家族生活の実態と同様に、法のタテマエと実態も大きく乖離しています。表面的な縁切寺の記述では、そのあたりの説明がすっぽりと抜け落ちているのがほとんどではないでしょうか。 たとえば心中は片方だけ生き残ったら「下手人の刑」(死刑)、両方生き残ったら「三日晒、非人手下」です。法のタテマエでは。しかし実態はどうかというと、生き残った本人が心中するつもりだったとお役人に言っても、お役人は一生懸命説得して「死ぬつもりはなかったが誤って」という調書を仕上げます。 妻の不義密通なんて最もいけないこと。法律上は死罪です。しかし密通がバレても、ほとんどは元の鞘に納まるか、あるいは先の「仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済離縁」、つまり示談による離婚になっています。夫が訴え出た場合でも、役人に説得されて「夫疑相晴、申分無之」と記録に書かれて訴えは下げられ、内済離縁で決着する場合がほとんどだそうです(高木1992 pp.233-235)。本当に「疑相晴」なら離縁にはならないでしょう。変な話ですよね。 その件について二人目の証人に登場して頂きましょう。『相模原市史』の編集に携わっていた『相模野に生きた女たち』の著者長田かな子さんです。同書のサマリはWeb版「有鄰」で見ることができます。
「二人とも殺された」とは、上溝村組頭の家で孫嫁が下男と浮気の真っ最中に夫にみつかり、その場で二人とも殺されてしまったという事件です。訴えられて死罪になった訳ではありません。
Web版「有鄰」にはその後のことまでは書いてありませんが、後にこの青年は許されて村に戻っています。もうひとつ。
長田かな子さんは「"許すから帰って来いよ"とほのめかしているようだ」と書かれています。そうかもしれません。しかしそうでなくともそう記録されるでしょう。このあやしげな僧はどのみち放火で死罪でしょうが、妻の方は夫が「不義密通は事実」と言ってしまうと死罪になります。元々夫は訴えずに離縁(内済)にしようとしているんですから、火盗改の取り調べで「妻はあの男と密通してました」などと言う訳はない。仮に云ってしまったとしても「密通」は火盗改の守備範囲外。町奉行所だって訴え出た夫を説得して「夫疑相晴、申分無之」にするぐらいですから、火盗改は夫に「お前はその現場を見た訳ではないんだな?」「噂だけだろう!」と誘導するでしょう。 ちなみにこの『相模野に生きた女たち』の第三章「結婚と離婚」の最後の節は「『女大学』の教えを守らない農村の女たち」です。町屋の女達だって守ってないですけど。江戸時代ほどホンネとタテマエの落差が激しい時代は無かったと佐藤常雄先生も書かれています(佐藤1995 p.118)。 「公事方御定書」以前「公事方御定書」からの離婚先の『世界大百科事典』にもあるとおり、「形式上妻は夫から離縁状を受理することが必要」であり、離縁状は夫が出すものとされていました。ただし、江戸時代と一言で言っても300年間もあります。一般に「江戸時代には」といわれるのは、江戸時代後半、あるいは江戸時代中期以降です。『世界大百科事典』の記述もしかり。本当は江戸時代のいつ頃? というのを頭に置かなければなりません。アバウトにでも。 耕地面積でいえば室町中期を1とすると、江戸時代初頭が1.7倍。江戸時代中期の享保頃(1716-1735)には3倍(佐藤1995 p.31)とか。つまり江戸時代になってから100年強の間に2倍近い増加があったことになります。人口増加は2倍強とか。その頃、衣類も麻から木綿に代わり、さらに絹が農村にまで浸透してゆきます(渡辺2009 pp.32-37)。農具の改良も進みます。元禄時代(1688-1704年)に発明され「後家倒し」との異名まで持つ千歯扱は有名ですね。綿実からの搾油と精製法の発明で、武士・公家だけでなく庶民までも夜に明かりを灯すようになりました。 その享保の改革の目玉のひとつが「公事方御定書」です。その特徴は、旧来の慣習法を下敷きとしながらも、これを規律化して公権力の制定法の中に取り込み、少なくとも刑事については社会の諸団体が伝統的に保持していた刑罰権のようなものを否定して公刑にシフトさせるというものです。(笠谷1994 p.155) 旧来の慣習法をそのまま下敷きとしている部分には「従前々之例」とあり、全103ヶ条502項の内、1/4ほどを占めています。(笠谷1994 p160) これ以前には「武家諸法度」レベルは別として、はっきりとした法規定はありませんでした。問題がおこればその都度前例を参考にしながらお裁きを下すというものです。その前例も公に整理されていた訳ではなく、事務方担当者が自分だけの為に知りえた範囲をまとめていたというものです。そしてこの「公事方御定書」は幕末まで幕府法であり続けました。 その「公事方御定書」の定めでは「離別状取らず、他へ嫁候女、髪を剃り親元へ相帰す」。つまり新しい夫との結婚は認められず、新しい夫も取り持った者も過料(罰金)です。ただし、「親元 へ相帰す」ですから元の夫の処に戻される訳ではありません。「髪を剃り」とは剃られた髪が元の様になるまでの約3年が事実上の再婚禁止期間とも云えます。 「公事方御定書」は、吉宗がその作業を命じたのは1720年(享保5年)正月。初版は1742年(寛保2年)ですが現存せず、残っているのは1753年(宝暦4年)までの追加を含むものです。1742年に突然法律改正されたものと云うより、18世紀に入ってからの判例を取捨選択してまとめ、承認、または変更したものです。先の「髪を剃り親元へ相帰す」は「従前々之例」で、1721年(享保6年)の判例が元になっています。 17世紀も元禄頃、1691年とか1694年とかの判例はそれよりもずっと厳しいもので、妻が離縁状無しに他の男と一緒になると「重婚(二人夫)」として死罪でした(高木1999 pp.46-48)。妻は夫から離縁状を取らないと大変なことに。もちろん夫も離縁状を出さずに再婚すると「重婚(二人妻)」で大変なことになりますが、死罪ではありません。 だだし、あらかじめお断りしておきます。 縁切寺話題の中では目立たないのですが、離縁状が浸透していない、使われていない地方もあります。中国、四国、九州など外様大名の支配地が多い地方です。なので幕府法だけで江戸時代の法律の実態を判断するわけにはいきません。でも幕府法以外は断片的にしか解らないんです。厄介ですね。 妻方からの離婚妻の方からは離縁を言い出せなかったのかというとそうでもありません。最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものだそうです。内容からは家が傾き、夫が1両の趣意金を受け取っていることから、妻方からの要求による離縁のようです。話がつきさえすれば離婚できたのです(高木2001 pp.98-99)。 実物の最古は1696年(元禄9年)ですが、写しなら1686年(貞享3)の離縁状が福井で見つかっています。 問題は話がつかなかった場合です。夫ががんとして離婚を拒絶するとかなり困難です。でも完全にどうしようもない訳でもないようです。高木侃先生は「律令要約」には妻方からの離婚に関して5つの条項があると書かれています(高木1999 pp.62-71)。 「律令要約」とは江戸時代の「公事方御定書」編纂課程で、直前の1741年(寛保元年)北条氏長が先例・慣習をまとめた判例集のようなものですが、1742年(寛保2年)の「公事方御定書」制定以前の先例・慣習というところに大きな意味が。離縁に関する限り「公事方御定書」とかなり似たニュアンスです。 1番目には、先の「四谷怪談」の「母の形見の櫛や女房の着物や、蚊帳までも金に換えてしまおうとする伊右衛門」の様なことをしたら「不縁(離婚)の事、舅(妻の実家)の心次第たり」とあります。それは当時の常識で、民法ながら違法です。だから歌舞伎の四谷怪談を見た江戸の町人は、「あ〜伊右衛門てなんて非道いやつなんだ」となる訳です。 2番目は「女房親元え帰りおり候儀、三、四年過ぎ、夫訴え出ずるにおいては、願いおくれ、(訴えは)立ち難し」。3番目は「離別状遣わさずといえども、夫の方より三、四年進路致さざるにおいては、例え嫁し候とも、先夫の申分立ち難し」です。 その4番目に「夫を嫌い、髪を切り候ても暇取りたき由申」すときは「比丘尼にして縁を絶つ」というのがあります。そもそも出家とは俗世間と縁を絶つことですから嫌いな夫との縁も切れます。でも出家してしまっては他の男とも結婚できません。 鎌倉時代には失恋で尼になった後に藤原為家の妻(同棲?)となって冷泉為相を生んだ『十六夜日記』の著者阿仏尼なんて人も居ますが。阿仏尼は鎌倉にも深いご縁のある方です。その孫、つまり冷泉為相の娘は鎌倉幕府八代将軍久明親王に嫁ぎ、久良親王を生んでいます。その屋敷は確か東慶寺の隣ぐらいだったような。なんかの古地図で見た覚えがあります。 それとは別の5番目に「夫を嫌い、家出いたし、比丘尼寺へ欠入り、比丘尼寺へ三年勤め、暇出で候旨訴うるにおいては、親元へ引き取らす」が東慶寺や満徳寺に相当する訳ですが、それが東慶寺や満徳寺に限ると記録に現れるのは「律令要約」や「公事方御定書」よりも後です。こちらは「比丘尼にして縁を絶つ」とは異なります。「親元へ引き取らす」とは離婚成立で、そのあとは別の男と結婚出来ます。「三年勤め」後ですが。 ただし17世紀末、1688年(貞享5年)2月14日の幕府の判決では、不届きではあるが、足掛け三年の間、比丘尼を務め、東慶寺から離婚の旨訴え出れば、離婚だけは認める。ただし妻の再婚は禁止でした(高木1992 p.128)。つまり4番目はあっても5番目は無かったと。5番目が認められだしたのはいつ頃なんでしょうか。1688年より更に昔は4番目すら認められませんでした。お上に訴え出た場合ですが。あれ?4番目すら認めないという判例が1692年(元禄5)にもあるようですね。こういうバラつきから「公事方御定書」の編纂が始まったのでしょう。 それにしても5番目はいつからなんでしょう。後で出てくる寺社奉行永井伊賀守云々の話からは、1700年以前から東慶寺への駆け込みはあったようです。また離縁状の実物ではなくて写しなら1680年代から東慶寺がらみの内済離縁状が見つかっているそうです。 縁切寺三年勤の背景「比丘尼寺へ三年勤」で縁切りというのが1741年以前に慣例とされた下地は何んでしょうか。 2番目は1729年(享保14)の、3番目は1734年(享保19)の判例が元のようです。ただしこの頃すでに幕府支配地においては離縁状を必須としていましたから、奉行所は夫に離縁状を妻方に渡すよう命じています。 縁切寺は男子禁制で、夫が入り込めない処に駆け込まれたんですから「三、四年進路致さざる」は夫の責任ではありません。でも、三も四年も会ってないなら、もはや夫婦とは言い難いというのが社会通念、誰もが(夫以外は)納得したということでしょう。 実は縁切寺への駆込みで「内済離縁」が多くなったのは寺法の手順が確立された江戸時代後期らしいです。幕府が縁切寺法をバックアップしたのも江戸時代後期。もしかしたら、最初の頃は単に男子禁制の比丘尼寺が駆け込んだ女房を三年間匿い、「三年も会っていないんだからもう夫婦ではない、これは世間の常識だ。おまけに当寺の寺法である!」ということだったのでしょう。下地となる「三年も会っていないんだからもう夫婦ではない」と云える社会的コンセンサスはあったはずです。 ところで、この「律令要約」は先に述べたように1741年(寛保元年)以前の先例・慣習です。そこには「比丘尼寺へ三年勤め」とあります。我々は3年イコール36ヶ月と考えますが、しかし当時はそうではないようです。先にちょっと触れた1688年(貞享5年)2月14日の幕府の判決に「足掛け三年の間、比丘尼を務め」というもの(高木1992 p.128)があります。東慶寺では24ヶ月で寺を出られたというのはその幕府の判決からでしょう。「三年」は「足掛け三年」、24ヶ月と。 年齢の数え方が、今では零歳から始まる「満何歳」なのに対し、当時は「1歳」から始まる「数え何歳」であったのと同じようなものでしょうか。 「夫の手に負えぬ場所」への駆込、「縁切奉公」1回目の講演会のあとの宝蔵でのギャラリートークのときに、「関東には二つの縁切寺があったからよいとして、他の地方ではどうだったんでしょう?」という質問があり、高木先生がお答えになっていましたが、実は二つの縁切寺以外にもいろんなところへ駈け込んでいます。 代表的には武家屋敷です。要するに農民、町人にとっては「権威の有る処」、「夫の手に負えぬ場所」ですね。「縁切奉公」と云って、夫に手出しできない武家屋敷などに奉公し、三年経ったら再婚して良いという慣行が法だったようです。「三年も会っていないんだからもう夫婦ではない」という訳でしょう。 この文脈には「離縁状」は出てきません。つまり証文のある「内済離縁」ではありません。実は東慶寺でも初期の頃は離縁状は出させていなかったようです。その段階では東慶寺も満徳寺も数ある「夫の手に負えぬ場所」のひとつだったといえます。 江戸時代前期には「武家屋敷駆込慣行」というこのがありました。「当時の武家社会には、喧嘩の場で相手を討ち果たした人物が庇護を求めて駆け込んできたときには、屋敷の主は追手からこれを匿う」ことが慣習上認められていたというものです。 これで思い出すのは荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘の前段ですね。岡山藩で同僚を殺した犯人が江戸に逃げて旗本安藤家にかくまわる。藩主池田忠雄は又五郎の身柄引き渡しを求めたが拒まれたというあれです。武家屋敷は治外法権と。平安時代でも堀之内(屋敷地)は国司といえども治外法権です。中世以来の慣行ですね。 「喧嘩の場で相手を討ち果たした」とは平たく云えば「殺人犯」。それに比べれば武家屋敷への駆け込み「縁切奉公」など小さな話です。 ところが「公事方御定書」編纂委員会は、治安維持の観点から「火付」、「盗賊」、「追剥」などを匿ったら死罪。「喧嘩の場で相手を討ち果たした」者を匿ったら「追放」という原案をつくりました。しかし将軍吉宗の「武士之上にも間々有之事に候。急度叱可申事」。つまり、喧嘩の場で相手を討ち果たした者」は火付、盗賊、追剥などとは違う。義によってそれを匿うことは古来より武家の慣行でもある、ある程度は容認して、実害の無い「急度叱り」ぐらいで良いだろうとなったらしいです(笠谷1994 pp.157-158)。 治外法権はなるべく制限したい。ただ旧来の慣行もある程度考慮にいれると。これは離婚したい女房の武家屋敷への駆け込み、「縁切奉公」の禁止と、ピッタリではないですが時期的に付合します。「急度叱り」程度ながら禁止はしておくという、ちょっと腰の引けた幕府の態度を「縁切」に投影すると、縁切寺は東慶寺と満徳寺に限る、他はダメだと云ったことを思い出します。 縁切寺が東慶寺と満徳寺に限られた時期縁切寺は東慶寺と満徳寺に限るとの寺社奉行所の発言が満徳寺関連文書に記録されたのは1762年(宝暦12)です。東慶寺所蔵の文書に限れば、内済離縁が現れるのは1777年、その次は1814年です。それから段々と内済離縁が現れだし、幕末にはほとんど内済離縁になります。 東慶寺では駆込の記録そのものが1711年からしかなく、それも詳細不明。次は1732年です。実は東慶寺所蔵文書以外にも東慶寺関連の内済離縁状が見つかっており、中には17世紀末のものもあるようですが、残念ながらその詳細は知りません。 「公事方御定書」以前の幕府法の転換点東慶寺が離縁状を取るようになったのは東慶寺が離縁状を取るようになったのは1700年前後です。というのは、1745年(延享2)に東慶寺の寺役人が寺社奉行に提出した寺例書にこうあります。
永井直敬が寺社奉行であったのは元禄7年(1694年)から10年間です。 幕府は「出入りに及」ぶこともあるような離縁のゴタゴタの解決策として、離縁の証文、離縁状を重視するようになったのではないでしょうか。ちゃんと話をつけろ。証文を残せと。 この「出入り」って何ですかね。「ヤクザの出入り」みたいな「騒動」をイメージしたんですが、でも幕府の裁判で民事訴訟を「出入筋」というし。そちらの意味かと。 江戸時代中期以降は、「縁切奉公」先の多くは「駆け込まれたら迷惑だから受け付けない」と表明はしています。 年代としては1704年(宝永元年:前橋藩)から1786年(天明6年:小諸藩)ぐらいまでの間です。ちょうど東慶寺が「寺社奉行永井伊賀守に仰せつけられて以来、縁切証文並びに親元の証文を差し置き申す」という「その仰せ付け」以降です。附合しますね。 それまでの「慣行」の効力が薄れてきたのでしょうか。東慶寺や満徳寺はその段階でも「駆け込み受付け」が公に認められた例外ということに。東慶寺や満徳寺が特別な縁切寺になったのは江戸時代中期以降のような気がしてきました。 東慶寺に伝わる、8歳の天秀尼が、家康に「何か望みはないか」と聞かれて、「開山以来の御寺法を断絶しないように」と願ったという話は、江戸時代中期頃の寺社奉行の圧力に対抗するために作られたと考えるのが自然でしょう。満徳寺の「千姫の旧夫秀頼との縁切りの為、その侍女が身代わりに満徳寺に入った」話も同様にその頃に作られたのではないかと。なぜなら、それ以前には両寺が幕府・寺社奉行にことさらにそんなアピールをする必要が無かったからです。 幕府が「旧来の慣習は止め!」と言い出したときに、幕府に縁の深い二つの尼寺が「権現様お声掛かり」、「東照宮様御上意の寺法」、「千姫様の前例により」と言い立てるので、寺社奉行も、「ええい、しょうがない。東慶寺と満徳寺は認めるが、しかし旧来の慣習(アジール)はその2つに限る」ということになったのではないでしょうか。 でも東慶寺や満徳寺以外の「夫の手に負えぬ場所」はタテマエでは「受け付けない」でも、実際に駈け込まれたら、夫や妻の実家、その村の名主などの村役人、町役人を呼びつけて「離縁状を出させてやれ!」と半強制的に「内済離縁」を成立させます。「夫の手に負えぬ場所」はそれなりに機能していたようです。 江戸時代ももうちょっとで終わりという1858年(安政4年)に、相模国淵野辺村から、東慶寺でなく江戸の地頭所(領主である旗本の屋敷)へ離縁を訴えて駆け込んで、「内済離縁」を勝ち取った女房がいます。(長田2001 p.128) 離縁状っていつから2回目の講演会のとき「離縁状っていつから出てきたんでしょう」と質問させて頂いたのですが、ちょっと質問の仕方が悪かったです。「離縁状が法的な要件となったのはいつごろか」というのが質問の意図です。 確かに戦国時代の奥州伊達家の分国法「塵芥集」にも離縁状が出てきますが、それだけが証拠という雰囲気ではないんです。先の東慶寺の寺役人が寺社奉行に提出した寺例書にも1700年前後までは「離縁証文も差し出させず」とあります。なので「公事方御定書」以前の元禄年間(1688年-1704年)から「離縁状が法的な要件」、渡さなければならないものになった。つまりもうひとつの幕府法の転換点があったのではないかと思ったのですが。
「妻が離縁状無しに他の男と一緒になると死罪」というほど強烈なニュアンスはありませんが。 私はこのあたりに土地勘は無いんですが、17世紀後半は農民層においても「家」が一般的に成立した時期と言われています(鈴木1994 p.67)。こう書くと「えっ?」と思われるかもしれませんが、ここでいう「家」とは「家名」「家産」「家業」の単位で、それを親から子へとつないでいくということ。嫡男による単独相続。家督を継ぐというあれです。もっと単純に言うと、夫婦になって、例え建坪5坪で、土間に莚であろうとも、独立した家を持ち、子を産み育て、家と田畑を相続させられるようになったと。小農の自立でもあります。 それ以前はどうだったんだって? 大石先生が書かれていますが、先に触れた戦国時代奥州伊達家の「塵芥集」などには子供の分配を決める項目があるそうです(大石1995 p.4)。男の子は父親の主人が、女の子は母親の主人がとるとか、10〜15歳まで育てたら、育てた方の親の主人がその子供をとるとか。どっちの親がではなくて、どっちの親の主人がです。子供の親は夫婦として独立した家に住んではいないということです。親も子供も主人の所有物だと。 江戸時代になるまでは、離縁状なんてあったとしても、「家」を形成出来た上層階級に限られたんじゃないかと思います。江戸時代前半での人口急増の背景を表す言葉のひとつに婚姻革命なんてのもあるそうですが、結婚できなければ離縁状なんて関係ないですもんね。その江戸時代の初頭に小農の自立が進み、少しづつ豊になる。和泉国の豊田村の例では、1644年(寛永21年)から1662年(寛文2年)までの約20年間だけでも建坪5坪は少なくなり、母屋の建坪はひろくなって別棟の家屋も増えているんだそうです(鈴木1994 pp.78-80)。 小田原藩のお触れの頃には、宗門人別改帳の作成や諸国山川掟の制定もありました。農村に家が確立し、段々と法整備がなされ初めた時代と云えるのかもしれません。 幕府の方針を想像するに想像の範囲が半分ですが、幕府の方針をまとめてみましょう。
結果は?
若干の妥協はありますが、結構うまくいったといえるのではないでしょうか?
離縁状離縁状の要件ここでは「縁切状」に統一しますが、近畿では「暇状(いとまじょう)」、「隙状(ひまじょう)」、他の地方では「手間状」、「縁切状」、「去状」と呼ぶこともあるそうです。 離縁状の要件は一般に二つです。離婚の確認と、再婚許可。95%はその両方が書かれていて、片方しかないのは5%。そしてその片方とは、1対2ぐらいの割合で再婚許可だけの記載が多いそうです。つまり再婚許可の記載のあるものは98%以上。記載のないものは2%以下ということになります。離縁状とはつまり「今後誰と再婚しても自分は構わない」という証文ですね。 1742年(寛保2年)の「公事方御定書」では「離別状取らず、他へ嫁候女、髪を剃り親元へ相帰す」で、新しい夫との結婚は認められません。17世紀末頃の判例では、妻が離縁状無しに他の男と一緒になると「重婚(二人夫)」として建前では死罪です。夫も離縁状を出さずに再婚すると「重婚(二人妻)」で、死罪ではありませんが大変なことになったというのは見てきたとおりです。 でもこれって、別れただけで双方とも再婚しないなら別に離縁状なんて無くても良かったということになりますよね。離縁したら普通は再婚するものと誰もが思っているから、そのときのトラブル回避のために離縁状が必要になるという訳です。 死罪云々はそう言って脅して離縁状を浸透させようという側面の方が大きかったのではというのは深読みのしすぎ? 1742年(寛保2年)頃には浸透してきたので「公事方御定書」は死罪を緩和したとか。まあこれは真にうけないで下さい。 例文集の離縁状「例文集」にも離縁状が沢山出てくるようになります。その定型文言で有名なのが離婚理由での「我等勝手に付」です。「我等」は複数に見えますが、当時この言葉は単数にも複数にも使ったとか。この文言からかつては夫は勝手に妻を離婚できたと思われていたようです。それは違うだろう、と言い出したのが今回の講師である高木先生です。 その「我等勝手に付」は「例文集」では第一位で10冊なんですが、その次が「手前存寄有之候て」「双方熟談の上」「不熟に付」で3冊づつ。「拠無き子細」が2例です (高木1992 pp.52-53)。 本物の離縁状「例文集」でなくて本物の離縁状ではどうかというと、実は離縁事由が書かれていないものが一番多い。そこからも、離縁事由なんて本当のことは書かない。書いてもあたりさわりのない文言で、ということがわかります。 実例にも多い「不縁に付」「不熟に付」なんて、現代での「性格の不一致」同様に何も言っていない。また「相対・相談」「熟談・示談」なども結構ありますが、それって離縁の原因とは違うでしょう、なんて。 すでに見てきたとおり、離縁状は後々の妻の再婚のための証文ですから、離婚理由を具体的に書くことは通常避けます。「勝手」の意味を、今では「自分勝手に」「勝手きままに」ととらえますが、当時の使い方としては「都合により」ぐらいの意味です。 高木先生は「今だって退職願いに ”一身上の都合により” と書くでしょ。”給料が安いから” とか ”横暴な上司でやってらんないから” とは書かないでしょう」と。わかりやすい。 もちろん、離婚理由を具体的に書いたものもあります。例えば不義密通で、再婚許可にも密通相手を除きと書いてあるものとか。あと変わったものでは「客が来ても挨拶もしないから」とか。商売に熱心でないからとか。 婿養子の解消でも夫からの離縁状がさて、「形式上妻は夫から離縁状を受理」の例ですが、ひとつは婿養子です。養子縁組の解消権は養父にあります。で、養父が「この婿養子はダメだ」、と養子縁組を解消すると、普通はその家の娘との結婚も解消されます。しかしこの場合でも夫から妻への離縁状が必要とされたようです(高木1992 pp.60-61)。これは「任意」ではなく、養父は養子から娘への離縁状を取らないと、お上から「不念」として譴責されたそうです。ところがその夫からの離縁状にも「此度我等勝手に付、離縁致し候」(高木1999 pp.367-368)です。「去状を、書くと入婿おん出され」という川柳があるそうですが、泣きの涙で無理やり書かされる離縁状の文言が「此度我等勝手に付、離縁致し」ってとっても変ですね。本当は「あんたらの身勝手で」と書きたい処でしょうが。 まあ中には「清々したぜ!」と出ていく婿養子も居たかもしれませんが、ほとんどは泣きの涙でしょう。 われわれが江戸時代の離縁、離縁状に抱いていたイメージは、実例を細かに見ていくと、そのほとんどは崩れ去ってしまいます。先入観って怖いですね。目を曇らせます。 夫は離縁状さえ渡せば離縁できたのか夫は離縁状さえ渡せば離縁できたのかというと、そうではなさそうです。妻が離縁状の受け取りを拒否した例が。だからと言って「別れたくない」ととりすがった訳でもないのですが。妻は実家に戻ったのですが、どうも妻の母が不承知だったようです。何で不承知だったのかは判りません。で、夫はしょうがないのでそのまま放っておいた。そうしたら、今度は妻に再婚話が出てきたのか、別居状態の夫に離縁状をくれと言ってきた。なんて身勝手な!と夫は怒ります。最後は仲介が入り、妻方から銀10匁を払って決着するんですが。 妻からの離縁状妻方から夫へ離縁状なら何通もあります。名義人は妻の父、つまり夫の養父です。養父が亡くなっていた場合には養母からというのもあります。しかし、「妻方から夫へ」でない「妻から夫へ」の離縁状の写しが2009年に見つかっています。原文と現代語訳はこちら。 こちらの方は「その時代の封建的な権威主義を担った家長の絶対的・権威主義的支配権が娘とその婿養子に強制し、仕組んだ離縁とそれを成立させると同時に世間体を守るために妻ふじと娘婿満平にそれぞれ書かせた離縁状であって、江戸時代の男尊女卑の風習に反した女性主導の離縁ではないという解釈となる。」などと書かれていますが、どうですかね。 まず「封建的な権威主義を担った家長の絶対的・権威主義的支配権」なるものに微塵も疑いを持っておられないようです。実態はそうではなかった、実に多様であったという逆の研究が沢山あります。本稿でも高木先生以外にお二人の証人に登場願っています。 この離縁状の写しが非常に珍しいのは、実態の世界がタテマエの世界の証文にまで現れてしまったということだけです。ネット上の記事には出ていませんが、この女房は質屋の女主人だそうです。趣意金百両ですから相当な実業家でしょう。 離縁は感情に始まり勘定に終わる?次に、夫は「自分勝手に」「勝手きままに」は離縁出来なかったという理由のひとつには妻の財産の返却と、趣意金の問題もあります。 当時の結婚・離婚は当事者だけの問題ではなく、両方の家とか、五人組とか村役人とか関係者がいろいろといます。なので「勝手きままに」ではなくて、妻が持ってきた着物その他の嫁入り道具は妻方に返却しなければならないし、持参金は相談なんでしょうが、夫が言い出した場合は返さなければならないことが多い。逆に妻方から言い出した離縁なら持参金は放棄。 川柳に「にげてきて つまるものかと里の母」というのがあるそうです。要するに、こっちから離縁したんじゃ持参金が取り戻せないじゃないか。どうせ別れるならあっちに言わせて持参金を取り戻してこい、ついでに趣意金も取ってやれと? 怖いですねぇ(ブルブル)。 夫は勝手きままに、カッとなって「出ていけ!」と言ったら、妻の嫁入り道具だけでなく、持参金があった場合には耳をそろえて、それがない場合でも趣意金を用意しなければならない。 逆に妻が「あんたなんか顔を見るのも嫌!」と飛び出した場合には、夫に趣意金を払わなければならない。頼る実家も金もない妻は離縁を実現するために年季奉公に出て、その前金を趣意金として夫に払うなんてこともあったようです。 タテマエな幕府法の表面だけ見ててもダメなんですね。昔は石井良助先生が「夫専権離婚説」を唱えたこともあり、今でも端折って縁切寺の説明をしようとするとそうなってしまいがちなんですが、こうして離縁状の例を見るだけでも、だいぶイメージと違うということが判ると思います。 内済離縁高木先生のご本によると、「縁切奉公」、つまり離婚の既成事実化よりも、離縁状を書かせる「半強制的な内済離縁」にシフトしているようです。1796年(寛政8年)の離縁状無き妻の再婚の訴訟事例では法律上は「髪を剃り親元へ相帰す」はずなのに、内済離縁で決着しています。(高木1999 pp.50-53)
村から見た内済実は江戸時代というのは平安時代末期から戦国時代まで続いた在地領主制を廃止して、「士農工商」で「士」と「農工商」を分離した上に成り立っています。単に身分の分離だけではなく、武士は城下町に住み、農民の社会は「村」で、その村には武士は住んではいないという処が重要です(例外は有りますが)。 名主というと、代々世襲のイメージが強いかもしれません。先に在地領主制を廃止してと書きましたが、私の知っている範囲でも在地領主が武士を止めて名主となった例がいくつかあります。上州上野村の黒澤家は小田原北条氏に仕えていた武士でもある小領主(土豪)が北条氏の滅亡後に武士を止めてその地の名主(大総代)になったものですし、遠州の黒田家は、高天神城小笠原氏配下の武将・武士・在地領主でしたが、武田勝頼に高天神城を落とされたときに帰農しています。倉敷のアイビースクエアは倉敷紡績所の工場跡地ですが、江戸時代には倉敷代官所。更にその前の室町時代末期から戦国時代には、ここは小野ヶ城と言って小規模ながらも戦国武将、在地領主の館だったところです。その小野氏は武士を捨て、館を幕府の代官所として差出して倉敷村庄屋になりました。1711年(正徳元年)の宗門帳には 高176石とか。すごいですね。自営農の平均は10石ぐらいです。 でもそんな例ばかりではなく、名主は1年ごとの持ち回りで、選挙で決めるなんてことも多かったようです。これはちょっと意外。それが目立たないのは、旧家で世襲の名主の家の方が古文書がたくさん残っているからだそうです。 その村の中でのもめごとは勿論、村と村とのもめごとでも、基本的には仲介者をたてるなどして話し合いで納めます。例えば信州のある村の「村中一統申合定書」には「村方の困窮者を良く見極めて救済すること」などと一緒に「訴訟や喧嘩口論は決して行わないこと」が上げられています。今ではあまり良い意味では使われない「ムラ社会」とは、その村落共同体の独自のルールによる自治のことです。「農民の内で済ます」、これが「内済」だと思っていれば取り敢えずは良いかもしれません。 幕府から見た内済
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