2013年夏  東慶寺・縁切寺の今昔展講演会  

2013.8.31 追記 

東慶寺で開催中の「縁切寺の今昔(いまむかし)展」の記念講演会が7月28と8月18日の2回に渡ってありました。講師は高 木侃先生。お題は7月28日は「世界に二つの縁切寺」、8月18日が「三くだり半の世界」です。ここではその2回をまとめて、かつ私の関心にそって話を進めることにします。
なお、2013.10.9時点のwikipedia.東慶寺はここからの盗作ではありません。このページが盗作なのでもありません。違うところがあったら? wikipedia.東慶寺の方が最新版です。

江戸時代の離婚制度


東慶寺・縁切寺の今昔展記念講演会_05.jpg

書院の前には「縁切寺の今昔展記念講演会・会場」の札が。

江戸時代の離婚制度といっても庶民での話です。武家社会は別です。

江戸時代の離婚

そのイメージ

東慶寺の縁切寺法を理解するには、まず「三くだり半の世界」への大まかな理解が必要だと思います。というのは、当時の結婚・離婚制度とその実態をすっ飛ばして東慶寺の縁切寺法を説明しようとすると、とても大きな誤解を生んでしまう。

たとえばネット上で「縁切寺」を検索するとトップに出てくる「縁切寺-Wikipedia」には「夫側からの離縁状交付にのみ限定されていた江戸時代の離婚制度において」とあります。文章に間違いは無いんだけど。でもこの言葉からイメージされるものは何んでしょうか。

縁切寺とは-コトバンク」の方は、平凡社『世界大百科事典』での記述を紹介しています。
そこでは「当時庶民の間では,離婚は仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済(示談)離縁が通例であったと思われるが,形式上妻は夫から離縁状を受理することが必要であった」と。
こちらの方がより正確ですね。この文脈をきちんと押さえておかないと、とんでもない誤解に落ち込むことになります。「女三界に家なし」な儒教の「女大学」の世界や、母の形見の櫛や女房の着物や、蚊帳までも金に換えてしまおうとする伊右衛門にジッと堪え忍ぶ「四谷怪談」のお岩さんが江戸の女性の一般的姿であったのかのような。

このあたりの研究では今回の講師高木侃先生が第一人者です。しかし高木先生は「カカア天下」で有名な上州は縁切寺満徳寺資料館の名誉館長さん。上州バイアスがかかっているかもしれませんねぇ。念のため他の人も証人に呼んでみましょう。一人目の証人は幕末から明治にかけての日本の庶民の女房を観察した外国人(アメリカ人?)ベーコンさんの証言です。

「彼女らの生活は、上流階級の夫人のそれより充実しており幸せだ。何となれば、彼女ら自身が生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、彼女の言い分は通るし、敬意も払われるからだ。」(渡辺2009  p.94より) 

どうやら上州だけのことでは無かったようです。
ただし、家族生活の実態と公の世界は別です。家長は男で女は例外(やむを得ない場合だけ)。
村の寄合に参加できるのも男の家長だけです。

法のタテマエと実態

公の世界と家族生活の実態と同様に、法のタテマエと実態も大きく乖離しています。表面的な縁切寺の記述では、そのあたりの説明がすっぽりと抜け落ちているのがほとんどではないでしょうか。

たとえば心中は片方だけ生き残ったら「下手人の刑」(死刑)、両方生き残ったら「三日晒、非人手下」です。法のタテマエでは。しかし実態はどうかというと、生き残った本人が心中するつもりだったとお役人に言っても、お役人は一生懸命説得して「死ぬつもりはなかったが誤って」という調書を仕上げます。

妻の不義密通なんて最もいけないこと。法律上は死罪です。しかし密通がバレても、ほとんどは元の鞘に納まるか、あるいは先の「仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済離縁」、つまり示談による離婚になっています。夫が訴え出た場合でも、役人に説得されて「夫疑相晴、申分無之」と記録に書かれて訴えは下げられ、内済離縁で決着する場合がほとんどだそうです(高木1992 pp.233-235)。本当に「疑相晴」なら離縁にはならないでしょう。変な話ですよね。

その件について二人目の証人に登場して頂きましょう。『相模原市史』の編集に携わっていた『相模野に生きた女たち』の著者長田かな子さんです。同書のサマリはWeb版「有鄰」で見ることができます。

江戸時代は男尊女卑の儒教が社会道徳の基本だったから不義密通はご法度で、『御定書百箇条』には「四十七、密通お仕置の事」という箇条があり、密通の妻も相手の男も死罪となっている。密通の男女を夫が殺した場合、夫は何の罪にもならない。ただし密通は親告罪なので、訴え出なければ処罰されず、相模原では、ほとんど話し合いで解決したようだ。・・・

七件の不倫のうち、二人とも殺された悲劇的結末が一件、蒸発二件、夫のもとへ戻ったのが四件という結果で、奔放な浮気妻も意外に夫の寛容に許されていたようである。

「二人とも殺された」とは、上溝村組頭の家で孫嫁が下男と浮気の真っ最中に夫にみつかり、その場で二人とも殺されてしまったという事件です。訴えられて死罪になった訳ではありません。
もう一件夫に見つかっちゃった不義密通があります。

下溝村の青年は、人妻と密会中を夫に見つけられ、訴え出るといわれた。死罪になってはかなわないと、元名主のご隠居様に頼み込んで、女は夫の元に「形よく」返すことに話をつけてもらい、自分は村外追放の罰に従っている。

Web版「有鄰」にはその後のことまでは書いてありませんが、後にこの青年は許されて村に戻っています。もうひとつ。

上溝村の辻堂に住み着いた僧に、よろめいた人妻があった。馬喰町無宿というあやしげな僧だが、よほど美男子だったのか。二人の仲はエスカレートし、僧は駆け落ちを持ちかける。女は「十七歳の娘がいるから」とことわるが、僧は「娘も連れて…」と熱烈である。狭い村のこと、たちまち村中の噂になり、怒った夫は離縁を言い渡す。仲人は取りあえず女を江戸に隠し、立退料を僧に出して村外に出て行ってもらう。しかし、その後も僧はたびたび仲人宅にきて女の居所を尋ねるが「知らない」と隠していたのに、老母が口をすべらせたことから、怒った僧は仲人宅に放火し、火附盗賊改に捕らえられた。関係者一同取り調べをうけたが、夫は供述の最後に、「不義の噂に怒って離縁といってしまったが、不義が事実だったかどうかは知らない」と歯切れの悪いことをいう。

(より詳しくは『相模野に生きた女たち』 pp.198-202)

長田かな子さんは「"許すから帰って来いよ"とほのめかしているようだ」と書かれています。そうかもしれません。しかしそうでなくともそう記録されるでしょう。このあやしげな僧はどのみち放火で死罪でしょうが、妻の方は夫が「不義密通は事実」と言ってしまうと死罪になります。元々夫は訴えずに離縁(内済)にしようとしているんですから、火盗改の取り調べで「妻はあの男と密通してました」などと言う訳はない。仮に云ってしまったとしても「密通」は火盗改の守備範囲外。町奉行所だって訴え出た夫を説得して「夫疑相晴、申分無之」にするぐらいですから、火盗改は夫に「お前はその現場を見た訳ではないんだな?」「噂だけだろう!」と誘導するでしょう。

ちなみにこの『相模野に生きた女たち』の第三章「結婚と離婚」の最後の節は「『女大学』の教えを守らない農村の女たち」です。町屋の女達だって守ってないですけど。江戸時代ほどホンネとタテマエの落差が激しい時代は無かったと佐藤常雄先生も書かれています(佐藤1995 p.118)。
江戸時代の農業史の研究も大変みたいです。

「公事方御定書」以前

「公事方御定書」からの離婚

先の『世界大百科事典』にもあるとおり、「形式上妻は夫から離縁状を受理することが必要」であり、離縁状は夫が出すものとされていました。ただし、江戸時代と一言で言っても300年間もあります。一般に「江戸時代には」といわれるのは、江戸時代後半、あるいは江戸時代中期以降です。『世界大百科事典』の記述もしかり。本当は江戸時代のいつ頃? というのを頭に置かなければなりません。アバウトにでも。

耕地面積でいえば室町中期を1とすると、江戸時代初頭が1.7倍。江戸時代中期の享保頃(1716-1735)には3倍(佐藤1995 p.31)とか。つまり江戸時代になってから100年強の間に2倍近い増加があったことになります。人口増加は2倍強とか。その頃、衣類も麻から木綿に代わり、さらに絹が農村にまで浸透してゆきます(渡辺2009 pp.32-37)。農具の改良も進みます。元禄時代(1688-1704年)に発明され「後家倒し」との異名まで持つ千歯扱は有名ですね。綿実からの搾油と精製法の発明で、武士・公家だけでなく庶民までも夜に明かりを灯すようになりました。
要するに豊かになった。それが井原西鶴の「好色一代男」とか、近松門左衛門、浮世絵などの元禄文化の下地でしょう。その元禄時代(1688-1704年)の将軍は徳川綱吉。その次に有名な将軍は1716年(享保元年)からの徳川吉宗です。行ったのは享保の改革

その享保の改革の目玉のひとつが「公事方御定書」です。その特徴は、旧来の慣習法を下敷きとしながらも、これを規律化して公権力の制定法の中に取り込み、少なくとも刑事については社会の諸団体が伝統的に保持していた刑罰権のようなものを否定して公刑にシフトさせるというものです。(笠谷1994 p.155)

旧来の慣習法をそのまま下敷きとしている部分には「従前々之例」とあり、全103ヶ条502項の内、1/4ほどを占めています。(笠谷1994 p160)

これ以前には「武家諸法度」レベルは別として、はっきりとした法規定はありませんでした。問題がおこればその都度前例を参考にしながらお裁きを下すというものです。その前例も公に整理されていた訳ではなく、事務方担当者が自分だけの為に知りえた範囲をまとめていたというものです。そしてこの「公事方御定書」は幕末まで幕府法であり続けました。

その「公事方御定書」の定めでは「離別状取らず、他へ嫁候女、髪を剃り親元へ相帰す」。つまり新しい夫との結婚は認められず、新しい夫も取り持った者も過料(罰金)です。ただし、「親元 へ相帰す」ですから元の夫の処に戻される訳ではありません。「髪を剃り」とは剃られた髪が元の様になるまでの約3年が事実上の再婚禁止期間とも云えます。

「公事方御定書」は、吉宗がその作業を命じたのは1720年(享保5年)正月。初版は1742年(寛保2年)ですが現存せず、残っているのは1753年(宝暦4年)までの追加を含むものです。1742年に突然法律改正されたものと云うより、18世紀に入ってからの判例を取捨選択してまとめ、承認、または変更したものです。先の「髪を剃り親元へ相帰す」は「従前々之例」で、1721年(享保6年)の判例が元になっています。

17世紀も元禄頃、1691年とか1694年とかの判例はそれよりもずっと厳しいもので、妻が離縁状無しに他の男と一緒になると「重婚(二人夫)」として死罪でした(高木1999 pp.46-48)。妻は夫から離縁状を取らないと大変なことに。もちろん夫も離縁状を出さずに再婚すると「重婚(二人妻)」で大変なことになりますが、死罪ではありません。

だだし、あらかじめお断りしておきます。
以下幕府の法令とか判例の話が立て続けに出てきますが、幕府法が直接有効なのは江戸、大阪、天領などの直轄地と、旗本などの1万石以下の知行地です。大名領の統治はそれぞれの大名にまかされています。中世史的にいうと「検断権」ですね。戦国時代なら「分国法」。江戸時代には「藩法」「家法」「国法」(お国柄というときの国ですね)などと呼ばれます。幕府の「お触れ」「お達し」は各藩にも伝えられ、それも「藩法」に組み込まれますが、修正されたり組み込まれないこともあります。特に民法などは、外様大名でも右へならへするところはあるでしょうが、必ずしもそうではありません。江戸時代も一応封建制ですので、全国一律の法体系などありません。

縁切寺話題の中では目立たないのですが、離縁状が浸透していない、使われていない地方もあります。中国、四国、九州など外様大名の支配地が多い地方です。なので幕府法だけで江戸時代の法律の実態を判断するわけにはいきません。でも幕府法以外は断片的にしか解らないんです。厄介ですね。

妻方からの離婚

妻の方からは離縁を言い出せなかったのかというとそうでもありません。最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものだそうです。内容からは家が傾き、夫が1両の趣意金を受け取っていることから、妻方からの要求による離縁のようです。話がつきさえすれば離婚できたのです(高木2001  pp.98-99)。

実物の最古は1696年(元禄9年)ですが、写しなら1686年(貞享3)の離縁状が福井で見つかっています。

問題は話がつかなかった場合です。夫ががんとして離婚を拒絶するとかなり困難です。でも完全にどうしようもない訳でもないようです。高木侃先生は「律令要約」には妻方からの離婚に関して5つの条項があると書かれています(高木1999 pp.62-71)。

「律令要約」とは江戸時代の「公事方御定書」編纂課程で、直前の1741年(寛保元年)北条氏長が先例・慣習をまとめた判例集のようなものですが、1742年(寛保2年)の「公事方御定書」制定以前の先例・慣習というところに大きな意味が。離縁に関する限り「公事方御定書」とかなり似たニュアンスです。

1番目には、先の「四谷怪談」の「母の形見の櫛や女房の着物や、蚊帳までも金に換えてしまおうとする伊右衛門」の様なことをしたら「不縁(離婚)の事、舅(妻の実家)の心次第たり」とあります。それは当時の常識で、民法ながら違法です。だから歌舞伎の四谷怪談を見た江戸の町人は、「あ〜伊右衛門てなんて非道いやつなんだ」となる訳です。

2番目は「女房親元え帰りおり候儀、三、四年過ぎ、夫訴え出ずるにおいては、願いおくれ、(訴えは)立ち難し」。3番目は「離別状遣わさずといえども、夫の方より三、四年進路致さざるにおいては、例え嫁し候とも、先夫の申分立ち難し」です。

その4番目に「夫を嫌い、髪を切り候ても暇取りたき由申」すときは「比丘尼にして縁を絶つ」というのがあります。そもそも出家とは俗世間と縁を絶つことですから嫌いな夫との縁も切れます。でも出家してしまっては他の男とも結婚できません。

鎌倉時代には失恋で尼になった後に藤原為家の妻(同棲?)となって冷泉為相を生んだ『十六夜日記』の著者阿仏尼なんて人も居ますが。阿仏尼は鎌倉にも深いご縁のある方です。その孫、つまり冷泉為相の娘は鎌倉幕府八代将軍久明親王に嫁ぎ、久良親王を生んでいます。その屋敷は確か東慶寺の隣ぐらいだったような。なんかの古地図で見た覚えがあります。

それとは別の5番目に「夫を嫌い、家出いたし、比丘尼寺へ欠入り、比丘尼寺へ三年勤め、暇出で候旨訴うるにおいては、親元へ引き取らす」が東慶寺や満徳寺に相当する訳ですが、それが東慶寺や満徳寺に限ると記録に現れるのは「律令要約」や「公事方御定書」よりも後です。こちらは「比丘尼にして縁を絶つ」とは異なります。「親元へ引き取らす」とは離婚成立で、そのあとは別の男と結婚出来ます。「三年勤め」後ですが。

ただし17世紀末、1688年(貞享5年)2月14日の幕府の判決では、不届きではあるが、足掛け三年の間、比丘尼を務め、東慶寺から離婚の旨訴え出れば、離婚だけは認める。ただし妻の再婚は禁止でした(高木1992 p.128)。つまり4番目はあっても5番目は無かったと。5番目が認められだしたのはいつ頃なんでしょうか。1688年より更に昔は4番目すら認められませんでした。お上に訴え出た場合ですが。あれ?4番目すら認めないという判例が1692年(元禄5)にもあるようですね。こういうバラつきから「公事方御定書」の編纂が始まったのでしょう。

それにしても5番目はいつからなんでしょう。後で出てくる寺社奉行永井伊賀守云々の話からは、1700年以前から東慶寺への駆け込みはあったようです。また離縁状の実物ではなくて写しなら1680年代から東慶寺がらみの内済離縁状が見つかっているそうです。

縁切寺三年勤の背景

「比丘尼寺へ三年勤」で縁切りというのが1741年以前に慣例とされた下地は何んでしょうか。
あくまで私見ですが、2番目と3番目に見え隠れしているように思います。
何かというと、「三、四年過ぎ」というキーワードです。2番目も3番目も似たようなものですが、3番目をもう一度引用しましょう。「離別状遣わさずといえども、夫の方より三、四年進路致さざるにおいては、例え嫁し候とも、先夫の申分立ち難し」です。

2番目は1729年(享保14)の、3番目は1734年(享保19)の判例が元のようです。ただしこの頃すでに幕府支配地においては離縁状を必須としていましたから、奉行所は夫に離縁状を妻方に渡すよう命じています。

縁切寺は男子禁制で、夫が入り込めない処に駆け込まれたんですから「三、四年進路致さざる」は夫の責任ではありません。でも、三も四年も会ってないなら、もはや夫婦とは言い難いというのが社会通念、誰もが(夫以外は)納得したということでしょう。

実は縁切寺への駆込みで「内済離縁」が多くなったのは寺法の手順が確立された江戸時代後期らしいです。幕府が縁切寺法をバックアップしたのも江戸時代後期。もしかしたら、最初の頃は単に男子禁制の比丘尼寺が駆け込んだ女房を三年間匿い、「三年も会っていないんだからもう夫婦ではない、これは世間の常識だ。おまけに当寺の寺法である!」ということだったのでしょう。下地となる「三年も会っていないんだからもう夫婦ではない」と云える社会的コンセンサスはあったはずです。

ところで、この「律令要約」は先に述べたように1741年(寛保元年)以前の先例・慣習です。そこには「比丘尼寺へ三年勤め」とあります。我々は3年イコール36ヶ月と考えますが、しかし当時はそうではないようです。先にちょっと触れた1688年(貞享5年)2月14日の幕府の判決に「足掛け三年の間、比丘尼を務め」というもの(高木1992 p.128)があります。東慶寺では24ヶ月で寺を出られたというのはその幕府の判決からでしょう。「三年」は「足掛け三年」、24ヶ月と。

年齢の数え方が、今では零歳から始まる「満何歳」なのに対し、当時は「1歳」から始まる「数え何歳」であったのと同じようなものでしょうか。

「夫の手に負えぬ場所」への駆込、「縁切奉公」

1回目の講演会のあとの宝蔵でのギャラリートークのときに、「関東には二つの縁切寺があったからよいとして、他の地方ではどうだったんでしょう?」という質問があり、高木先生がお答えになっていましたが、実は二つの縁切寺以外にもいろんなところへ駈け込んでいます。

代表的には武家屋敷です。要するに農民、町人にとっては「権威の有る処」、「夫の手に負えぬ場所」ですね。「縁切奉公」と云って、夫に手出しできない武家屋敷などに奉公し、三年経ったら再婚して良いという慣行が法だったようです。「三年も会っていないんだからもう夫婦ではない」という訳でしょう。

この文脈には「離縁状」は出てきません。つまり証文のある「内済離縁」ではありません。実は東慶寺でも初期の頃は離縁状は出させていなかったようです。その段階では東慶寺も満徳寺も数ある「夫の手に負えぬ場所」のひとつだったといえます。

江戸時代前期には「武家屋敷駆込慣行」というこのがありました。「当時の武家社会には、喧嘩の場で相手を討ち果たした人物が庇護を求めて駆け込んできたときには、屋敷の主は追手からこれを匿う」ことが慣習上認められていたというものです。

これで思い出すのは荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘の前段ですね。岡山藩で同僚を殺した犯人が江戸に逃げて旗本安藤家にかくまわる。藩主池田忠雄は又五郎の身柄引き渡しを求めたが拒まれたというあれです。武家屋敷は治外法権と。平安時代でも堀之内(屋敷地)は国司といえども治外法権です。中世以来の慣行ですね。

「喧嘩の場で相手を討ち果たした」とは平たく云えば「殺人犯」。それに比べれば武家屋敷への駆け込み「縁切奉公」など小さな話です。

ところが「公事方御定書」編纂委員会は、治安維持の観点から「火付」、「盗賊」、「追剥」などを匿ったら死罪。「喧嘩の場で相手を討ち果たした」者を匿ったら「追放」という原案をつくりました。しかし将軍吉宗の「武士之上にも間々有之事に候。急度叱可申事」。つまり、喧嘩の場で相手を討ち果たした者」は火付、盗賊、追剥などとは違う。義によってそれを匿うことは古来より武家の慣行でもある、ある程度は容認して、実害の無い「急度叱り」ぐらいで良いだろうとなったらしいです(笠谷1994 pp.157-158)。

治外法権はなるべく制限したい。ただ旧来の慣行もある程度考慮にいれると。これは離婚したい女房の武家屋敷への駆け込み、「縁切奉公」の禁止と、ピッタリではないですが時期的に付合します。「急度叱り」程度ながら禁止はしておくという、ちょっと腰の引けた幕府の態度を「縁切」に投影すると、縁切寺は東慶寺と満徳寺に限る、他はダメだと云ったことを思い出します。

縁切寺が東慶寺と満徳寺に限られた時期

縁切寺は東慶寺と満徳寺に限るとの寺社奉行所の発言が満徳寺関連文書に記録されたのは1762年(宝暦12)です。東慶寺所蔵の文書に限れば、内済離縁が現れるのは1777年、その次は1814年です。それから段々と内済離縁が現れだし、幕末にはほとんど内済離縁になります。

東慶寺では駆込の記録そのものが1711年からしかなく、それも詳細不明。次は1732年です。実は東慶寺所蔵文書以外にも東慶寺関連の内済離縁状が見つかっており、中には17世紀末のものもあるようですが、残念ながらその詳細は知りません。

「公事方御定書」以前の幕府法の転換点

東慶寺が離縁状を取るようになったのは

東慶寺が離縁状を取るようになったのは1700年前後です。というのは、1745年(延享2)に東慶寺の寺役人が寺社奉行に提出した寺例書にこうあります。

以前は離縁証文も差し出させず、当山へ入れ二十四ヶ月相勤めれば縁は切れてきたが、下山した女に元の夫が難渋申しかけ、出入りに及んだので、寺社奉行永井伊賀守に仰せつけられて以来、縁切証文並びに親元の証文を差し置き申す(井上1955 『駈入寺』 p.116 )

永井直敬が寺社奉行であったのは元禄7年(1694年)から10年間です。

幕府は「出入りに及」ぶこともあるような離縁のゴタゴタの解決策として、離縁の証文、離縁状を重視するようになったのではないでしょうか。ちゃんと話をつけろ。証文を残せと。

この「出入り」って何ですかね。「ヤクザの出入り」みたいな「騒動」をイメージしたんですが、でも幕府の裁判で民事訴訟を「出入筋」というし。そちらの意味かと。

江戸時代中期以降は、「縁切奉公」先の多くは「駆け込まれたら迷惑だから受け付けない」と表明はしています。 年代としては1704年(宝永元年:前橋藩)から1786年(天明6年:小諸藩)ぐらいまでの間です。ちょうど東慶寺が「寺社奉行永井伊賀守に仰せつけられて以来、縁切証文並びに親元の証文を差し置き申す」という「その仰せ付け」以降です。附合しますね。

それまでの「慣行」の効力が薄れてきたのでしょうか。東慶寺や満徳寺はその段階でも「駆け込み受付け」が公に認められた例外ということに。東慶寺や満徳寺が特別な縁切寺になったのは江戸時代中期以降のような気がしてきました。

東慶寺に伝わる、8歳の天秀尼が、家康に「何か望みはないか」と聞かれて、「開山以来の御寺法を断絶しないように」と願ったという話は、江戸時代中期頃の寺社奉行の圧力に対抗するために作られたと考えるのが自然でしょう。満徳寺の「千姫の旧夫秀頼との縁切りの為、その侍女が身代わりに満徳寺に入った」話も同様にその頃に作られたのではないかと。なぜなら、それ以前には両寺が幕府・寺社奉行にことさらにそんなアピールをする必要が無かったからです。

幕府が「旧来の慣習は止め!」と言い出したときに、幕府に縁の深い二つの尼寺が「権現様お声掛かり」、「東照宮様御上意の寺法」、「千姫様の前例により」と言い立てるので、寺社奉行も、「ええい、しょうがない。東慶寺と満徳寺は認めるが、しかし旧来の慣習(アジール)はその2つに限る」ということになったのではないでしょうか。

でも東慶寺や満徳寺以外の「夫の手に負えぬ場所」はタテマエでは「受け付けない」でも、実際に駈け込まれたら、夫や妻の実家、その村の名主などの村役人、町役人を呼びつけて「離縁状を出させてやれ!」と半強制的に「内済離縁」を成立させます。「夫の手に負えぬ場所」はそれなりに機能していたようです。

江戸時代ももうちょっとで終わりという1858年(安政4年)に、相模国淵野辺村から、東慶寺でなく江戸の地頭所(領主である旗本の屋敷)へ離縁を訴えて駆け込んで、「内済離縁」を勝ち取った女房がいます。(長田2001 p.128)

離縁状っていつから

2回目の講演会のとき「離縁状っていつから出てきたんでしょう」と質問させて頂いたのですが、ちょっと質問の仕方が悪かったです。「離縁状が法的な要件となったのはいつごろか」というのが質問の意図です。

確かに戦国時代の奥州伊達家の分国法「塵芥集」にも離縁状が出てきますが、それだけが証拠という雰囲気ではないんです。先の東慶寺の寺役人が寺社奉行に提出した寺例書にも1700年前後までは「離縁証文も差し出させず」とあります。なので「公事方御定書」以前の元禄年間(1688年-1704年)から「離縁状が法的な要件」、渡さなければならないものになった。つまりもうひとつの幕府法の転換点があったのではないかと思ったのですが。
この「大発見」は、後退せざるを得なくなりました。というのは小田原藩でも離縁には証文を必要とするというお触れがあったことを高木先生に教えて頂いたのですが、それは元禄元年よりも20年近く前の1669年(寛文9年)でした。これですね。

向後女房離別いたし候者これあり候はば、自筆にてさり状を遣わすべく候、・・・これ以後かようの証文これなく離別いたし候と申し候とも、御立なられまじき由、仰せでられ候(高木1992 p.84)

「妻が離縁状無しに他の男と一緒になると死罪」というほど強烈なニュアンスはありませんが。
1669年(寛文9年)というと、将軍は四代家綱、酒井忠清が大老だった頃ですね。あれ? このときの小田原藩主稲葉正則は1657年(明暦3年)から老中じゃないですか。それも老中首座から後には大政参与。なかなかの大物です。状況証拠だけですが、この方針は幕府の方針だったのかもしれません。

私はこのあたりに土地勘は無いんですが、17世紀後半は農民層においても「家」が一般的に成立した時期と言われています(鈴木1994 p.67)。こう書くと「えっ?」と思われるかもしれませんが、ここでいう「家」とは「家名」「家産」「家業」の単位で、それを親から子へとつないでいくということ。嫡男による単独相続。家督を継ぐというあれです。もっと単純に言うと、夫婦になって、例え建坪5坪で、土間に莚であろうとも、独立した家を持ち、子を産み育て、家と田畑を相続させられるようになったと。小農の自立でもあります。

それ以前はどうだったんだって? 大石先生が書かれていますが、先に触れた戦国時代奥州伊達家の「塵芥集」などには子供の分配を決める項目があるそうです(大石1995 p.4)。男の子は父親の主人が、女の子は母親の主人がとるとか、10〜15歳まで育てたら、育てた方の親の主人がその子供をとるとか。どっちの親がではなくて、どっちの親の主人がです。子供の親は夫婦として独立した家に住んではいないということです。親も子供も主人の所有物だと。

江戸時代になるまでは、離縁状なんてあったとしても、「家」を形成出来た上層階級に限られたんじゃないかと思います。江戸時代前半での人口急増の背景を表す言葉のひとつに婚姻革命なんてのもあるそうですが、結婚できなければ離縁状なんて関係ないですもんね。その江戸時代の初頭に小農の自立が進み、少しづつ豊になる。和泉国の豊田村の例では、1644年(寛永21年)から1662年(寛文2年)までの約20年間だけでも建坪5坪は少なくなり、母屋の建坪はひろくなって別棟の家屋も増えているんだそうです(鈴木1994 pp.78-80)。

小田原藩のお触れの頃には、宗門人別改帳の作成や諸国山川掟の制定もありました。農村に家が確立し、段々と法整備がなされ初めた時代と云えるのかもしれません。

幕府の方針を想像するに

想像の範囲が半分ですが、幕府の方針をまとめてみましょう。

  • ひとつには治外法権の制限、「縁切奉公」の抑制。
  • そして、離縁状によって後々のトラブルを封じる。事実上の離婚が3年続いたときは離婚とみなすことに変わりはないが、その場合でも夫に離縁状を書くことを命じる。

結果は?

  • 武家屋敷駆込慣行はその名残は残っても「縁切奉公」ではなく、半強制的だろうがなんだろうが内済離縁で、離縁状は徹底されます。
  • 「縁切奉公」は例外的に東慶寺と満徳寺には「寺入り」として残りましたが、それは幕府の承認ということで治外法権ではなくなる。
  • 離縁状を書くことは徹底され、その為に寺社奉行は「入牢」まで使って夫を脅します。
  • そのうち東慶寺でも満徳寺でも、「縁切奉公」「寺入り」は減り、ほとんどは内済離縁になります。

若干の妥協はありますが、結構うまくいったといえるのではないでしょうか?

離縁状

離縁状の要件

ここでは「縁切状」に統一しますが、近畿では「暇状(いとまじょう)」、「隙状(ひまじょう)」、他の地方では「手間状」、「縁切状」、「去状」と呼ぶこともあるそうです。

離縁状の要件は一般に二つです。離婚の確認と、再婚許可。95%はその両方が書かれていて、片方しかないのは5%。そしてその片方とは、1対2ぐらいの割合で再婚許可だけの記載が多いそうです。つまり再婚許可の記載のあるものは98%以上。記載のないものは2%以下ということになります。離縁状とはつまり「今後誰と再婚しても自分は構わない」という証文ですね。

1742年(寛保2年)の「公事方御定書」では「離別状取らず、他へ嫁候女、髪を剃り親元へ相帰す」で、新しい夫との結婚は認められません。17世紀末頃の判例では、妻が離縁状無しに他の男と一緒になると「重婚(二人夫)」として建前では死罪です。夫も離縁状を出さずに再婚すると「重婚(二人妻)」で、死罪ではありませんが大変なことになったというのは見てきたとおりです。

でもこれって、別れただけで双方とも再婚しないなら別に離縁状なんて無くても良かったということになりますよね。離縁したら普通は再婚するものと誰もが思っているから、そのときのトラブル回避のために離縁状が必要になるという訳です。

死罪云々はそう言って脅して離縁状を浸透させようという側面の方が大きかったのではというのは深読みのしすぎ? 1742年(寛保2年)頃には浸透してきたので「公事方御定書」は死罪を緩和したとか。まあこれは真にうけないで下さい。

例文集の離縁状

「例文集」にも離縁状が沢山出てくるようになります。その定型文言で有名なのが離婚理由での「我等勝手に付」です。「我等」は複数に見えますが、当時この言葉は単数にも複数にも使ったとか。この文言からかつては夫は勝手に妻を離婚できたと思われていたようです。それは違うだろう、と言い出したのが今回の講師である高木先生です。

その「我等勝手に付」は「例文集」では第一位で10冊なんですが、その次が「手前存寄有之候て」「双方熟談の上」「不熟に付」で3冊づつ。「拠無き子細」が2例です 高木1992 pp.52-53)
こうして並べてみると「自分勝手に」「勝手きままに」というニュアンスはなんか違うと解りますね。

本物の離縁状

「例文集」でなくて本物の離縁状ではどうかというと、実は離縁事由が書かれていないものが一番多い。そこからも、離縁事由なんて本当のことは書かない。書いてもあたりさわりのない文言で、ということがわかります。

実例にも多い「不縁に付」「不熟に付」なんて、現代での「性格の不一致」同様に何も言っていない。また「相対・相談」「熟談・示談」なども結構ありますが、それって離縁の原因とは違うでしょう、なんて。

すでに見てきたとおり、離縁状は後々の妻の再婚のための証文ですから、離婚理由を具体的に書くことは通常避けます。「勝手」の意味を、今では「自分勝手に」「勝手きままに」ととらえますが、当時の使い方としては「都合により」ぐらいの意味です。

高木先生は「今だって退職願いに ”一身上の都合により” と書くでしょ。”給料が安いから” とか ”横暴な上司でやってらんないから” とは書かないでしょう」と。わかりやすい。 

もちろん、離婚理由を具体的に書いたものもあります。例えば不義密通で、再婚許可にも密通相手を除きと書いてあるものとか。あと変わったものでは「客が来ても挨拶もしないから」とか。商売に熱心でないからとか。

婿養子の解消でも夫からの離縁状が

さて、「形式上妻は夫から離縁状を受理」の例ですが、ひとつは婿養子です。養子縁組の解消権は養父にあります。で、養父が「この婿養子はダメだ」、と養子縁組を解消すると、普通はその家の娘との結婚も解消されます。しかしこの場合でも夫から妻への離縁状が必要とされたようです(高木1992 pp.60-61)。これは「任意」ではなく、養父は養子から娘への離縁状を取らないと、お上から「不念」として譴責されたそうです。ところがその夫からの離縁状にも「此度我等勝手に付、離縁致し候」(高木1999 pp.367-368)です。「去状を、書くと入婿おん出され」という川柳があるそうですが、泣きの涙で無理やり書かされる離縁状の文言が「此度我等勝手に付、離縁致し」ってとっても変ですね。本当は「あんたらの身勝手で」と書きたい処でしょうが。

まあ中には「清々したぜ!」と出ていく婿養子も居たかもしれませんが、ほとんどは泣きの涙でしょう。
なんせ今のようにサラリーマンをやってる訳ではありません。入り婿は家業を継ぐための入り婿はですから、おん出されたらその日から無職です。実家には帰るでしょうが、しばらくは厄介になっても、いつまでもという訳にはいきません。分家なんかができるのは事実上数十石の田畑をもつ豪農だけです。十石以下の農家は分家を禁止されているんですがら。

われわれが江戸時代の離縁、離縁状に抱いていたイメージは、実例を細かに見ていくと、そのほとんどは崩れ去ってしまいます。先入観って怖いですね。目を曇らせます。

夫は離縁状さえ渡せば離縁できたのか

夫は離縁状さえ渡せば離縁できたのかというと、そうではなさそうです。妻が離縁状の受け取りを拒否した例が。だからと言って「別れたくない」ととりすがった訳でもないのですが。妻は実家に戻ったのですが、どうも妻の母が不承知だったようです。何で不承知だったのかは判りません。で、夫はしょうがないのでそのまま放っておいた。そうしたら、今度は妻に再婚話が出てきたのか、別居状態の夫に離縁状をくれと言ってきた。なんて身勝手な!と夫は怒ります。最後は仲介が入り、妻方から銀10匁を払って決着するんですが。

妻からの離縁状

妻方から夫へ離縁状なら何通もあります。名義人は妻の父、つまり夫の養父です。養父が亡くなっていた場合には養母からというのもあります。しかし、「妻方から夫へ」でない「妻から夫へ」の離縁状の写しが2009年に見つかっています原文と現代語訳はこちら

こちらの方は「その時代の封建的な権威主義を担った家長の絶対的・権威主義的支配権が娘とその婿養子に強制し、仕組んだ離縁とそれを成立させると同時に世間体を守るために妻ふじと娘婿満平にそれぞれ書かせた離縁状であって、江戸時代の男尊女卑の風習に反した女性主導の離縁ではないという解釈となる。」などと書かれていますが、どうですかね。

まず「封建的な権威主義を担った家長の絶対的・権威主義的支配権」なるものに微塵も疑いを持っておられないようです。実態はそうではなかった、実に多様であったという逆の研究が沢山あります。本稿でも高木先生以外にお二人の証人に登場願っています。

この離縁状の写しが非常に珍しいのは、実態の世界がタテマエの世界の証文にまで現れてしまったということだけです。ネット上の記事には出ていませんが、この女房は質屋の女主人だそうです。趣意金百両ですから相当な実業家でしょう。

離縁は感情に始まり勘定に終わる?

次に、夫は「自分勝手に」「勝手きままに」は離縁出来なかったという理由のひとつには妻の財産の返却と、趣意金の問題もあります。

当時の結婚・離婚は当事者だけの問題ではなく、両方の家とか、五人組とか村役人とか関係者がいろいろといます。なので「勝手きままに」ではなくて、妻が持ってきた着物その他の嫁入り道具は妻方に返却しなければならないし、持参金は相談なんでしょうが、夫が言い出した場合は返さなければならないことが多い。逆に妻方から言い出した離縁なら持参金は放棄。
それに加えて趣意金です。趣意金は離婚したい方が払うという方が一般的だったようです。
慰謝料と云っても良いけどちょっと違う。この趣意金で双方で合意できないと離婚は成立しない。

川柳に「にげてきて つまるものかと里の母」というのがあるそうです。要するに、こっちから離縁したんじゃ持参金が取り戻せないじゃないか。どうせ別れるならあっちに言わせて持参金を取り戻してこい、ついでに趣意金も取ってやれと? 怖いですねぇ(ブルブル)。

夫は勝手きままに、カッとなって「出ていけ!」と言ったら、妻の嫁入り道具だけでなく、持参金があった場合には耳をそろえて、それがない場合でも趣意金を用意しなければならない。

逆に妻が「あんたなんか顔を見るのも嫌!」と飛び出した場合には、夫に趣意金を払わなければならない。頼る実家も金もない妻は離縁を実現するために年季奉公に出て、その前金を趣意金として夫に払うなんてこともあったようです。

タテマエな幕府法の表面だけ見ててもダメなんですね。昔は石井良助先生が「夫専権離婚説」を唱えたこともあり、今でも端折って縁切寺の説明をしようとするとそうなってしまいがちなんですが、こうして離縁状の例を見るだけでも、だいぶイメージと違うということが判ると思います。

内済離縁


高木先生のご本によると、「縁切奉公」、つまり離婚の既成事実化よりも、離縁状を書かせる「半強制的な内済離縁」にシフトしているようです。1796年(寛政8年)の離縁状無き妻の再婚の訴訟事例では法律上は「髪を剃り親元へ相帰す」はずなのに、内済離縁で決着しています。(高木1999 pp.50-53)

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村から見た内済

実は江戸時代というのは平安時代末期から戦国時代まで続いた在地領主制を廃止して、「士農工商」で「士」と「農工商」を分離した上に成り立っています。単に身分の分離だけではなく、武士は城下町に住み、農民の社会は「村」で、その村には武士は住んではいないという処が重要です(例外は有りますが)。
もうひとつは、先に触れたように江戸時代に至って初めて農民に「家」が確立したということもあります。小農の自立ですね。「村」は農民の自治で運営され、年貢も実は村単位で、村の代表者である名主等が幕府や藩に村の年貢を納めます。

名主というと、代々世襲のイメージが強いかもしれません。先に在地領主制を廃止してと書きましたが、私の知っている範囲でも在地領主が武士を止めて名主となった例がいくつかあります。上州上野村の黒澤家は小田原北条氏に仕えていた武士でもある小領主(土豪)が北条氏の滅亡後に武士を止めてその地の名主(大総代)になったものですし、遠州の黒田家は、高天神城小笠原氏配下の武将・武士・在地領主でしたが、武田勝頼に高天神城を落とされたときに帰農しています。倉敷のアイビースクエアは倉敷紡績所の工場跡地ですが、江戸時代には倉敷代官所。更にその前の室町時代末期から戦国時代には、ここは小野ヶ城と言って小規模ながらも戦国武将、在地領主の館だったところです。その小野氏は武士を捨て、館を幕府の代官所として差出して倉敷村庄屋になりました。1711年(正徳元年)の宗門帳には 高176石とか。すごいですね。自営農の平均は10石ぐらいです。

でもそんな例ばかりではなく、名主は1年ごとの持ち回りで、選挙で決めるなんてことも多かったようです。これはちょっと意外。それが目立たないのは、旧家で世襲の名主の家の方が古文書がたくさん残っているからだそうです。

その村の中でのもめごとは勿論、村と村とのもめごとでも、基本的には仲介者をたてるなどして話し合いで納めます。例えば信州のある村の「村中一統申合定書」には「村方の困窮者を良く見極めて救済すること」などと一緒に「訴訟や喧嘩口論は決して行わないこと」が上げられています。今ではあまり良い意味では使われない「ムラ社会」とは、その村落共同体の独自のルールによる自治のことです。「農民の内で済ます」、これが「内済」だと思っていれば取り敢えずは良いかもしれません。

幕府から見た内済

幕府の裁判は「吟味筋」と「出入筋」の二つに分かれます。「吟味筋」が刑事事件、「出入筋」が民事訴訟ととりあえず思っていればよいかと。その「民事訴訟」は4つに分かれます。「本公事」「論所」「金公事」「仲間事」です。「仲間事」は訴えても不受理。借金なんかの「金公事」は受理されますが効果は薄い。結局、「本公事」と「論所」が民事訴訟の中心になります。ただし裁判で判決ということはあまりというかほとんどというか、ともかく少ないです。

「論所」は山論や水論などの土地の境界についての争い事で、村対村、藩対藩のような大きな問題なのですが、その土地の慣例が大きく影響するために、法廷はその領主や代官に現地での解決を命じるというような、要するに調停委員を任命して「和談内済」を進めさせたようです。

残る「本公事」は「質地」「小作米」「給金」「家賃」などで、裁判、判決(裁許)まで行くことがあります。しかしこれも実際には裁判になる前に「和談内済」になることが多いようです。ではなぜ訴訟を起こすのかというと、うだうだぬかす相手を奉行所の出頭通知(目安裏判、訴状の裏に奉行名で書かれる)で威嚇して、交渉の席に着かせるためです(笠谷1994 p.168)。
裁判となってからも内済の交渉は続けられます。これは奉行所を蔑ろにする行為ではなく、奉行所もそれを推奨し、場合によっては調停委員を任命したりします。そればかりか、強情な相手には威嚇を加えることも。これはどっかで聞いたような。このあとの満徳寺の「お声掛り離縁」に似たような話が出てきます。

「タテマエ」としての法は法としてとっておきながら、民事なら圧力を掛けてでも「内済」で済まさせることによって、「タテマエ」と「現実的対処」の調和をとる方向に向かっていったのではないでしょうか。ちなみに刑事事件ならどうかというと、古くは殺人でも内済が可能だったようです。ただし「公事方御定書」からは認めません。あくまでも公儀のお裁きです。ただし、公儀とは幕府を指すこともあれば、藩などの公的なものをも指します(藤井1994)。でも傷害事件ぐらいなら「公事方御定書」でも和談内済が可能だったようです。

ひとつ忘れてはいけないのは、日本はけっこう契約社会なんです。意外なことに平安時代から。証文がとても重視されます。離縁状は「内済」の証明として浸透していったのではないかという気さえしてきます。

縁切寺での内済離縁

以下の話は江戸時代後半に限りますが、二つの縁切寺でもほとんどは「内済離縁」です。

ただ、先に「半強制的な内済離縁」と書きましたが、縁切寺ではその「半強制的な」部分の効果が半端じゃない。なんせ満徳寺も東慶寺もそこいらの尼寺とは違います。バックに徳川幕府がついている。おまけに満徳寺はその近隣に、東慶寺は江戸にまで縁切寺として知れ渡り、数々の川柳にまで読まれているほどですから。そこに駈込まれたらたいていの夫は観念します。だから駈込む前に捕まえようと必死になるんです。駈込まれたらた、夫はあきらめきれなくとも村の調停役の名主様から「このまま突っ張ってると大変なことになるぞ。慰謝料は掛け合ってやるから諦めて三下り半(離縁状)を書け!」と脅されます。それでも突っ張る夫はほとんど居ません。

そうして書かされる三下り半(離縁状)の典型が「我等勝手に付き」です。ほんとうは「不承不承」と書きたいところなんでしょうが、その地方の例文集通りに書けとか、あるいは名主代筆の三下り半(離縁状)に爪印だけ押さされるなんてこともあったのかもしれません。

それでも突っ張ると。ここが縁切寺への駆込みとそれ以外への駆込みの違いになりますが、寺社奉行所に呼び出されて、さらに突っ張ると牢屋に入れられたりします。そこまで突っ張る夫はほとんどいないそうです。

まあそうでしょう。当時の牢屋って、刑を言い渡す前に牢死、取り調べが始まる前に牢死なんてことが良くあったみたいですから。
あっ、牢に入れられたのが一人いました。残っている史料に限りがありますから、あと何人かはぶち込まれていたかもしれません。でもこれって、三下り半を書かないと突っ張るから牢に入れると脅されるので、三下り半を書けば入れられることはない、あるいは牢から出られるので、有罪判決による禁固刑とは違いますね。「内済」で済まさせる為の「圧力」とも云えます。

なんで寺社奉行所は牢屋まで使って縁切寺法の支援をしたんでしょうか。これは支援をしたというより、縁切寺での縁切であっても、後々のゴタゴタを封じるために離縁状を必須とするという、離婚に関する幕府方針の一番重要なところだけは押さえるということではないでしょうか。

満徳寺の寺法手続き


同じ縁切り寺ですが、満徳寺と東慶寺では寺法手続きが違います。と言っても、駆け込みがあると、まず「身元調べ」から一応復縁を勧めてみる。ダメなら「女実親呼出」、そこで駈込女の親族へ、夫方と掛け合って「内済離縁(示談)」にするよう伝えるところはどちらも同じです。それが可能なら最初からそうするだろうと思われるのもごもっともですが、すでに女房は満徳寺なり東慶寺なりに駆込んでいるということの効果は大きなものです。

年季中は夫も再婚できない


その後から満徳寺と東慶寺では異なります。満徳寺では夫を呼び出して離婚調停に努めます。
それが不調に終わると、駈込んだ女房は満徳寺で3年とか2年(25か月)とか暮らすことになりますが、離婚は成立していないので夫も再婚できません。女房との離婚に抵抗していた夫も、女房は満徳寺に入ったままだし、農家でも商家でも妻は夫とともに重要な働き手でもあるので、夜の「陰事」、つまり性生活は勿論、収入まで含めた暮らし向き全般に様々な不便をきたします。それが2年とか3年とか続くとなるとたまりません。そのうち再婚話が出てきたりすると、年季が明けても帰ってくる公算の少ない(元)女房より、目の前の縁談の方が。となって、その再婚のために「年季中」でも内済離縁が出来ます。内済離縁が成立すれば、駈込んだ妻は「後日難他嫁 一言違乱無之」、つまり「このあと誰と結婚しようとも私は一切構わない」という元夫の離縁状(再婚許可証)を手にして寺を出られ、誰とでも結婚することができます。これが東慶寺と異なる一番大きな点です。

お声掛り離縁


もうひとつ、満徳寺はすぐに寺社奉行を頼ります。「お声掛り離縁」といいますが。その例が高木先生の『三下り半と縁切寺』 (pp.162-165) にあります。それによると、「夫方呼出し」にも応じない夫のことを満徳寺は寺社奉行に「お声掛り」を申請します。江戸の寺社奉行は夫と妻方を呼び出し、内済離縁をさせようとしますが夫が応じない。そこで寺社奉行は強情な夫を牢に入れてしまいます。さしもの強情夫もそれにはたまらず、内済離縁に応じて一件落着。

これってホントに内済離縁?と言いたくなるような話ですが、夫が不承不承でも同意したんだから内済離縁です。駈込んだ女房は満徳寺で2年とか3年とか過ごすことなく、晴れて実家に帰ります。なので寺法離縁になるのは亭主が2年3年、25ヶ月、再婚もせずにいる場合だけです。

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東慶寺の寺法手続き


東慶寺でも駆け込みがあると、まず「身元調べ」から復縁の勧め、「女実親呼出」、そこで駈込女の親族へ、夫方と掛け合って内済離縁(示談)にするよう伝えるところは同じです。

ちゃっかりした妻方実家がいました。遠方の他家へ嫁いだ妹が逃げ帰ってくる。兄はその妹を東慶寺に連れていく。そして両家で内済離縁の交渉がもたれるが、話が進まない。と思ったら兄が「復縁することに話がまとまった」と東慶寺に届けて礼金も渡し、妹を連れ帰ります。でその妹は夫の元に帰ったのかというとそうではなくて実家に戻り、1ヶ月後に夫から離縁状を受け取ります。その兄は東慶寺へ来て、宿でいろんな礼金の相場を聞いたんでしょう。夫方と結託して、東慶寺に対しては復縁と届けることで、東慶寺への礼金を離縁の場合の何分の一かで済ませてしまいます(高木1992 pp.170-174)。
そこで浮かせた金を夫側への慰謝料の一部に充てたのかもしれませんが、この妻方実家は水飲み百姓ではなくて豪農の名主さまです。

「女実親呼出」を受けた駈込女の実家が、東慶寺へ来る前に夫と交渉して離縁状をとって「内済離縁(示談)」を済ませてしまうこともあります。そうすると、遠方から東慶寺へ来るのは1回で済む。そうでなければ、順調に「内済離縁」になったとしても、2回来なければならない。江戸時代のことですから、場合によっては何日もかけてやってきて、何日か宿代もかかるわけです。その出費は普通の農民や商人には大変な負担です。それが豪農だってどうでもよい範囲ではありません。

「出役達書」


その「女実親呼出」後の駈込女の実家による「内済離縁(示談)」が不成功である場合が満徳寺と大きく違います。東慶寺では寺役人を夫方名主に出張させます。これを「出役」といいます。この「出役」以前が内済離縁で、「出役」以降が「寺法離縁」です。

「出役」と云っても、突然押しかける訳ではありません。その前に飛脚が「出役達書」を夫方名主の処へ届けます。内容は「誰々妻の駈込みの件で、松岡御所の役人が何日に行くので、夫ともども家にいるように」というお達しです。実はただのアポ取りなんですが。

ただしこれを始めた1720年頃には江戸の町奉行所は怒ったそうです。
それを認めるようになったのはしばらく後のこと。

で、名主側のマニュアルにも、万一菊桐御紋の「出役達書」が届いたら、箱を開けずに神棚に飾って、即座に夫を呼び出して離縁状を書かせるべしと書いてあるそうです。相手が松岡御所では勝ち目は無いし、厄介ごとが長引くだけだという訳です。飛脚も心得ていて夫の処に同行し、抵抗するとどんな大変な目に遭うかと夫に云い、内済離縁を薦めます。この効果は絶大で、ほとんどはこの段階で内済離縁が成立します。内済離縁ですから駈込女は寺に入ることなく、実家に帰れます。

ちなみにこの段階では、駈込女は東慶寺の近辺に三軒あった御用宿に泊まっています。

最後の手段が「出役」、寺法離縁


それでも離縁状を書かないと、本当に「出役」となります。東慶寺の寺法書をもって寺役人が出向くわけです。寺役人が出向くということは、「駈込んだ女房は東慶寺が預かる。確実に三年は寺から出さないぞ」ということです。おまけに、「菊桐金紋の御所寺の寺法である、御所の書式に従って離縁状を書け!」と。それでも離縁状を書かないと寺社奉行吟味となり、奉行所は「仮入牢」で夫を脅します。

あくまで江戸時代後期の、手続きが整備された段階での話ですが。

満徳寺と違うところは、「出役」以降は、夫が離縁状を書いてもそれは鎌倉松岡御所様お役所、つまり東慶寺宛であって、駈込女房には渡されず、足かけ三年、24ヶ月後にやっと駈込女房は離縁状を手にして、誰と結婚してもよいことになります。一方、夫は離縁状を書きさえすれば、すぐに誰と再婚してもよいのです。
一見不平等にも見えますが、それまでの示談が不成立な場合ですから、「お前の元女房は3年(実は足かけ三年24か月)は男子禁制の東慶寺から出ることはできず、他の男とも一緒になれないのだ。それぐらいで勘弁してやれ」と寺法離縁状に爪印を押させる効果はあるのかもしれません。ともかく爪印さえ押させれば、女房は24か月後とは言え再婚の自由を勝ち取れる訳です。

ところで、東慶寺の場合は夫の書く離縁状は東慶寺宛です。24ヶ月後に女房が何を貰うのかというと、その東慶寺宛離縁状の写しに寺役人が「このとおり間違いはない」と添え書きをしたものです。東慶寺の縁切寺の今昔展ではそのコピーが展示されていました。

なお、既に触れたとおり、駈込女は寺に入ると言っても、出家する、尼になる、ということではありません。尼になるなら何処の尼寺でもなれたでしょう。形式的に髪をちょこっと切りますが、頭を剃る訳でもありません。24ヶ月後には寺を出て誰とでも結婚できるんですから。ここがよく誤解されると先々代住職の井上禅定老師が書かれています。

ん? あれ? 
「一般には、縁切寺で妻が離婚を勝ち取るには、尼として数年間寺入り(在寺)する義務があったかのように理解されているが、尼となるのは調停が不調となった場合の最終手段であり・・・」(wikipedia)。
ひどいですねぇ、これは。尼にはなりません。

縁切寺東慶寺あれこれ

さだまさしの"縁切寺"

ところで、鎌倉に関係の無い友人などに「東慶寺でさぁ」と云っても通じないことが。
「えっ? 東慶寺を知らない? さだまさしの"縁切寺"だよ〜!」などと。

そう云えば私の自転車のフレームを作ってくれたビルダーさんを鎌倉に招待したときに、円覚寺の鐘突堂のお茶屋さんで、「向こうに見えるのがさだまさしの"縁切寺"ですよ」と云ったら、「俺もこんな厄介な客とは早く縁を切りたいなぁ〜」と云われたことが。フキフキ ""A^^;

私にとって東慶寺を最初に知ったのがそのさだまさしの縁切寺なんですが、最近の若い友人達の中にはそれすら知らない人が。さだまさしを知らないなんて、信じられない!
でも、改めて聞いてみると、 ひどい歌詞ですね。

ちょうどこの寺の山門前で
きみは突然に泣き出して
お願いここだけは 止して あなたとの
糸がもし切れたなら 生きてゆけない

「ちょっと待て。相合傘な二人を引き裂くのが縁切寺じゃねーぞ。 ふざけんな!」
と今は思うのですが、40年ぐらい前に彼女と初めて東慶寺に来たときにはちょっと緊張。
「ふん、そんなもん迷信じゃ!」なんて強がったけど、実は迷信ですらなかったんですね。(笑)

人の縁とは 不思議なもので
そんな君から 別れの言葉
あれから三年 縁切寺

ここはしんみり来ますねぇ。東慶寺に行ってから三年じゃなくて、付き合いだしてから三年ですが。三年ってけっこう意味があるんですね。 

おや? 竹内まりやの「駅」を聞いていたら「2年の時が変えたものは、彼の眼差しと、私のこの髪」だって。
う〜ん、足掛3年24ヶ月ですかぁ。男には過去のことになって、女は結婚できるぐらいに髪が伸びると。
でも男も女も結構胸キュンな想いをいつまでも心の奥にしまっているものなんですよね。だってラブラブソングよりも元カレ元カノ思い出ソングの方が断然多いでしょう。

子供連の駆込み?

何年か前、親父が入院していた病院の写真好きな看護師に東慶寺さんのカレンダーをあげたら、「子供を連れて駆け込めるのかしら?」と。 「いや〜、そういう事例は聞いたことが無いけど」と答えたんですが、乳飲み子はしょうがないと何処かで読んだ気もします。でもその看護師さんには該当しません。だって一眼レフ買って運動会で子供を撮ったら、豆粒ぐらいにしか写らなかったって云ってましたから。運動会に乳飲み子は出ないでしょ。

そもそももう尼寺ではないし。(;^_^A アセアセ…

変わった事例

ところで、東慶寺は江戸時代でも別れさせることばかりやっていた訳ではありません。
悪い亭主も改心し復縁ということもあります。
それどころか、駆け込んできたんだけど、亭主が嫌いな訳じゃない、姑がどうにも堪えきれなくてと泣き崩れる女房が。そこで姑を呼び出して問い質してみると、確かに姑がひどい。そこで姑を説得し、夫婦の別宅を建てさせたという話があったように思います。良い話ですね。でも何処で読んだんだろう? 先々代の井上禅定師の本ですかね? そうでした。『東慶寺と駆込女』 p.112、 『駆込寺』 だとp.120 です。 『駆入寺』 p.158 「元治元年多摩府中のきよ女」にはもっと正確に済口証文の文言が引用されています。ハッピーエンドですね。

続・変わった事例

もうひとつ変わった駆込みを紹介しましょう。井上1955 『駆入寺』 pp.159-160 「安政三年曾屋村のまさ」です。神奈川県秦野市の曽屋でしょうか。直線距離でも30kmぐらいあります。そこから病身の妻がなんと夫に付き添われて駆込んでいます。

夫に付き添われて駆込みってどういうこと。亭主は勝手気儘に三下り半が出せたんじゃないの?

まさは病気で夫の世話が出来ないと親類縁者に離縁の相談をしますが不首尾。ならば尼になってと家出します。夫は病身の妻を案じ、こうなったら妻の思うようにさせてやりたいと「傍付添御門前迄罷越」。それだけでも涙が出そうなんですが、さらに夫の父も「途中を案じ見送り」と。
「本人たちがそうなのに何で離婚できないんだ!」
なんて思いますが。でもまあ、寺役所の調停で、双方とも村で顔の立つように離婚できたとか。
離婚をハッピーエンドというのもなんですが、でもこの場合はハッピーエンドと言いたいです。

もちろん裏を色々考えることはできますがね。でもここは素直に受け取っておきましょう。
ただひとつ注意すべき点は、冒頭に触れた平凡社『世界大百科事典』の記述にあった様に、「離婚は仲人・親類・五人組等の介入・調整・・・が通例」で、「我等勝手に付き」はタテマエの世界での定型文言。実は夫の「勝手」はそうそう通るものでは無かったということはこの一件からも言えそうです。

東慶寺文書修復基金

宝蔵の「縁切寺の今昔展」には、高木先生所蔵の文書や、東慶寺所蔵の文書が展示されていますが、その内、日記2冊はもうボロボロです。関東大震災以前には100冊ぐらいあったそうですが、今残るのはたったの2冊。いや、それも含めて東慶寺文が773通と20冊が国の重要文化財に指定されていますが、展示されている日記などのようにボロボロなものも。

約100冊とは日記2冊に対応するものではなく、日記以外も含めた20冊に対応するものだったかもしれません。宝蔵での先生との立ち話なんで記憶があいまいです。

そこで東慶寺さんでは、その修復のための基金を現在募っています。一口千円とか。
宝蔵で先生にお聞きしたのですが、文書1枚の修復にいくら掛かるかというと、千円から三千円ぐらいなんだそうです。修復をするのは経師屋さん。でも東慶寺文書は重文なので認定を受けた経師屋さんでないとダメみたいな。まとまった量を注文すれば多少安くはなるかもしれませんが。
かろうじて今に残る東慶寺文書だけでも、きちんと修復して次の世代に伝えてほしいものですね。修復で利益を得るのは次の世代のみんなですから。

ちなみに「かろうじて今に残る」と書きましたが、今残る東慶寺文書が773通と20冊というのはおっきい段ボール箱1つか2つぐらいなんだそうです。「千年の手仕事を次世代へ」のときに書きましたが、昔、東慶寺文書が襖屋さんに流出したことが。襖屋さんに残った風呂敷ひと包みぐらいが救いだされたんですが、その襖屋さんには最初リヤカー2台分ぐらいあったそうです。そのほとんどは襖の下張になってしまったと。何処の襖なのかというと、葉山の御用邸なんだそうです。それを聞いて小丸さんも諦めたとか。その葉山の御用邸。その後火事にあったので、襖の中に残っていた古文書もみんな燃えてしまったんでしょうね。こういう「諸行無常」はやりきれないです。

参考文献

  1. 井上禅定 『駈入寺―松ケ岡東慶寺の寺史と寺法』  小山書店 (1955)
  2. 井上禅定 『駆込寺―離婚いまとむかし』  現代史出版会 (1976)
  3. 井上禅定 『東慶寺と駆込女』 (有隣新書) 有隣堂 (1995/06)
  4. 高木 侃 『三くだり半と縁切寺−江戸の離婚を読みなおす』 (講談社現代新書)  (1992/03)
  5. 高木 侃 『三くだり半―江戸の離婚と女性たち』 (平凡社ライブラリー)平凡社; 増補版 (1999/07)
  6. 高木 侃 『泣いて笑って三くだり半―女と男の縁切り作法』 、教育出版 (2001/04)
  7. 藤井謙治 「17世紀の日本」『岩波講座 日本通史〈第12巻〉近世2』  岩波書店 (1994/03)
  8. 鈴木ゆり子 「百姓の家と家族」『岩波講座 日本通史〈第12巻〉近世2』  岩波書店 (1994/03)
  9. 笠谷和比古 「習俗の法制化」 『岩波講座 日本通史〈第13巻〉近世3』  岩波書店 (1994/09)
  10. 佐藤常雄、大石慎三郎 『貧農史観を見直す』 (講談社現代新書) 講談社 (1995/08)
  11. 長田かな子  『相模野に生きた女たち―古文書にみる江戸時代の農村』 有隣堂 (2001/01)
  12. 渡辺尚志 『百姓たちの江戸時代』 (ちくまプリマー新書) 筑摩書房 (2009/06)


この稿は7月28日の第一回講演の直後から1ヶ月の間に相当変わりました。縁切状をザッと理解するだけなら高木先生の『三くだり半と縁切寺』だけで十分です。しかしそれをより正確に理解しようとするなら、長田かな子さんが報告するどちらかと云うと民俗学的な実態への理解。そして笠谷先生の「習俗の法制化」のような、タテマエの実態、その時代的変化への理解が大事だと痛切に感じます。

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