鎌倉 2014.02.11 東慶寺の白蓮舎開店 |
わお〜、白蓮舎の御茶屋さんが開業してます。 東慶寺ブログに全然出てこないからまだかと思ってた。 梅は? まだ少ないは少ないけど、ちゃんど咲いてますね。
では入ってみましょう。おっと、その前に入口のお約束の白梅を写さなきゃ。
雪景色は良いですねぇ。えっ、どれが梅だって?
目の前にあるじゃないですか。あんたの目は節穴?
1年ぶりに「こまき」の生菓子です。 あっ、シマッタ。写真撮るまえに食べちゃった!
しかたがない。モデルの写真から想像してください。この紅梅がモチーフです。
係りの方とちょっとお話したら開店は今日からなんだそうです。
その立礼(りゅうれい)なお茶室の前が宝蔵。今は仏像展をやっていて水月観音や木造観音菩薩半跏像も出ているはず。私はその学術調査のために来たのであります。 実は私、昔から「七つの顔をもつ男」と呼ばれてまして、映画にもなったことが。 ということで宝蔵へ向かう途中、蝋梅はもう終わりですね。
中国の南宋風の仏像は京都の泉涌寺(せんにゅうじ)と鎌倉のみに残っているのですが、こちらの水月観音はその中でも忠実な宗風。建長寺にある南宋伝来の白衣観音にも共通する姿態です。南宋の仏像は、肉身は白土塗りの上に金泥仕上げをし、衣文は文様の輪郭を練り物で盛り上げ、その上に金彩を施しているのが一般的です。 水月観音像は今は灰色の坐像にしか見えないんですが、盛上装飾の痕跡があるはず。とそれを探しにきたんです。 姿形は似ていながら、同じ鎌倉時代でも末期と推定される木造観音菩薩半跏像の方は、漆下地と思われる黒い層の上に白土塗りがあり、おそらくこちらも 金泥が施されていたと思うのですが、でも水月観音像に確認できた布貼がないように見えます。水月観音像ほど写実的ではないと浅見先生もおっしゃってました が、装飾法でも若干簡略化されているように感じます。まあ、見落としということも十分にありますが。 これが逆だったら私の仮説は崩れたんですが、まだまだ大丈夫ですね。 どういう仮説かというと、水月 観音像を東慶寺に持ってきたのは泉涌寺6世長老の願行憲静(けんじょう)ではないかということです。まず南宋風の仏像は京都の泉涌寺から鎌倉に伝わっていること。律宗の泉涌寺系(北京律)は極楽寺などの西大寺系(南都律)には少し遅れをとりますが、でも憲静もかなり鎌倉に出没しています。そして覚山尼が東慶寺を 開いた頃、泉涌寺系は必死に北条貞時に取り入って、憲静の高弟は憲静没の翌年、北条義時が建てた大倉薬師堂を引き継ぐ形で覚園寺を創建し、それを鎌倉幕府への大使館のようにして幕府の後ろ盾により全国に勢力を広げます。そしてその憲静の外護者は覚山尼の父、霜月騒動で滅ぼされた安達泰盛です。 北条貞時は安達氏を滅ぼした御内人平頼綱を平禅門の乱で誅し、安達一族を復権させますが、その間安達一族の生き残りを庇護したのは覚山尼であろうと言われています。安達泰盛の縁で覚山尼に接近するのが執権貞時に近づく最短距離でしょう。覚山尼に直に口利きを頼んだのか、恩人の娘覚山尼に宗の観音像を寄進したいという口実で貞時に面会したのか、それは判りませんが。そういうコネクションの獲得の為なら入手出来る最高級の仏像を使うでしょう。つまり、水月観音像は南宋伝来である可能性を考えているんです。禅律の僧がそんな生臭いことをって? 泉涌寺は「御寺」つまり朝廷の寺になってますよ。後発なのに。憲静は東寺の大勧進。その高弟である覚園寺開山は忍人のあとの東大寺大勧進。つまりスポンサー獲得のプロです。 こうして泉涌寺派は室生寺を含む自派13ヶ寺を幕府の祈祷所とすることを願い認められています。
あれ、また門前払いだ。いや、もう門内に入ってるか(笑)。
本日の目的は達したので帰ることに。あれ? あのお嬢さんは白蓮舎にいた人? 違うかなぁ。
出口には吊るし雛が。この時期、北鎌倉のお店にはかならず下がってますね。
で、寺役所を覗いてみたら。「本日はご予約で満席」と。
言っときますがねぇ、私はしょっちゅう来てるんですよ。でもこれで入れないんです。 他の季節は北鎌倉・東慶寺 indexからどうぞ |