2015.05.13     東慶寺・二人の和紙展 

本日のメインはこちら。東慶寺・二人の和紙展の和紙ツアーです。
でもこの日東慶寺に急な法事が入ったとかで、ダブルどころかトリプルブッキング。まあ、檀家さんあってのお寺、というか檀家さんのためのお寺ですから。でも私は右往左往。

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ギャラリー

二人の和紙展の会場は東慶寺ギャラリーの二階。この写真の右側だけは井谷さんとこの斐伊川和紙以外も。奈良の吉野紙、土佐紙三種、美濃紙、東大寺紙(白石和紙)、石州和紙、細川和紙(埼玉)、江戸からかみも用いて色々な風合いを見せてくれています。

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二人の内のひとり井谷さんとここで話をしていたのですが、お二人に写真を撮っても良いと云われたので。実はこの写真、ツアー後のものです。

江戸からかみ? 東京でも和紙を漉いてんの? と思って質問したら、紙自体は確か越前とか言ったかな? 江戸からかみの雲母揉み紙と言うのは雲母(キラ)を混ぜて漉いた和紙を一旦もみくちゃにしてそれを伸ばすんだそうです。何でそんなことをするのかというと、それが模様になる。

東京の伝統工芸品だそうです。あれ?「からかみ」って唐紙のことかい。そりゃ〜紙漉とは違うよなぁ。

井谷さんとこの斐伊川和紙にも板干しというのがあります。
今の生活ではウレタン塗料された凹凸のない板しか目にしませんが、生の板だと時間が経つと木目の凹凸が出来ます。その板に貼って乾かすと板の木目の模様が浮かび上がる。
他にもまだ。例えば、和紙を漉く道具は木枠に網を張ったようなものですが、その網は萱(あし)、茅(かや)を南京玉すだれのようにして組んでいます。例えばここで使われている土佐の和紙ではその網も模様に使ったり。

今では何でもかんでも思い通りに 機械で加工出来てしまいますが、そんなことの出来ない時代から人は変化とか美しさを求めて、有るものを使って色んな工夫を重ねています。
字を書く、 印刷する紙としての機能には何の関係も無いんですが。やはり人間はどんなに貧しくとも、ほんのちょっとしたことでも遊びが欲しくなるんでしょうね。例えば 官窯でない農村の陶器、雑器でも、小鹿田や小石原の刷毛目とか飛びカンナなんてまさにそういうもんです。お皿や壺としての機能には何の関係もありませんよ。でもちょっとした工夫で変化をつけたがる。釘で画を彫ったりね。買い手はそれを喜ぶ。と言っても板の木目の模様は字を書く紙ではなくて襖紙でしょうが。

昔、寒村では女性の着物は1枚だけでした。勝負パンツどころか、下着、つまり肌襦袢とか腰巻きなど履いていない。持っていないんです。農民と言っても地域によって生活レベルは全く異なり、そんじょそこらの武士などより裕福な農家も思いの外多かったのですが、でも山間部はたいてい貧農です。江戸時代には神奈川県でもそんなところがありましたが、地方では戦前までそういう処も多かったようです。民俗学の本で読んだのですが、日本海側の農家、確か能登だったかの有る地域の女性は、そのたった一枚の粗末な着物(野良着)の裾にほとんど線のように赤い布を縫い付けるんだそうです。すると下に緋色の腰巻きを履いているように見える。たったそれだけでとてもとても色っぽく見えたとか。誰が言っていたかというと宮本常一先生です。それだって保温とか保護にはなんの関係もない。口紅とか光り物のアクセサリーとはレベルが違い過ぎますが。着物が一枚しかなくともそうやって精一杯のお洒落をする。

和紙なんて今では贅沢品で、この「二人の和紙展」を見にくる方々は平均よりは上の生活レベルと教養をお持ちな皆さんでしょうが、今では贅沢品の和紙の中に生きている技法の中には(あくまで「中には」で「全部」ではないですが)そうした生活の知恵、ほんのちょっとしたコストで遊び心を満たそうとする何代にも渡った工夫が生きているように思えて面白かったです。

おっと、私は和紙には門外漢なので、色々と説明を聞いていたらそんなことを思ったというだけのことに過ぎませんが。陶器に官窯と民窯があるように、沖縄の壺屋のように官窯と民窯の両方の仕事をして、国内留学までして上手の技術を習得したのと同様に、和紙にも上手の技法が沢山あるんでしょう。江戸からかみの雲母揉み紙なんて思いっきりそっちでしょうね。wikipedia には「紙を揉むのは、布地の感触をだす技法で、中世に茶道の表具用の紙として揉み紙が使用され、のちにから紙にも揉み紙の技法が採用された」とあります。

でもこのwikipedia の記事、和紙以外のところでは思いっきり間違えてますね。「鎌倉時代にはいって書院造りが普及」だって、バカ言うんじゃねぇ! 江戸時代の本でも見たんでしょうか。

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ところで、実はここで井谷さんと写真の話をしていたんです。「ナントカ補正とかするんですか?」と聞かれて「滅多にしません。いちいちそんなことしてたらどんだけ時間がかかることか」(例えばこのページは写真が19枚あります)。で、補正をするときもカメラでではなくて、カメラは自然光の設定で、PCに画像を移してから画像ソフトでやります。なんて話をしていました。 

その実例がこの上下の補正した室内写真です。普通やるホワイトバランスはどれかを無彩色とみなしてそれをベースに室内光の色の影響を自動補正するというもの。上下の画像はテーブルの白が無彩色になるようにしました。補正しないとどんな色かは室内写真三枚をそれぞれクリックしてみて下さい。室内は茶色っぽく、窓の外は自然な色でしょ。これが自然光と室内光の色温度の差です。ギャラリーなので光源にも気を配っているはずなのですが、それでもこれだけ光源の影響が出る。おまけに補正後は正しいのかというと、鈴木さんが使った和紙はここまで茶色っぽくなかった。ギャラリーのブログにあるプロの写真の方がまで雰囲気を伝えています。まあそこがプロとアマチアの違いで。

更に言うなら、このページの色合いだって、見るPC(ディスプレイ)によって替わります。私はPCに2台のディスプレイを接続してますが、ちゃんと同じ色合いになるように調整していても、全く同じではない。右のディスプレイ、左のディスプレイと見るページを動かすと微妙に色が変わります。

和紙を見るときの、あるいは使うときの問題点がここにふたつあります。私は「鈴木さんが使った和紙はここまで茶色っぽくなかった」と書きましたが、人間の目は知らず知らずのうちに補正してるんです。より正確には「目が」ではなく、「脳が」ですが。
もうひとつは、和紙は屋外の自然光ではなく室内の照明で見るものだということです。今の住宅はたいていは青っぽい蛍光灯。あるいは赤っぽいフィラメントの白熱灯。和紙が普通のものだった時代は赤っぽい蝋燭の光。あるいは障子越しの自然光でも暗い。だいたい晴れの日の屋外の自然光だって朝・昼・夕方で全然違います。雲がかかると更に。すると、和紙の色って何、ってことになりますよね。工事現場の黒と黄色ならともかく、今回のテーマの和紙の白なら尚更です。おそらく経師の鈴木さん達は、その部屋の明かり、光の状況を考えて、作業場で見るこの色合いはあそこならこう見えると無意識のうちに補正して紙を選んでいるのではないでしょうかね。聞けば良かった。

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水月堂

当初予定は書院の襖だったのですが、お伝えしたとおり法事で書院にははいれません。
なので今日は水月堂です。個人的には「やった♪」で御座います。

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それもここから入れるなんて。お茶会みたい♪ 
いや、以前水月堂で水月観音様を拝見したことはあるのですが、そのときは書院から本堂を通って水月堂に渡ったんです。

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この位置に立つのも始めて。でもここから先は撮影禁止です。

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水月観音様は今回省略。今日は和紙ツアーなので。水月堂自体には和紙はそれほどありません。実は前田侯爵の持仏堂だった頃、あるいは加賀百万石江戸屋敷の持仏堂だった頃からの襖があるんですが、それは見事なもの。ただし宝蔵の倉に仕舞われているんでしょう。ここにはありません。

鈴木さんの仕事は水月観音様の後ろの金箔の壁。海外の壁画は壁に直に画を描いたりするかもしれませんが、日本では直にではなく、簡単に云えば絵のパネルを壁に取り付けることが多いようです。そのパネルは襖のようなものでしょうか。実は水月観音様の後ろの金箔の壁もそうで、左右の壁際を見るとそれが判ります。

もうひとつの和紙は天井際の壁上方の15cmぐらいでしょうか。やはり細い絵のパネルが貼ってあります。金粉銀粉で雲の絵が描かれていました。参加者は女性がほとんどでしたが私の他にもう一組男の方(業界関係者?)がいらっしゃって、鈴木さんに振られてその方が説明してくださいました。実は天井が普通より高いんです。それを紛らわすために(言葉は悪いですが)だろうと仰っていました。その絵の下には横柱があるんですが、良く見るとその横柱(何と云うんだろう)は縦柱に食い込んでいるのではなく、縦柱に打ち付けて有る感じ。そこからも上の雲の絵は壁に直にではなく、襖のようなパネルに描かれて、そのパネルが埋め込まれていることが判ります。とか云いながら証拠写真が無いのでちょっと不安。これはもう一度検証に行かなければなりませんね。

更にもうひとつ。と言っても普段は書院にある屏風なんですが、ツアーのためにこちらに運ばれていました。この市松模様の屏風は桂離宮に納めたものと同時に作られたそうです。確か鈴木光典さんのお父上、鈴木源吾親方のお仕事だったと思います。使っているのは斐伊川和紙。ただし何年もストックしていたものだそうですから伸次さんの先代の頃かもしれません。

これは2013年の書院での写真です。

問題はこの青。一旦青に染めた紙をまた溶かして漉きなおしたというとんでもないものです。なんでそんなことをするのかと云うと、青の色がしっとりと落ち着くのを狙ったそうで、まったくもう美意識を押し通すためには何でもアリなんですね。そういえば古田織部は茶碗をワザと割って金で接いだなんて話を読んだ気がします。高校生の頃なんで本当に古田織部だったかどうかは。

で、紙の漉返し。鈴木さんは昔の鼻紙を例にあげられましたが、こちらにも書きましたが、実はかなり古い歴史をもっています。みんなが屏風を見ているあいだに、鈴木さんやギャラリーの方と雑談していたんですが「漉返しは平安時代には朝廷の公文書にも使われていましたよ〜」と云ったら、ギャラリーの方が「え〜! う〜ん。昔は紙は貴重品ですものねぇ」と。御意。

証拠を引用しましょう。「天皇の命令でも略式の命令であった綸旨や口宣案には貴重な新品の紙は利用できず、このため、漉返紙を代替品として用いた。ところが、それがいつしか有職故実となって定着し、逆に綸旨には漉返しされた紙を使用して作成するものとし、新品の紙を用いることは作法に反すると考えられるようになった。このために綸旨紙とも呼ばれた。」(wikipedia 漉返紙)。古文書に残る漉返紙は墨の色が広がったグレーのきたない紙です。見ればすぐに判ります。

ところでその屏風の裏は、というのがこちらの画像。確か明治初期の木版本の紙と聞いたと思いますが、それを裏張りにしています。1週間前に古文書解読な「歴史好きな人達」を連れてきたとき、に鈴木さんがあるパネルを裏返して木版本の紙を裏張りにしている処を見せてくれたのと同じです。違うところはこちらは先代の仕事であちらは光典さんの仕事というだけ。

これも2013年の書院での写真です。

その仲間の「なんでそんなことをするんですか?」という質問に私が「紙が暴れるのを押さえるためだよ」と言ったのですが、紙は暴れます。 だから水彩画とかポスターカラーを使うデザインなどで、一旦濡らして伸ばした紙をパネルに貼り付け、それが完全に乾いてから使います。紙ではないですが、油絵でも同じようなことをします。イメージが掴みやすいのは、本が濡れちゃったときですかね。濡れたページは乾いても元のピンとした紙にはなりませんよね。

私は和紙に詳しくはないので、ある程度イメージ的な説明になりますが、漉きたての紙は繊維間に不均一な緊張をもっていると考えてください。濡れたページが乾くとブヨブヨになるのはその緊張がほどけたものだと。日本は高温多湿だったり乾燥したり。湿度差、温度差の激しい国です。それは四季折々という楽しさの元でもありますが、素材にとってはやっかいな問題を引き起こします。元々繊維間に不均一な緊張をもっている紙が何かに貼られることでまた強制的な緊張が加わります。それに四季折々の温度差、湿度差がそのWの緊張に拍車をかける。下手をすると襖が破けたり木枠を曲げてしまったりします。あるいは濡れたページのようにブヨブヨにたるんでしまったり。カッコ悪いったりゃありゃしない。

で、日本画の方は特にそうでしょうが、書をやる人でも買った紙をすぐに使うということはあまりしません(練習は別でしょうが)。買ってきた良い紙は何年か寝かせておきます。すると四季折々のゆっくりとした温度差、湿度差がその緊張じんわりと解いていきます。だからすぐよりもせめて1年、出来れば数年寝かせた方が暴れない使いやすい紙になる。それが百年となれば、おわかりですよね。繊維間の不均一な緊張はすっかりほぐれていることでしょう。その緊張のほぐれた紙で、表面の比較的新しい紙の緊張を押さえる訳です。

似たよううなことは他の素材にもあります。例えばガラス。ドロドロに溶けたガラスを鉄パイプの先に付けて吹いて形を作る。金具で形を整える。で形が完成。でもそのままではグラスにもお皿にも使えません。ガラスの分子は「不均一な緊張」を中に秘めていて、ちょっとした衝撃で割れます。だからまた高温の窯に入れてこんどはゆっくりと冷ましていく。それによってガラスのなかの緊張を解いてやる訳です。昔の記憶で書いていますのでちょっと自信は無いのですが。

もっと判りやすい例は木材ですかね。生木を伐採してすぐに板や棒にしてしまうとすぐにひわるはずです。だから丸太のまましばらく寝かせる。すると良い板が取れる。さっさと使いたいときは集成材とか合板にして緊張を相殺する。でもこれって工芸の世界だけの話ではありません。
全くお門違いな自転車にだって似たようなノウハウがあります。
ホイール(車輪)を組むとき。ガチガチには組みません。ほんのちょっと緩く組む。そして組み上がったホイールを床に寝かせて、スポークの上に立って踏みつける。それをちゃんとやらないと不均一な緊張がリム(車輪の輪っか)を曲げます。走行性能の悪化させるばかりか、恥ずかしいですよ。ある程度の自転車乗りにはすぐに気づかれますから。

襖や屏風の話に戻って。
裏張りの張り方も、全面に糊を付けてべったりではないそうです。糊を付けるのは端っこだけで、更に互い違いに張り、裏張りの紙の間に隙間を作るそうです。建築の世界で云うと、五重塔なんかの柔構造ですね。柔構造って色んなところで云われて『治療的柔構造―心理療法の諸理論と実践との架け橋』なんて本まで。表紙は五重塔のシルエットです。あれ? 岡野先生京大大学院の教授になってる。(ビックリ)


寒雲亭

水月堂から本堂向かいのお茶室へ。寒雲亭についてはこちらをご覧ください。前回はそこまで気が回らなかった「真行草の天井」と、天井の鈎から冬の炉は確かに向切(むこうぎり)であることを確認しました。

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この時期は寒雲亭には和紙を貼った障子も襖もありません。湿気対策でしょうか。何て云うんだろう。和紙の代わりに竹の枝?を組んだ引き戸で、外気がそのまま入るようになっています。ただし和紙の説明のために障子を戻してもらったそうです。
和紙の説明とは障子での和紙の貼り方です。普通の障子は桟の部分で和紙を貼り重ねますが、お茶室では三千家それぞれに流儀みたいなものがあるそうです。必ずという訳でもないそうですが。そしてここは武者小路千家流。奥さまがそうですので。武者小路千家では桟と桟の間で紙を接ぐ段、桟で紙を接ぐ段が互い違いにすることが多いそうです。すると障子にも景色が出来上がる。そういうのを景色と普通云うかどうかはしりませんが、そういうしか伝えられないような気がして。

あと和紙を使っているのは、土壁の下部1尺、あるいは1尺強程度に和紙が貼ってあります。これも景色の演出なのか、あるいは壁の保護なのか。私は景色の演出の方が大きいんじゃないかと思いますが。もう1箇所特筆すべき和紙による保護はあるんですが、これはどうにも説明しずらいのでパス。

ここでお茶を頂けるのかと思ったら、これまた予定変更で白蓮舎の方へ案内されます。

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白蓮舎

そうとは知らず、私はこの和紙ツアーが始まる直前に白蓮舎で生菓子を頂いていたんですよね。
そうしたら顔見知りの係の方が、「今日はもう大変で。中が使えないんですよ」と。
「ああ、法事の方のためですか」。
「いえいえ、その法事が入ったんでいつも書院でやっている古文書講座がこちらに移ってきて、それで、茶店はこの軒下だけになっちゃったんです」。
いや、花菖蒲を見るにはこの軒下が最前列でベストポジションなんですが。
その話で、今日はダブルブッキングじゃなくてトリプルブッキングだったのかと気がついた訳です。
実はその直前に白蓮舎の入口で高木先生にお会いしてご挨拶していたんですが、それで高木先生が居たのか〜。と思って振り返ると、ガラス戸の向こうで先生が受講生に紙を配っていました。

更に続けて係の方は「そのあと和紙ツアーもここに来るんですよ〜」、
「え〜! 私はそれで今日も来たんですよ」、「あらまあ!」
なんて話を。

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7日にここに来たとき、その係の方と「今がピークでしょうねぇ」なんて話ていたんですが・・・。

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その通りになりました。1週間前の方が花は多かったですね。 

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本日二つ目のこまきの上生菓子です。まあ美味しいからいいけど。いや、寒雲亭で多分あの和三盆だろうと思っていたんで。でも鈴木さん、真面目なもんだからこのお菓子を運ぶのを手伝って、大上品な奥さまに「このお菓子のお銘は?」 とか聞かれて往生してました。お茶会だと亭主と客の会話の常套句なんでしょうが、鈴木さん東慶寺のスタッフじゃないからねぇ。

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ギャラリー1階のショップ

こちらはギャラリー1階のショップです。大きな窓で自然光が沢山入るので補正ナシです。

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鈴木さんや井谷さんは「学問の世界では知りませんけど」と良く云うので、「学問の世界の話ですけど」と井谷さんに聞いてみました。秀吉の頃に和紙に大きな技術革新があって、それは紙を漉く枠を紐で吊すことによって大きな枠を使えるようになり、大きな紙が作れるようになったと。それを聞いたのはこのときです。そう話したのは塩澤寛樹先生。井谷さんに「そんな話聞いたことあります?」と聞いたら「知らなかった。もっと最近かと思ってた。でも正しいと思う」と。ついでに「でも一部でしょ」と。それはそうだろうと思います。おそらく京の周辺の一部だけでしょう。需要はまだそのあたりに止まっていたと思うので。

秀吉の頃というのは日常的な戦乱は一応終わりを遂げ、聚楽第や大坂城が築かれ、狩野永徳やら長谷川等伯が豪華絢爛な屏風絵や襖絵などの障壁画を書い た時代です。それこそ金にいとめは付けずに。ある意味バブル期ですね。各地の大名は京、大坂に豪華な屋敷を競うように建て、お茶(茶道)が流行り、競って茶室を建て、茶事に呼んだり呼ばれたりするのが、アメリカ風に言うならロビー活動、それで相手の器や腹の中を探り、根回しをし、威圧すると言う時代です。人を呼ぶ書院や茶室はいわば戦場。金屏風や茶碗に大金を投じるのだって、単にバブルに浮かれていた訳ではありません。兵を動かし、いくさをすことに比べれば安いものです。襖を大量に使う書院造りが本当に浸透したのもこの時期でしょう。

その豪華絢爛、金にいとめを付けない襖や屏風の大量注文、絵師のニーズに応えられるように編み出されたのが大型の紙漉枠だったのではないでしょう か。その大型とは、井谷さんも仰ってましたが、今の普通。ここにある紙の大きさです。それ以前の和紙というのは、塩澤寛樹先生の言い方だと、「両手をだら んと垂らして、ちょっとだけ体から離して前後に振ってみてください。それが中世の紙の巾です」。つまり卒業証書や表彰状の大きさ。中世の古文書は多少バラツキはありますが、だいたいそれぐらいです。その技術革新、あるいはニーズの広がりが地方にまで及ぶのには相当の時間を要し、全国に定着するのは井谷さんが仰るように明治以降だったかもしれません。塩澤先生は美学の博士で、歴史学でも民俗学でもありませんので。彼が云うのは美術史上最先端の技術動向です。


しかし漉き上がった和紙にも色んな色があるんですね。わざと漉き上がった和紙と言ったのは、これは後から染めたものではないんです。ドロドロな原料(ここにあるのは多分楮かな?)の段階で色を加えています。色を加えると言っても顔料ではなくて、草木(いわゆる草木染め)とか土です。土と聞くと「わっ、きたない」と言う反応は現代人のもの(いっときますが陶器だって土ですからね)。場所によって成分が違います。確か左上あたりが草木染め、右下側が土と聞いたような?

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流石にこちらは補正しました。あのラベルを無彩色と指定して。

こっちは土だったと思います。ちなみに一番上は雲母と書いて「キラ」を混ぜたもの。
私は「うんも」と言うと絶縁体として知っていただけなんですが、日本画の絵の具にも混ぜるらしいですね。「キラ」とか「キララ」というのはそっち方面での呼び方。あと鉄分を多く含む土とか。あの錆色がそうですかね?

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 同上補正です。


本日の戦利品

本日の私の戦利品です。伝統的な和紙ではありません。井谷さんの創意工夫。原料は多分楮と、墨と、あと鉄分を多く含んだ土です。それをどうするんだって? 聞いたけどお教えできません。
普通の使い方ですか? ギャラリー入口正面のカウンターの上面にも使っています。そのままでは手に墨が着くので、柿渋を塗って止めてあるそうですが。漆を塗ったらまた風合いが変わるんじゃないですかね。

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朝(か昼)に目を覚ますとこのパネルが目の前にあるんですが、このにじみというかムラというか、ともかくその模様と色合いが結構気に入ってます。

それにしても俺の部屋、壁がきたないなぁ。前にあった額の跡が残っちゃったし。
いや、もう築50年以上のぼろ屋で御座いますのでご勘弁を。あっ、色調調整に失敗したということにしよう。

そうそう、あの赤いのは唐辛子。
難(女難、逆ナン)を避けるためのおまじないに御座います。(世間の声:お前にゃ必要ない!)

上の本棚は私の作品。それはもう建築学会賞を貰ってもおかしくはないという自慢の作。写真の左側が柱間一間で、本の重みにたえきれないんです。そこで構造計算に一ヶ月以上をかけて、柱間に板二枚を渡し、それに取り付けた仕切り板に金具を取り付け、下の段の棚板前面を6mmのボルトで引っ張り上げているんで御座いますよ。俺って天才♪ 建築学会賞ってどうやって申請するのかしら?(世間の声:バカか!)

他の季節は北鎌倉・東慶寺 indexからどうぞ