2015.12.6 鎌倉常葉殿現地調査団 |
ブートキャンプ式次第結集場所; 鎌倉駅西口に11時。気象情報天気予報は大丈夫そう。お嬢ちゃんのテルテル坊主の御利益かしらん♪ 12/3,13:41時点 過去の予報では本日は強雨。降雨量は合計27mmだったのですが、 12/4 早朝時点 気温は推定で10度から15度の間。山歩き時間帯は12〜13度はあるでしょうが娑婆に降り立ってとのやまに向かい、更にそこから帰る頃には10度以下に下がる可能性も。 風速は本日4日金曜日はファイアーショーなら確実に事前に中止の連絡が来るぐらいの強風。 当日6日はとりあえずメンバーが集まり、様子見で可能なら強行突破ぐらいの風。 まあファイアーショーをやるわけではないですが、要するに体感温度は上記の気温より3〜4度下がるかも。日本気象協会の体感温度指数では、「指数:40、空気が冷たく感じられそうです」よりきつい「指数:30、外にいると体が冷えてしまいそう」です。南関東ではこれ以上はありません。ということでウインドウブレーカーは必須ということに。 12/5 早朝時点 天気予報では鎌倉は12度から10度。昨日の予想より下がっています。風速は4mぐらいなので体感温度は10度以下です。結構寒そう。 装備服装の基本は暖かくて速乾性で通気性の良いもの。 登山ではないけど山歩きです。寒い冬でも風が冷たくても汗をかきます。 ミドルやアウターの着替えまでは必要はありませんが、念のためインナーシャツ(例えばTシャツ)の着替えは持っていると安心です。女性は何処で着替えるんだって? 着替えるのはもうこのあとは汗をかかないという段階ですから公園やら銭洗弁天のトイレがあります。 手袋も必須。汚れるので軍手でも良いけど、100円ショップの「のび〜る」手袋がお勧め。ポケットに突っ込んでも軍手よりかさばりません。オシャレ〜な高か〜い手袋は禁止。平気で樹木つかめ、地面に手をつけるものでないと。「手袋が汚れるのは嫌」なんて云ってると谷底転落です。高いのはゴアテックスだからというなら可。 男性のインバネスコートは通気性に優れ、雨が降ってもバグパイプをガード出来るし、転んでもコートが汚れるだけなのでお勧めです。それに山の中ですれ違う人に絶対にウケる(笑) 大仏切通には滑りやすい斜面が1カ所。 12/5 追記、お嬢ちゃんへ。 ブートキャンプ行軍ルート:
これならば後白河の公方も満足して後鳥羽や後醍醐のようなことはせんだろう。(笑) いきさつ某お嬢ちゃんから奉書が届きました。「奉被下之、講座のおさらいに、年内に鎌倉行きたい!」だって。どうやら後白河の公方がなにやら陰謀を練っている様子。きっとまた「とのやま」で旨い酒を飲みたいなんて考えてんじゃね〜の? でもどうしよっかなぁ〜、「講座のおさらい」なら常葉殿かなぁ〜、と考えていたら、執権奥様から「大仏切通し!」というご下命が。ということで早々と行幸の候補地が絞りこまれたので御座います。
北条政村、時村の常葉殿は、今なら鎌倉駅の西口からまっすぐ西にトンネルを3つ潜れば良いのですが、でもそんなのはここ100年以内のこと。鎌倉時代にトンネルはありません。 トンネルの無いあの時代に政村、時村はどのルートで鎌倉中心部の執権・連署亭に通ったか。それが解明できたらノーベル歴史学賞がもらえるかも。ノーベル賞をもらったらたらハーバードかソルボンヌから名誉博士号がもらえるかも。名誉博士号さえあれば某東大名誉教授の椅子も夢ではない。よっしゃ−! えっ。どういう理屈だって? 理論物理学の世界で有名な「相対性理論」を超える という訳で先祖伝来の帝国陸軍の「軍事機密」を紐解いたので御座います。 実は国土地理院からこの日のために購入したんですが。 明治15年6月の測量。日本最初の西洋式測量図で御座います。測量したのは陸軍省と参謀本部の技師さん達。フランス式彩色図は挿絵まで描いてあります。粋ですねぇ。 当時は東海道線も横須賀線もトンネルもありません。大仏切通もれっきとした現役の国道。 鎌倉時代には海はもっと北に浸蝕していたと思います。特に滑川にそって。だから旧東海道があんなに北にぐにゃっと曲がってるんですよ。もっと南に車大路があるだろうって? ありゃ大町大路(旧東海道)のことだと思いますよ。高柳光寿先生の『鎌倉市史』もそこだけは間違いだと思います。 それにしても「神奈川県相模国鎌倉郡」て、すごいですね。まだ県名が浸透していなかったんでしょうか? ところが最大の難関は、問題の場所が地図4枚の境目であること。この地図をつなぎ合わせるのには苦労をしました。紙に手書きの地図なので細かい部分がずれるんですよ。(;^_^A アセアセ 明治15年の山道は江戸時代からのものでしょう。山の中で人の通りやすい処は時代が変わっても同じです。鎌倉時代だってこんな感じのはず。 常葉殿は時宗様の山内殿同様、鎌倉七口の外側なんですよね。常葉殿から鎌倉中に行くには山道を大仏切通の方へ向かい、旧東海道から宝戒寺近辺に向かうか、それとも尾根づたいに化粧坂へ向かい、武蔵大路経由で鎌倉官庁街に向かったのか。大仏・旧東海道の方だと遠回りなんだよねぇ。でもここで足を踏み外すと単なる「おバカ」で終わってしまい、ノーベル歴史学賞にたどりつけません。慎重に検証せねば。そうそう、大仏切通と化粧坂切通は赤い白抜きの四角です。 ちなみに旧東海道と言うのは北道倶楽部のこのページによると、645年に律令制における地方行政区分である「五幾七道(ごきしちどう)」が制定されてから771年の「五幾七道」制再編まで。当時は東海道は常陸の国までの国道として三浦半島を横切り横須賀市走水付近に出て走水海(はしりみずのうみ:現浦賀水道)を渡って上総の国から常陸の国へ抜ける道です。東京へ抜ける道ではありません。何故っていうと、当時武蔵の国は東海道じゃなくて東山道だったんです。 う〜ん。名誉博士号に名誉教授の椅子までかかっていると思うと、力が入りますねぇ♪ でもほんとに常盤亭跡?でもあそこは本当に北条氏常盤亭跡なんですかねぇ。可能性はあるんですが、実ははっきりしません。まさか一向堂の跡なんてことは。フキフキ "A^^; 文化庁『北条氏常盤亭跡』解説文(昭和53年)には。
「この鎌倉防衛上の要地」だって。鎌倉城史観の悪影響ですね。
まただ。「堅堀や腰曲輪など城塞的造成の跡」だって。この元ネタは多分市の調査報告書でしょう。文化庁が書いたというより市が提出した文章じゃないですかね。鎌倉の発掘は何でもかんでも鎌倉城に結びつけないとならなかったみたいです。市の教育委員会の指導で。なので鎌倉の周囲の山岳地帯の発掘調査報告書にはタイトル「鎌倉城」がつくものがわんさとあります。でも読んでみると「城跡」なんてどこにも書いてありません。東勝寺の発掘調査報告書なんか石段が見つかっただけで、城郭に流用出来るようになっていたとか。その当時の「城郭を築く」がとういうものを指しているのか、『吾妻鏡』で調べてみろってんですよ。
もうちょっとちゃんと発掘してくれないですかね。「五間×三間の礎石を有する東西棟建物跡」は寝殿でしょうか。三間四面じゃなくて三間三面だった? 柱間寸法はどれぐらいでしょうね。ってちゃんと図書館に行って調べれば良いのですが。 |