2016.06.26 中間報告・やぐらの広がり |
やぐら見学を終えて浄光明寺書院へ。 というか、本堂? おっ、格天井だ。 「鎌倉の文化財、その価値と魅力〜比較研究から見えたもの〜(中間報告)」 その連続講座第4回のお題は「やぐらの広がり」でした。発表者は神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会事務局、逗子市教育委員会の佐藤仁彦さん。 上総・安房(千葉県=津市,館山市,南房総市他)には鎌倉のやぐらと同じ様な石窟が多数あります。実はこのあたりは北条氏(特に律宗・称名寺をもつ金沢北条氏)が地頭となっている処で金沢文庫の対岸ですから鎌倉文化圏と云って良いでしょう。おまけに称名寺の子院があったところと読んだ覚えがあります。 陸奥(宮城県松島町)瑞嚴寺ほかにも多数の石窟が。これはあとで写真をお見せします。 加賀(石川県小松市)滝ヶ原町、能登(石川県志賀町)地頭町、越中(=山県高岡市)円通庵遺跡にも。 豊前(福岡県豊前市)如法寺、豊後(大分県大分市)曲石仏・少林寺、同(大分県豊後大野市)普済寺跡などにも。このあたりは鎌倉幕府高官大友氏が守護だったところです。 中国にも石窟群があります。ただしそれが直接影響したかどうかは判りませんが、中国の研究者と連絡を取り合ってこれから調査を進めるところとか。 ところで佐藤仁彦さん、このページ見ますかねぇ。ご案内はしていないんだけど、今「やぐらの広がり」で検索したらこのページがトップに出てくるので。 竹御所撮影の松島の洞窟群私は行ったことは無いのですが、実はこの発表会の直前に、コードネーム竹御所様から松島の洞窟群の画像を貰っていたのです。公表のお許しを頂いたのでそれを元にご説明を。 瑞巌寺まずは瑞巌寺から。この立て札の説明では鎌倉時代以降、江戸時代まで造営が続いていると。鎌倉では関東公方が古河に移った頃からやぐらの造営は止まり、室町時代末にはそれが何であったのかすら忘れ去られていましたが、こちらは伊達家の関係で江戸時代まで現役でいられたのでしょう。 「やぐら」という呼称は鎌倉でもそれが造営された頃の呼び名ではなく、それが何だか忘れ去られた江戸時代初期からのものです。なのでこちらにあるこれをやぐらと呼ぶ訳にはいきませんが、名称はともかく、同じ流れにあることは確かなように見えます。 瑞巌寺サイトにはこういう説明が。
後世の供養塔からその窟の掘られた時代を推定するのはどうかなぁ、とは思いますが、「中世に遡ると見られる痕跡はない」ということなのでしょう。普通は古いんだ古いんだと云いたくなるのですが、上記の説明には好感がもてますね。 逗子市の佐藤さんも現場での説明でも、スライドでの説明でも「供養施設」「堂」であることを強調されていたと思います。確か。 北条時頼の廻回伝説はここにもあり、禅宗の瑞巌寺の元は天台宗の延福寺であり、それを北条時頼は武力をもって天台僧を追い払い、禅寺にしたと云います。 その経緯の伝承の中にこうあります。全国を廻回(廻国)していた時頼は岩窟で修行中の禅僧・法身と出会い、延福寺の住職にならないかと提案する。法身は天台の寺の住職になる気はないと断る。時頼は天台が滅んだらどうかと聞く。法身は、そのときは禅宗の寺とすべきであると答える。そこで時頼は鎌倉へ帰り、千人の兵を差し向けて天台宗徒を追い払い法身に寺を委ねたと。 その岩窟と伝わる法身窟が残っていますが、写真を撮っていなかったそうです。代わりにこちらをご覧下さい。 下の写真は法身窟とは別物のようですが、何でしょうね。木造部分の造作は近世以降のものですが、しかし鎌倉時代後期のやぐらの姿を彷彿とさせます。やぐらも作られた頃はただの石穴ではなく、このように壁や戸がついていました。あるいは石を積んで閉ざしていたり。 伝承のみで確実な資料はありませんが、対立する双方の伝承から、北条氏が強引に寺を禅宗に改めたということは確かそうです。類似の事件は他にもあります。なお、天台宗対禅宗は、北条氏にとっては教義の問題ではなく、天台は権門体制の一角を占める武家権力とは別の「権力」であり、禅律はそれに対する中国渡来の権威ある新興勢力という 意味合いです。スポンサーが鎌倉幕府ですので幕府(北条政権)に逆らったりしません。 そもそも陸奥は北条氏の力が大きいところです。例えば北条義時は没後も奥州と呼ばれていますし、陸奥守は相模、武蔵に次いで北条一門の高官が就任する官職です。越後もそうですが、奥州の方が格が高いような。調べてませんが、おそらく鎌倉将軍の知行国(関東御分国)だったのでしょう。奥州合戦と、翌年の大河兼任の乱が鎮圧された結果、当地の有力豪族は消滅しましたから権益は全て独占できます。 竹御所は「宮城県の七ヶ浜・仙台の岩切は全部留守(伊沢)氏の領地だったはずなので留守氏の関与も気になります」と。留守氏とは大河兼任の乱の鎮圧のあとに陸奥国留守職、つまり頼朝の代官として多賀国府において国衙在庁の長官として国衙機構を総括した京下りの文官・藤原(伊沢)家景の子孫です。以降代々陸奥国留守職を世襲し、留守氏を名乗ります。国衙機構を通して陸奥国全体を統括すると同時に、個人(家)としてこのあたりの地頭職だったのでしょう。その留守氏は北条氏滅亡と運命を共にした訳ではなくて、戦国時代まで続き、伊達氏から養子を入れて、最後は伊達氏に吸収されます。 北条時頼の廻回伝説も、時頼の時代からこれらの石窟があったという話も、私はありえないと思いますが、ただし時頼の時代に実力をもって天台寺院を禅宗寺院に変え、更に時代が下って貞時か高時の時代に律宗石工集団がここに渡って鎌倉で掘ったと同様の「やぐら」を掘って「法華堂」の代用として当地の有力者に分譲したと。よく「禅律」と云われますが、禅宗は泉涌寺系(北京律)の人脈をたどって日本に伝わります。蘭渓道隆のことですが。そういえば蘭渓道隆は瑞巌寺の前身の禅宗寺院の住持だったことがありますね。「禅律」は割と仲が良いのですが、それだけでなく、ともに北条政権の意向に沿うことで勢力を伸ばしたという共通点があります。 鎌倉でも禅宗寺院にやぐらが良くあります。竹御所にお見せした中では東慶寺、円覚寺、浄智寺、称名寺は全部禅寺。あとは建長寺に寿福寺にも。つまり禅宗鎌倉五山には全部やぐらがある。連署は明月院にもあるのを知ってますよね。 鎌倉では関東公方が鎌倉を去ることによって「法華堂」のニーズも供養する人も居なくなったが、こちらは留守氏から伊達氏、及びその家臣団という顧客が絶えなかったために、石工の子孫達も失業することなく、石窟法華堂を江戸時代に至るまで造り続けたと。 なんでとうとつに「石窟法華堂」などと言い出したかはwikipediaの「やぐら」をご覧ください。 円通院円通院は瑞巌寺の塔頭なんでしょうか。地図で見るとすぐ隣で、伊達政宗の嫡孫光宗の霊廟として、正保4年(1647)瑞巌寺第100世洞水和尚により開山とあります。 この岩窟はそれ以前からのものなのか、その後のものなのか、そもそもそういう考察がなされているのかどうかも知りませんが、あの側壁に位牌のようなものを彫り込んでいるのは鎌倉の朱だるきやぐら他で見たことがあります。 雄島朱塗の橋で渡れるようですが、スライドによると橋の手前にも、橋を渡った島にも、両方にあるようです。写真の順番からすると、これが橋の手前の石窟? あっ、竹御所からリアルメールが。 橋のどちら側なのか。あっ、「雄島側、橋を渡ってすぐ右側」だそうです。風化した、多分地蔵? 舟形天井が二つ。円形の天井もひとつ見えます。あれ? 右端も舟形天井? まんだら堂やぐら群みたい。 デカ! 天井の彫り込みは何、見たことない。 やぐらというより、トンネル状になっているそうです。 羨道のあるものも。鎌倉だとこの羨道の痕跡があると前期型、鎌倉時代と推定します。それをこちらに当てはめて良い物なのかどうかは判りませんが。 竹御所様。追加情報有り難うございました。m(_ _)m |