2017.04.15 神奈川県庁舎で迷子の巻 |
ドラキュラ生活者な吾輩が今日はなんと7時起き。いったい何が起きたんだって?
神奈川県庁は目の前にあるのに迷子になってしまったんです。なんでって? 行ってみたら新庁舎と旧庁舎があってどっちか判んない。だいたいどっちも工事中で入れる雰囲気じゃない。 新旧庁舎のまわりを二回も回っても何処にも入れそうなところが無い。お回りさんに聞いても議場までは知らないと。 やっと見つけた庁舎の案内板に議場は新庁舎五階と。 意を決して工事中の新庁舎に強引に入って、守衛室の人に聞いたら「議場はこっちだけどそんな会合の予定は聞いていない、あっちじゃない?」「あっちも入れないでしょ」 「いや、反対側から入れますよ」と。半信半疑で旧庁舎の東側へ。 だって立入禁止じゃん。 しかもうここしかないのでまたまた強引に入ってみると・・・。 この写真は昼休みに撮ったんですが。 あった。なんか秘密結社の会合みたい。(;^_^A アセアセ しかし迷子になっている間に目的の発表は終わってました。こうなったら懇親会で発表者を捕まえて聞くしか無い。あっ、会場は写真撮るのは良いけどネット上に出したらダメと。なのでお見せ出来ません。 てんで昼休みです。良い天気だなぁ。これさえ無ければ鎌倉で桜の写真を撮ってたのに。 ともかく腹ごしらえだ、と歩き回って空いてそうな中華屋さんに入ったら・・・。空き過ぎでしょう。 と不安になっていたんですが、豈図らんや(あれ、こんな字?)旨かった。 で、午後の部も終わって懇親会会場へ。やっぱこの建物、カッコええなぁ♪ こういう建物です。 でまあ、カッコエエ建物の画像で間をもたせつつ、 懇親会で何を聞こうと思ったかというと、現在でも明治以降でも良いけど、古民家の間取りって、江戸時代初期まで遡れるんですかね、古河公方ってそれより更に前ですぜ。って点なんです。 太田博太郎先生が「家屋雑考」ベースの「武家造」を否定したとき、田の字型の農家の間取りは江戸中期ぐらいまでしか遡れないと仰っていたので。日本建築史論集2だと110ページです。まあ太田博太郎先生が「書院造」を書かれたのはもう半世紀近く前なので、学説も変わっているのかもしれません。でも農村史からだと、農民が「家」を確立出来たのは江戸中期なんですけどねぇ。そのあたりを発表者の方にお聞きしたかったのですが・・・。 残念ながら、用事がおありだとかで懇親会には出ずにお帰りになったそうです。 あちゃ〜。 ところで、私が迷子になった理由は、家に帰ってHPを見たら「神奈川県庁 本庁舎 議場(横浜市中区日本大通一)」とありました。本庁舎って旧館のことだったんですね。メンバーは建築史の先生方とその卵みたいな院生ばかりだから「本庁舎・議場」と云えばレトロな旧議場とすぐに判ったんでしょう。 ところで、その会場で「島村(伊勢崎市)の蚕種製造民家建築群」 という資料を貰いました。私的にはこれが最大の収穫ですね。沢山の農家の小屋組図面が載ってる。屋根裏写真も載ってる。曲がりくねった丸太みたいな野梁が沢山。やっぱ、母屋庇の構造が崩れたのは吊り天井が出来たからでしょう。って、らんぼうな。 |