2017.12.07 PARKS/吉祥寺繁華街へ |
お腹が減ったので例の井の頭公園を代表するらしき階段を自転車を担いで昇り、街に食べに行くことに。あっ、私の自転車は元々担いで山に昇る自転車なんです。MTBは山を駆け下りる自転車であれとはちょっと違います。ここは予告編の最初の方にも一瞬出てきますね。 振り返るとなんか美人ぽい後ろ姿が♪ 純ではないな、ハル? 一瞬追いかけようかとも思いましたが空腹に負けました。フキフキ "A^^; 途中、駅の三鷹よりの路地で「ひるなかの流星」の冒頭のすずめ(永野芽郁)がウロウロ叔父さんの店を探して行ったり来たりした十字路を探したんですが、見つかりません。
この乾物屋さんはそれこそ60年代からこのまんまの姿です。 こっちも。あの薩摩揚屋さんは60年代からあったような。50年代のことは知りませんが。 14年前と見比べて下さい。 色はだいぶ違いますがそれはデジカメの進化、昔は高感度にすると色が荒れたんです。それを除けは全く変わらないでしょ。 あれ? このとき撮ったこの娘の写真、永野芽郁に似てない? だから永野芽郁が好きなのかなぁ。 60年代から14年前まではあった模型屋さんは今はありません。子供の頃良く来たんだよね。 今鉄道模型というとHOゲージなんでしょうが、私が子供の頃はOゲージでした。HOゲージより大きくてレールが3本。荻窪に住んでいた頃だからまだ小学生ですね。車体の上物は厚紙で自作して着色してニスを塗ったりしていました。昔の男の子はオモチャの半分以上は自作だったような。それが高じていまだにこんなことをやってますが。 で、結局お昼は行きなれたここ。 こんな形で出てくるものを・・・ こうしてグジャグジャにかき混ぜて食べます。下品だって? それがこのお店のおすすめなんです。 お店の内部はこんな感じで殺風景といえば殺風景なんだけど。でもこの感じが好きです。 腹ごしらえが出来たところでSOMETIMEへ。ここもSOMETIMEとしてではないけど、吉フェスに向かって走るシーンはここを想定しているとしか思えない。吉フェスなんか出来る広さは無いけど、バーカウンターは絶対ここだと思う。・・・たぶん。 あっ、セリフには出てきてます。「サムタイムでライブやったりして(笑)」みたいな。 は〜、懐かしいなぁ。3〜40年前に良く来ました。 何で彼女とか隠し子とか強調するんだって? 昔から娘に「パパは超イケメンだから全国に彼女が沢山居て隠し子も100人以上」と云ってるのに全然信用してくれないんですよ。だから機会あるごとに強調しておこうと思って。フキフキ "A^^; (娘談:やっぱたいしていないんじゃない!) で、お帰りはまた井の頭公園経由で。 ここの店は一度来たなぁ。 (世間の声:フラレタのね。) このお店も1960年代からありました。当時は「モカ」という拘りな喫茶店で、ネルドリップでコーヒーを入れていました。ここでコーヒーを飲んでいると、なんかコーヒー通になったような気分になれた(笑)。1970年代に結構入り浸っていましたね。 まねて布フィルター買ったりして。 こっちの坂は何で出ないだろうと思ってたら出てましたね。純が留年の警告の手紙に半年ぶりに気がついて慌てて自転車で昇る坂。 ところで橋本愛の「ほんとうは、誰なの?」なんですが、この若い監督・瀬田なつきさんがヌボーロマンな発想も使っているとしたら、「ほんとうは、誰なの?」なんて考えても答えは無いかもしれません。「意味不明」、「理解不能」な世界に読み手、いや、観客を突き落として、観客の頭の中でその物語を発展させようなんてロブ=グリエみたいなことを企んでるかもしれないので。そうだとすると観客が頭の中でその物語を発展させる為の材料は埋め込んでいるはず。 最初に思いついたのは、ハルは「ばあちゃん」こと「佐知子」の霊、思念なんではないかと。時々同じオレンジ色のスカートをはいています。次ぎに現代の3人が元佐知子の部屋で曲づくりをしているときにトキオがラップで「ばあちゃん、親父を作ってくれて有り難う〜♪」と云ったときにハルが「どういたしまして♪」と。 他にも色々考えられますね。50年前の佐知子やハルの父親達が作っていた歌の聖霊。これは50年前に佐知子やハルの父親の仲間だった寺田さんが名前を聞いたときに「ハル?」とちょっと間があったこと。オープンリールテープの聞き取れる部分に「春から順に刻を経て〜」と「春」があること。あと井の頭公園の聖霊とか。 今、これを聞いていて気がついたんだけど。歌詞に「オープンリールの向こう側、君は聞いているのかな?」と。瀬田なつきさんは「佐知子」だと思わせようとしている? 50年前の元佐知子の部屋、今は純の 部屋から永野芽郁が駆けだした道で、その前後を数台の自転車が駆け抜けるシーンにザワッときましたが、あれはジャン・コクトー の「オルフェ」で出てくる黒いオートバイ、つまりコノヨとアノヨの境目なのではないかと。もうひとつ疑っているのは予告編にもある純がゆっくりと手を延ばすシーン。あれは「ET」ではありません。「オルフェ」の鏡のシーンではないかと。その鏡の向こう側はアノヨなんですが。アノヨと云うよりオープンリールの向こう側、1960年代と云った方が趣がありますね。 実際にそのあと2人は二度と出合いません。歌って踊る大団円に2人とも登場しますが、同じ画面には入らない。そのあと2人がお互いに気づいて微笑み合うシーンはありますが、実際に出合ったというより、オープンリールの向こう側とこっち側で互いに相手の気配を感じて、何となく心が通じ合ったような。そんな撮り方。 最後に大学生になったらしきハルが「PARKS」って小説らしき本を閉じるんだけど。あの小説はハルが書いたものなのか、それとも純の卒論なのか。わかんないですねぇ。それと最初と最後が井の頭線の電車に乗ってるハルがあの場所で下の道にいる純を見る。もしかして全部ハルの小説の中なのかとか。でもそれじゃハルは佐知子じゃないことになってしまう。ハルは佐知子って方が面白いですよね。 こういうヌボーロマンの手法はヌボーロマン全体に共通するものではなくて、そう分類される誰かの手法なんですが、私が『ヌボー・ロマン論』なんて本を読んだのはそれこそオープンリールの向こう側の時代。たしか人文書院の訳本だったように思うんですが、古本屋サイトで探しても出てこないんですよね。 もっともこの若い監督瀬田なつきさんはそんなもの全然意識してなかったのかもしれないけどね。 ところでこの写真。 なんてことばっか熱中してるんだけど、ホントは中国の大学院生の「研究課題」の添削をしなきゃなんないんだよね。中国で日本語を独学して、日本の大学院に留学しようって文化交流史の学者の卵さんが日本の大学院に送る「研究課題」。あっ、添削は内容じゃなくて日本語です。 12/19-20 追記半世紀前、「オープンリールの向こう側」の時代の現代文芸評論叢書・『ヌボー・ロマン論』が届きました。「ヌボー・ロマン」の「ヌボー」は「ボジョレー・ヌボー」の「ヌボー」です。つまり「新しい」と。でも半世紀以上前の文学論を「ヌボー」って云われてもねぇ。更にに「オープンリールの向こう側」の時代は「現代」なのだろうか? とツッコミを入れたくなりますが、それはさておき。 なんか忘れていた懐かしい名前が沢山出てきますね。サミュエル・ベケットにクロード・シモンは聞いたことあるな〜って程度。でもナタリー・サロートって懐かしい。全く忘れていた。何を読んだんだろう? あっ、『不信の時代』白井 浩司 訳、紀伊国屋書店 (1958)は記憶にあるわ! でも何が書いてあったのか全く覚えていません。なので発注。 「観客を突き落として、観客の頭の中でその物語を発展させようなんてロブ=グリエみたいなことを」 と書きましたが、そのロブ=グリエの主張とはこういうものです。 「小説はもはや、一人ないし数人の人物がたどる物語ではない。それは作られる小説自体の冒険である。つまり作者にとっては書かれる小説のそれが、小説なのである。読者にとっては読まれる小説のそれが、小説なのである。」 「それ」を「小説自体の冒険」と置き換えて読んでください。「PARKS」は映画ですから「映画自体の冒険」に置き換えましょうか。要するに観客が「ああかしら」「こうかしら」と想像を膨らませて楽しめばそれでイイんです。作者がどんな小難しい理屈を組み立てていても、観客に見えたものが全てなんですから。この若い監督・瀬田なつきさんがインタビューで云ってましたが、「PARKS」と「PARK」に「S」が付いてるのはそういう意味だそうです。見る人の数だけ「PARKS」があると。 ん? 観客に見えたものが全て? 俺、フッサールの現象学の神髄を悟ったかも♪ 『不信の時代』が届きました。訳本出版は1958年で、中身は1947年から1956年までに書かれたもの。「オープンリールの向こう側」の時代よりも更に前ですね。 これ、確かに読んだわ。冒頭が・・・ 「小説は現在二つの非常にはっきりと異なった型にわかれつつある。ひとつは心理小説であり、他のひとつは状況の小説である。前者としてはドストエフスキーのものがあり、後者としてはカフカのものがある。」 最後まで読み終えたのかどうかは忘れたけど。順番はサルトルのアンチ・ロマン論が最初で、そこで引用しているこの本を読んで、それから『ヌボー・ロマン論』やフロイトに行ったんだと思います。この本を読み直していてそう思いました。 「ロマン」とか「ヌボー・ロマン」なんて難しく考えることは無いですよ。万葉派に対する新古今派みたいなもんです。『新古今和歌集』って「新」は付いてるけど、もう千年も昔でしょ。 そういえば永野芽郁って「ひるなかの流星」と「PARKS」でしか知らないけど、ほんの数ヶ月の差なのに「PARKS」の演技は良かったなぁ。本人が成長したのか演技してなかったのか。言い換えると「ひるなか」では台本の役を必死に演じていたのに対して「PARKS」では自由に演じていたのか。 あと橋本愛。「リトルフォレスト」でしか知らなくて。 「PARKS」の三人はほんと、遊んでるみたいで、楽しそうだったなぁ。 |