大倉亭現地説明会(3)     義時大倉亭の四至       2019.08.16  

その東勝寺橋のたもとにこんなオシャレなお店が。
このお店があることは10数年前から知ってはいたのですが、入ったことが無かったんです。
山賊姿のわたくしめ一人では入った瞬間110番される恐れがあったので。

しかし今日は女性同伴。加えて見るからに教養溢れる紳士まで居るので、私が混じっていても強盗と思われることはあるまい。と、ついにこの禁断の扉を開いたのでありました。

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したら内部はオッシャレ〜、おじょう〜ひ〜ん♪ で、メニューを見たら、高っ! 
なにしろ普段はドトールの220円のブレンドなので。いや、それだけではありません。ダージリンティー¥300ともえらい違い。でもここで色々と話込んでしまったためにこのあととんでもないことに。


この小町通りと東勝寺橋を結ぶ道の現在の長さは一町強。つまりほぼ笠懸の馬場の長さです。先に見てきた将軍御所も、大倉亭もその馬場があります。この長さが取れなければそこは大倉亭でも御所でもないということに。

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そしてこの道が義時大倉亭の南限です。某学芸員さん「その根拠は?」。なので「橋の向こう側の地形。あの位置しか橋をかける場所は有り得ないでしょう」と。下が明治15年の地図で、この頃は宅地造成とかまだあまり始まっていませんから、川の流れも少し違いますが、赤で示したもの以外橋をかける場所はありません。この点については地形を見たあとですので納得して頂けたようです。

なお、橋を渡った先の東勝寺がいつからあったのかは不明ですが、東勝寺だけでなく幕府関係者の家屋敷もかなりありました。ちなみに青い線の小道はこの明治初期段階から現在まで変わりません。

その小道に入ってみましょう。右側は明治以降の宅地造成。元は河原だろうと考えています。

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この角が現宝戒寺の南限です。左へ折れる小道は明治15年段階からありますね。

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某先生は小さなデジカメをビデオモードにしてその位置のことをじゃべりながら360度廻っていました。確かにそうすれば後で見返したときに良く判ります。現地調査のプロですね。

例えば宝戒寺裏手の橋からのこの写真と次の写真。写した私でもどっちが北でどっちが南か一瞬判らなくなりました。中間に東西どちらかを一枚挟んでおけば「?」となることは無いですもんね。

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答えは上が北側。下が南側です。

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しかし、この現在の地図で川の傾きを確認するまで不安でした。 予定図は事情が変わってしまって。実際に歩いたルートに修正しました。

宝戒寺裏手から小町大路に戻る途中に美鈴という和菓子屋さんがあります。変わった和菓子屋さんだったでしょう。一箱買っても食べきれない、ひとつだけ味見したい、と思ったら浄妙寺の喜泉庵へ生きましょう。お茶菓子に干菓子と生菓子が選べるんですが、生菓子を頼むと美鈴の生菓子が頂けます。

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ここが宝戒寺です。藤田盟児さんと私が義時大倉亭はここであると云っているところ。
「では中へ」とお二人を案内しかけたら「ゲゲー、門が閉まってる!門前払いだぁ〜!」
某学芸員さんが「四時すぎちゃったんだ」と。最近あまり来てなかったので忘れてました。

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鎌倉時代には小規模在地領主の屋敷だってこれぐらいは、って実例に調度良かったのに。 (T.T)

しかたがないので筋違橋と西御門川を念入りに。

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でも、13年前に書いちゃってるんですよね。古道三浦道シリーズの「三浦道の終点・筋違橋」です。
実は上下二枚の写真はその13年前のもの。

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違うのがこの写真。前回より木が生い茂っていて最初は気づかなかったんですよね。 某学芸員さんは「うわ〜、ちゃんど水が流れてる♪」と大はしゃぎ。思わぬところでウケが取れた。(笑)
これなら肝心な宝戒寺に入れなかったことも忘れてもらえるだろう。(ダメ?)

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そもまま戻るのもしゃくなので、細い道から宝戒寺の北側へ。おっ、あれは何かの遺跡でしょうか!

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やや、この鬼瓦はもしかして義時大倉亭のものでは! 

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世間の声:そんななわきゃないないだろ! バキッ!!☆/(x_x)

冷静に考えると、この形の瓦は江戸時代に発明されたもので、鎌倉時代にあるはずがありません。でもこの空き地までが南北朝時代以来の初期宝戒寺だと思います。 南限の塀からこの空き地の端までが約三十丈なので。

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宝戒寺に入れなかったガイドの失策を西御門川と裏道の瓦でなんとか誤魔化し、
一路大御堂ヶ谷へ。この道は東京湾の六浦に抜けるので歴史的には六浦道と云われます。
この部分は大倉御所の前なので『吾妻鏡』には「横大路」と。

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ところで、某学芸員さんは宝戒寺のあたりまで鎌倉初期には大倉だったとしたことに納得出来ないと。私はそこまで大倉なんだから大倉亭は宝戒寺周辺でも良いのだと云っている訳ではありません。逆です。ここが大倉亭なら鎌倉初期には大倉はここまでを含んでいたことになるというものです。

もうすこし付け足すと、奥州当時館は和田合戦の頃「若宮大路御亭」と呼ばれた屋地で、後の泰時の鎌倉亭、更に後には赤橋亭と呼ばれた屋敷地を含んだ場所。それとの関係から大倉亭は宝戒寺周辺以外に有り得ない。

大倉亭とは大倉御所の近くのお屋敷という意味、それがそういう意味で鎌倉前期の大倉とはシンボル大倉御所の人の意識への影響の大きさから宝戒寺のあたりまで鎌倉初期には大倉だったのではないか。

しかしシンボルの大倉御所の人の意識から消えた『吾妻鏡』編纂時点では小町大路のお屋敷という意味で小町御亭と呼ばれたのではないのか、小町御亭とはあくまで小町大路のお屋敷という意味でそこが小町なのではないと云う考えです。

その宝戒寺周辺、私の云う宝戒寺邸(=大倉亭)の向かいは幕府の政所です。大倉幕府の政所なら当然そこも大倉と呼ばれたのではありませんか?

私は当時の地名は今の町丁目の様な行政区画としてきっちりしたものではないと主張したところ、大倉は郷の名ではないかと。しかし平安時代後期の郡・郷・名はカッチリ定まったものだったのでしょうか。所詮は納税請負人の担当範囲ではありませんか?

江戸時代でもそうですよ、現杉並区に上高井戸村と下高井戸村があるんですが、下高井戸村は甲州街道があったので映画の「殿、利息でござる!」のように負担が大きく大変だったので、上高井戸村の豪農が田の一部を下高井戸村に編入して課役の一部を負担したということがありました。

荘園の範囲の決定過程もそうじゃないですか? 相乗りする名主を募集するから本郷とそれ以外が出来て、あんな大荘園が出来るんじゃありませんか? といってもその分野での私の知識は初心者以下なので、話を変えましょう。

大倉郷の範囲は現在の地図に線引き出来るほど当時の史料にはっきり明記されているのでしょうか。線引きがあったとすれば、それは後世の学者が「多分ここまでだろう」と云っているだけではありませんか?

大森金五郎と高柳光寿はまだ確認していませんが、私の記憶の範囲でははっきりとは書いていなかったと思います。するとそのあとに私の知らないところで誰かが確たる証拠に基づいて大倉郷の範囲を論じているのでしょうか。

ところで先にも述べた「宝戒寺文書」の「当寺敷地白幡谷口四方各三十丈」ですが、この白幡谷は今で云う西御門の谷で、宝戒寺が白幡谷口とは白幡谷の入り口とすると、現在西御門川と呼ばれているものは実は白幡谷川で、それが滑川に合流するまでの両岸は白幡谷とすると、政所エリアも大倉亭(宝戒寺邸)も大倉幕府の西側もみんな同じエリアと認識されていたことになりませんか?

ただ前から思っていたんだけど、高柳光寿先生の「塔の辻は宝戒寺の前の辻」云々(『鎌倉市史・総説編』、pp.285-288)はちょっとおかしいですね。鎌倉滅亡時の「塔の辻」は小町大路から東勝寺へ行く小径。歩いたとこ。将軍頼経が明王院へ行くルートの「塔の辻を東に行き」というのは筋違橋近辺でしょう。東勝寺が出来て大きな寺になった段階で「塔」が表すものが変わったと考えた方が良いと思います。これも地名などきっちり決まったものではないという例かと。

しかし直に話せると楽しいですね。何年も何十年も批判を待たずに済むし。自分のサイトならいつでも消せるし変更出来るし。誤字脱字に言い回しの修正に四苦八苦しますが。(;^_^A

あっ、そうそう。「そうじゃない!自分はこう云ったんだ!」 とかメールでご指摘頂ければ即座に修正します。

追記:某先生が地図で発見された大蔵稲荷ですが、稲荷だと由緒を調べるのは難しそうですね。ただ鎌倉考古学研究所が2013年に行った「第五回歴史講座・大倉地域」の見学コースの最後に大倉稲荷として出てきますね。どんな説明をしたんでしょうね。