古道三浦道 三浦道の亂橋 |
亂橋ってちち橋?にゅう橋?ちょいとこの三浦道を海側に戻ってみましょうか。すると今度は亂橋と言う石碑があります。しかしこれも解らないですよね。片側はもう塞がれていますから。 さて問題です。これは「ちち橋」と読むのでしょうか、それとも「にゅう橋」? はい、正解は・・・・、どちらでもありませんでした。 (;^_^A
アセアセ… そこにも鎌倉青年団の石碑が。あっ、向こうから美人ぽいお嬢様が自転車で! さて、この石碑にはなんと書いて有るかというと・・・ 乱橋又濫橋と作り 一石橋の名なり 橋の南方に連理木ありて名高し 東鑑に宝治二年六月の条に 十八日寅刻 濫橋の辺一許町以南 雪降り其の辺霜の如し なとあり 辻町と材木座とを境する細流に架せる逆川橋と共に 鎌倉十橋の一なり こちらのサイトにはこうありますが、 新編鎌倉志に、乱橋は辻町より材木座へ渡り行く石橋なり。鎌倉十橋の一なりとある。鎌倉攬勝考及び新編相模国風土記稿も似たような表現になっている。橋の規模は川幅1.2米、幅員約8米と実に小さいが、乱橋の名は大変に大きい。 確かにそうですね。吾妻鏡には鎌倉の橋として、「下馬橋」「筋違橋」「亂橋」が見えるそうですが、下馬橋は下馬交差点の近くの琵琶橋のことでしょうか? それとも奈良時代初期の旧東海道と思われる、その後も鎌倉の主要幹線道路であった現在の「鎌倉葉山線」が滑川を越えるところ? 筋違橋は次にご紹介しますが、筋違橋は鎌倉史では一番有名なところです。鎌倉時代の霞ヶ関みたいなところですね。それに対してこの亂橋の位置、川(今だとドブ程度)、何でそんなに有名なの? と思いますが、まあ今も昔も、いや今以上に昔は小なりと言えども川が土地(村)の境目だったからでしょう。 |