古道三浦道 逆橋・町屋址 |
逆橋さて亂橋から元来た道を戻り、先ほどの元八幡から出て来たところの踏切、辻の薬師堂の先へ進むと大町四つ角なんですが、途中に石碑が傾いています。何でしょう? えー! ここがあの「逆橋」? だって橋なんか無いじゃないか!いえね、前から探していたんですけど見つからなかったんです。こんなところに。 見つからない訳が解りました。橋はこの三浦道の橋ではなくて、三浦道から大町に向かって右手の露地を曲がったこの橋のことだったんですね。解らないはずだよ。フキフキ "A^^; こちらのサイトで知ったのですが、「新編鎌倉志」にこうあるそうです。 逆川は名越坂より西北方面に流れている、故に逆川と称す。大町と辻町の間を流れて滑川に合流する。大町と辻町の間に橋がある、逆川橋と言い鎌倉十橋の一なり 「新編鎌倉志」は徳川光圀が延宝二年五月(1674)に鎌倉を巡視したあと、家臣の河井恒久等に命じて鶴岡八幡宮の記録なども元に編纂したものです。1685年とのこと。そういう訳で鎌倉の歴史の原資料としてよく引用されます。江戸時代末期(1841年)の「新編相模国風土記稿」にもおよそ同じような記述があるとか。 先日、明治初期に日本に印刷技術を教える為に来日し、鎌倉の材木座に住んでいたと言われるイタリア人キヨソーネ展にて、キヨソーネ氏が作成したと言われる鎌倉の地図を見たが、今の魚町橋の位置に逆川橋と書かれていた。 だそうです。偽物かい? と言うか先年近い時の流れで位置が変わったか、 (;^_^A アセアセ… まあどの橋かはともかく、いずれにせよ逆川が大町と辻町の境であることには変わりはありません。ん? もしかしたら鎌倉時代の三浦道、大町大路は現在の大町四つ角ではなく、その東の祇園天王社の前の小径だったとか? それならこの逆橋が境目と言うのは意味があるかも。いや、ただの思いつきですが。 あれ? この1695年(元禄時代)の地図は! 大町が無い? さっぱり解りません。くずし字のお寺の名前が読めないから余計に。ひょっとしたら地元の人間が書いたのではなくて、鎌倉現地をあまり知らないお寺関係者が伝聞を元に書いたのでしょうか。フキフキ "A^^; 町屋址その逆川から先(北)が気和飛坂の初出でも有名な吾妻鏡の建長三年(1251)12月3日の条の「小町屋及び売買設の事」にも登場する「大町」です。 鎌倉中の在々処々、小町屋及び売買設の事、禁制を加うべきの由、日来その沙汰有り。今日彼の所々に置かれ、この外は一向停止せらるべきの旨、厳密の触れ仰せらるるの処なり。佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等これを奉行すと。 逆橋の目と鼻の先に礼の鎌倉中の史跡にある鎌倉青年団の石碑がありました。なんと書いてあるのでしょう? どれどれ? 此辺は往昔に於ける鎌倉繁栄当時の賈区にして 其の中央の通街を大町大路と呼び 其他米町 辻町 魚町 名越等の区分あり 夫々町屋の在りし所とおぼしく 其称は屡々(しばしば) 東鑑に見え 今に其名を存す 「賈区」とは「こく」、今で言えば商店街または「商店」のことです。「小町屋」が商店街かな? |