古道三浦道  妙本寺の歴史

妙本寺の総門

さて、こちらが祇園天王社の小径が突き当たったところ。立派な総門です。
山門(三門)は別にして、総門としては鎌倉で一番大きく、また重厚な感じがします。

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このお寺、妙本寺は身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺なんだそうです。この一角は日蓮宗が多いんですよね。ここの真っ正面にも本覚寺があります。

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実はこの妙本寺が比企一族の滅亡の地であったことは、人力車のお兄さんの説明に聞き耳を立てて知ったのでありました。(笑)

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さて、この総門の右に見えるこの八角堂は実は幼稚園になっています。

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妙本寺の鐘楼

このお寺の好きなところはキザに言えば「静寂」ですね。
この比企ケ谷は頼朝の乳母の比企尼が住んでいて、頼朝は妻の政子と共にしばしばこの地を訪れ、寿永元年(1182)に政子が頼家を出産するときにはこの比企尼の家に約三月の間滞在してたんだそうです。また、夏には涼を求めて、秋には菊が咲いたのでと、しばしばこの邸を訪れていたとか。なんか解る気がしますね。

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妙本寺の二天門から

こちらも山門? いや二天門と言うんだそうです。そこから参道の階段を見たところ。

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奧に見えるのは祖師堂です。

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妙本寺の祖師堂

この妙本寺の地は頼朝が鎌倉に入って以降、頼朝の乳母(めのと)であり、伊豆に流されたあとも頼朝を助けていた比企の尼の一族の館が有りました。
そして比企一族はこの地で滅びました。
二代将軍頼家が病気で危なくなったときに、北条時政はその後継に実朝を押し、頼家の乳母父(要するに御養育係)であり、また娘の若狭の局を嫁がせ(妾だけど)ていた比企能員はその頼家と娘の間に生まれた一幡を押します。
結果は・・・・、北条政子、あるいは時政は薬師如来供養を口実に比企能員を名越の北条時政邸に招き、そこで殺してしまいます。
それを知った比企一族は慌てて守りを固めますが、そうは言っても準備をしていた訳でもないので北条方の軍勢がこの地の比企氏の館を攻撃してきたときには為すすべもなくここで滅亡します。ん? 一幡の居た大倉御所の小御所に立て籠もって討ち死にしたんだっけ。『吾妻鏡』で調べてみてください。観光案内にはときどき嘘が書いてありますので。
まあ、鎌倉幕府内の暗黒の時代の始まりですね。このあたりの資料は吾妻鏡しかなく、もとより北条氏側の史書ですから実際のところその経緯がどうだったのかは解りません。ちなみに頼家は重病から回復しますが、その後祖父の北条時政によって伊豆修善寺へ幽閉され、殺されます。悪い北条が陰謀を巡らし、鎌倉幕府を乗っ取ったかこごとくに言われますが、それは判官贔屓の裏返しであって北条氏にとっては生きるか死ぬかの土壇場です。鎌倉の暗闘の時代を生き残ったのが北条氏であったと見た方が良いでしょう。

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総門のところの説明では開基は比企能員の子の比企能本と言うことですが、二代将軍頼家と若狭の局の間には娘も生まれていてこの人が竹御所と呼ばれます。
この竹御所と言う北条政子にとっては孫娘に当たるお姫様は当時の鎌倉幕府政界において結構重要な位置を占めていたようですが・・・、藪の中です。
その竹御所が比企の所領を僅かながらも復活させ、菩提寺としてこの寺を建てさせたとの説も。でも想像でしょう。竹御所の館もこの谷戸に有った? 嘘です。ここではありません。

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しかし。この祖師堂もなかなか立派な建物です。

祖師堂から二天門を

その祖師堂から二天門を見たところ。立派な向拝(ごはい)」ですね。

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下を見ると、あっ、猫。

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