古道三浦道 夷堂橋と本覚寺の正月 |
この地は鎌倉の裏鬼門にあたるため、源頼朝によって夷堂(天台宗)が建てられた場所だそうです。 1274年(文永11)に佐渡流罪を解かれ鎌倉に戻った日蓮上人がこの夷堂に滞在して布教を再開たんだそうです。その後、甲斐国の身延山に移ります。 室町時代になって1436(永享8)年、関東公方足利持氏が、日蓮宗の僧・日出に、この日蓮ゆかりの地、夷堂(えびすどう)跡地を寄進して建てられた寺がこの本覚寺で、身延山から日蓮の遺骨を分骨したため東身延とも言われ、昔は東33カ国の本山で、関八州の僧官の任免などを司る僧録司という大名刹であったと言うことです。 夷堂橋ところでその山門の前は夷堂橋と言って、上の画像でも解るように山門の左に石碑があります。江戸時代の「新編相模国風土記」には、鎌倉時代のこととして「大町の名は居住と商売の多少により夷堂橋を境として以北を小町と称し、以南を大町と称した。」と言うようなことが書いてあるそうです。ここの碑文にはこうあります。
鎌倉えびすところが去年の1月10日に、自転車仲間の間で鎌倉3悪人の筆頭と言われた元鎌倉住人HiSさん、それを襲名したジェイ君とここを走っていたときのこと。 「なんなんだあれは、巫女さんか?」「いやお寺だぜ」「何しに行ったんだろう?」「檀家まわりじゃない?」 なんて言っていたのですが、解りました。1月10日はちょうど「鎌倉えびす」だったんですね。でこのお嬢さんは福娘と言うんだそうです。 本覚寺の正月と福娘さん10日まで待つ必要は無かったので御座いますよ。 それはもう全員に「お嬢さん、結婚してください!」と言いたくなるような美しさ。 でも、あることに気が付いて思いとどまりました。 写真を撮るばっかりでは申し訳ないので、この福娘さんからストラップになっている、ちょうどこのお姉さまのお召し物のような色合いの草履のお守りを買うことにしたのです。 そうしたらそれを手渡してくれるときにニコっと笑顔で、「良いお年でありますように」と言ってくれるではありませんか♪ は〜、今年は年始めから良い年でありました。きっとこのあとも良い年でありましょう。間違いなし! とまあ、人間これぐらいおめでたい方が幸せなんで御座いますよ。(笑) こういうお嬢様がいらっしゃる限り、日本の未来は明るい! 恵比寿神ところでその恵比寿神。中世以降、七福神の一つに数えられるようになり主に商売の神としての性格を知られていますが、本来は海からやってきた来訪神なんだそうです。 恵比寿というのは夷とも蛭子とも書き蛭子神(ひるこのかみ)とも同じです。そのあたりはこちらのサイトに詳しいですが、福の神エビス信仰の総本社である兵庫県西宮市の西宮神宮も、海から流れ着いた蛭子神を海神として祀ったのを起源としているそうです。そう言えばこの少し先に蛭子神社がありますね。こちらのサイトにはこうあります。
う〜ん、勉強になりますねぇ。鎌倉時代はもとより、平安時代から海は物流をになっていました。鎌倉もまた頼朝以前から海上の道の拠点のひとつです。 エビス様は今では七福神の中で大黒と並び称される商売を繁盛させて富と幸福をもたらす福神ですが、もともとは漁業海運関係の信仰が中心的であった蛭子神が、陸上でも福神の性格を備え始めたのは商業の発達する室町時代からだそうです。頼朝がここに夷堂を建てたとき、脳裏にあったのは海の神様だったのだろうと私も思います。 平安時代、それこそ現在の元八幡、当時の由比の若宮が建てられた頃、海は現在の滑川の元八幡のあたりまで入り江の様になっていたそうですし、鎌倉時代にもそこから滑川を伝ってこのあたりまで荷揚げの舟が行き来していたのかもしれません。 えびす様で「商売繁盛」ところで、本堂の左手にはいくつも屋台が出ていたのですが、こちらは手書きの凧、なかなか面白かったです。上に沢山ぶら下げてある凧が一番気に入ったのですが、6千円なんで諦めました。多分お客さんは「商売繁盛」のお店屋さんなんでしょうね。 しかし日蓮宗は派手ですねぇ。円覚寺や建長寺では絶対にあり得ませんね。 夷堂おや、いつもは閉まっている夷堂が今日は開いています。ちょっと覗いてみましょう。 あっ、ここにも福娘さんが! これで9人目か、いよいよ我が家には入りきらないわ。 実は健康祈願か病気退散なのか、御坊さんが力強い念仏を唱えたあとで仏具?でこの方達の肩やら背中をなででいました。なんか密教みたいですね。 日蓮上人の御分骨堂日蓮の骨を分骨した御分骨堂です。桜の頃はこの桜がほんとに綺麗でした。他よりは少し早かったような。 他の季節は鎌倉の寺院と神社 index・本覚寺からご覧ください。 |