釈迦堂切通の道  大宝寺(佐竹屋敷)

ここは大宝寺としてより佐竹屋敷跡としての方が有名かもしれません。部外者にはね。

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さて、妙法寺前の道案内の立て札にあった大宝寺ですが、ちょっと判りにくい処にあります。もし行かれるのなら予め地図で良く確認をすることをお薦めします。


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ここにも鎌倉市青年団の史跡碑が立っています。

此所は佐竹四郎秀義以降 代々の屋舗跡と云ふ 昔当所に佐竹氏の霊社ありしが 後年村内天王社に合祀す 後の山を佐竹山と呼ぶ 其の形 扇の地紙に似て 中に三本の畦あり 左右を合て五本骨の如し

わりと正確ですねぇ。異存御座いません。
確実なのは室町時代の応永六年(1399)、このあたりに屋敷を持っていた佐竹義盛が出家し、屋敷のそばに多福寺を建立したことです。その後廃寺となっていたのを、文安元年(1444)、本覚寺開山の日出上人が再興して多福寺の名を山号に残して大宝寺と改めたそうです。寛政8年(1796)の鐘銘に「名越佐竹屋舗多福山大宝寺 日顕代」とあるそうです。

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境内には新羅三郎源義光ゆかりの多福神社があり、墓地中腹には、義光の墓とつたえる変形の宝篋印塔もあるそうですがそこまでは見てきませんでした。下の写真がその多福神社です。

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左に説明があるのですが、ちょっと読みやすく補正をしてみましょう。
おおよそこんなことが書いてあります。佐竹氏の祖先・新羅三郎源義光が永保三年(1083)の後三年の役の時、兄・源義家とともにこれを鎮め、甲斐守となってここに館を構えた。以来佐竹氏の居館となったと。もちろん伝承です。

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だいたい新羅三郎源義光は主に近江(滋賀県)に住んで都に出仕していました。当時の郡軍事貴族はみなそうですが。墓所も近江国、今の滋賀県大津市園城寺町です。
確かに兄義家の子、源義国と常陸国の縄張り争いで確か何年も合戦(小競り合い?)を行っていますし、常陸平氏から妻を取って常陸に根を下ろそうともしていますから関東に居なかった訳ではないのですが、鎌倉とは考えにくいです。旅荘ぐらいはあったかもしれませんけどね。

常陸の佐竹が鎌倉に館を持つ必要が出来たのは新羅三郎源義光から5代目の佐竹四郎秀義が頼朝の奥州攻めのときの功でやっと本領を安堵され、鎌倉に出仕するようになってからです。その間、かなりの年数が有りますし、仮に新羅三郎源義光が鎌倉に館を持っていてその場所が伝えられていたとしても。そこに館を構えることは頼朝が許さなかったでしょう。
室町時代の1399年に佐竹義盛がこのあたりに屋敷を持っていたのは関東公方へ出仕する為でしょうが、佐竹秀義から義盛までは同じ場所に館を設けたかもしれません。


しかし、こちらの本堂は小さいんですが、なんか変わってません? 味がありますねぇ。

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入り口に有った井戸です。いつの頃からのものでしょうか?

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