鎌倉の梅 2006/3/13   明月院の梅と歴史

明月院の禅興寺跡

梅の時期に明月院に入ったのは実は初めてです。世間の評判では梅と明月院はなかなか結びつかないので。がしかしなかなか! と言うことで明月院の歴史とともにご紹介しましょう。

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ただし、歴史については情報が錯綜し私自身調べきれていないのでしばらくすると書いていることが変わるかもしれません。ご容赦を。

明月院の由来

本当は禅興寺の中に明月院があったんです。「院」は寺の塔頭(たっちゅう:子院)で、例えば円覚寺の中にもいくつもの院があります。そして本体の禅興寺が明治初年頃に廃絶し、明月院だけが残ったと言う訳です。
現明月院、鎌倉時代の当時は最明寺、後に禅興寺は北条時頼の私邸の一部でした。私邸には持仏堂があり、その主の没後に菩提寺となると言うのがあの当時の傾向です。あくまであの親子の当時で鎌倉時代全般がと言う訳ではありません。

5代執権北条時頼の私邸だった頃、相当立派な大池のある庭園もあり、四代将軍・藤原頼経も花見にやって来たりしていたと書いてあるサイトもありますが、吾妻鏡を探しても見つかりません。宗尊親王の間違いではないでしょうか。宗尊親王ならこれです。

「吾妻鏡」建長8(1256)年7月17日 晴
将軍家山内最明寺に御参り。この精舎建立の後、始めての御礼仏なり。相州御素懐を遂げらるべきの由内々その沙汰有り。彼の余波を思し食すに依ってか。殊に今日御出の儀を刷わる。 ・・・・御礼仏の後相州の御亭に入御す。廷尉行忠(布衣・冠)この砌に参会す。御遊・和歌御会等有り。今日御逗留なり。

7月18日 晴、夜に入り雨降る
将軍家山内より還御す。導師は左大臣法印厳恵。

相州=相模守は時は北条時頼、最明寺は時頼の持仏堂です。「相州の御亭」は西亭でしょう。現在の明月院の小路の入口の西側だと思います。

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明月院パンフレッド

 明月庵の創建は今から8830年前、永暦元年(1160)にはじまる。この地の住人で、平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道の菩提供養として俊道の子、首藤刑部大夫山ノ内經俊によって創建。

その後、康元元年(1256)、北条相模守時頼公によって、この地に「最明寺」と建立(現在、明月院北の場所)。言うなれば北条時頼の別業の仏堂。時頼は30歳で出家、僧名を覚了房道崇と号し、弘長3年(1263)11月22日、37歳で卒去。
のちに北条時宗(時頼の子)が、最明寺を前身として「福厳山禅興仰聖禅寺」 を再興。開山は建長寺開山大覚禅師の五世法孫の位地にあった密室守厳禅師。康暦2年(1380)、時の関東公方足利氏満が、管領上杉安房守憲方に 禅興寺の中興を命じ、伽藍を完備、寺域を広大にし、支院を配置させた。

足利三代将軍義満天下の時、大寺院を選ぶにおいて禅興寺を関東十刹の一位とする。 明月庵は「明月院」とあらためられ、支院の首位におく。 禅興寺は明治初年廃寺となり、「明月院」のみを残し今日に至る。

明月院パンフレッドは何かの文献を元に書かれたのでしょうが、しかし細かいところで納得できません。
山内首藤俊通は刑部大輔〔たいふ〕なんですか? 確か「保元物語」でも「平治物語」でも刑部丞。官位があるだけ当時の関東の武士としてはなかなかのもので、実は山内首藤氏は源義家の頃から源氏に仕えてはいましたが、同時に摂関家や院にも奉仕している京武者です。それにしても刑部大輔だと正五位下で当時の武士としては偉過ぎるんですけど。親分の源義朝だって左馬頭・従五位上ですぜ。子分の山内首藤俊通の方が官位が上ってのはあんまりでしょう。いったいどの文献を元にしたのでしょうか?

「首藤刑部大夫山ノ内經俊によって創建」と言うのも大夫ニュアンスが肥大化しているような。そのとき創建したのが「明月庵」と言う名だったと言う説もあるようです。
經俊は義経とともに後白河法皇から官位を貰っていますが、その前に頼朝の旗上に合流せず、平家側についたことからこの山内の地は頼朝に没収されています。また平治の乱以降の平家の時代に相当冷遇され苦労をしていますから寺を「創建」と言うほどの財力は考えられません。せいぜいがお堂を建てたぐらいでしょう。
山内首藤氏については「頼朝以前の鎌倉・山内荘」もご覧ください。

寺伝では、平治の乱で没した首藤俊通の菩提のため、その子経俊が永暦元年(1160)に「明月庵」を建立したのが草創とされているそうですが、どうも後付のような気がします。明月院の実際の開基は上杉憲方とみるのが通説です。

執権職に就いた嫡子・北条時宗はこの廃寺跡に文永5(1268)年に蘭渓道隆(大覚禅師)を開山として禅興寺(福源山禅興久昌禅寺)を建立し、それが明治時代まで続いています。
室町時代になって廃れていたのを、康暦2(1380)年に足利氏満(関東公方)が関東管領上杉安房守憲方に禅興寺の中興を命じます。憲方は、出家後に禅興寺の中に蘭渓道隆の5世法孫の密室守厳を開山に、塔頭寺院「明月院」を建てました。ちなみに足利氏満は室町幕府鎌倉公方第二代目、この上杉憲方はその補佐役(管領)です。足利三代将軍義満の時に、禅興寺は関東十刹の第一位と定められますが、明月庵は明月院と改められ禅興寺支院の首位に置かれます。

明月院パンフレッドにある

北条時宗(時頼の子)が、最明寺を前身として「福厳山禅興仰聖禅寺」 を再興。開山は建長寺開山大覚禅師の五世法孫の位地にあった密室守厳禅師。康暦2年(1380)、時の関東公方足利氏満が、管領上杉安房守憲方に 禅興寺の中興を命じ・・・

「開山は・・・密室守厳禅師」に対応する開基は前段の北条時宗ではなくて後段の上杉憲方、禅興寺のではなく明月院の開山です。どちらにも取れると言うか、この文章では前者の様に取れてしまいますね。

鎌倉五山と関東十刹

ところで、鎌倉五山が建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の5つであることは誰でも知っていますが、「関東十刹」って何? ってことはあまり知られていません。で、調べてみました。このあたりが一番詳しいようです。

これは中国は南宋に起源をもつ禅宗の官寺制度を日本に移入したものである。
この五山のおこりは釈尊をまつるインドの鹿苑(ろくおん)精舎などの五精舎と,頂塔・牙塔などの十塔所にならって中国の南宋のころにできたもので,そのころ禅宗は宋室の宮廷や士大夫などの官僚と密着してその影響も多く受けていた。径後・天童山などの五山と十刹,諸山の三つの階級からなる官寺制度ができ,これに伴って,禅僧の階級も確立された。
禅僧は永い修行の行程をおえたのち修行者の首座となって,初めて官寺の住職となる資格を得て,ついで正式の任命を受けて官寺の住職に進むことを出世といった。以後その人の努力と才能によって諸山から十刹,さらに五山に進むことを決められていた。やがて鎌倉の末期に蒙古軍の南宋侵入にともない,多くの名僧が日本にその難をさけて来朝して,この制度をわが国に伝えた。

鎌倉五山 かまくらござん

この制度を日本に教えたのは中国(南宗)の僧。鎌倉五山と言われだしたのは鎌倉時代末期。この制度を整理・適用して寺院を支配下に置いたのは室町幕府三代将軍の足利義満で1386年(至徳3)のことのようです。
京都南禅寺を頂点としてその下に京都と関東に「五山」「十刹」「諸山」を定めたと。
従って「関東十刹の第一位」とは「五山」も含めて「第一位」ではなくて五山の次、6番目と言うことですね。でも瑞泉寺も関東十刹の第一位と言われます。途中で順位が変更された?
ちなみに京都では別格特級の南禅寺の元、相国寺、天龍寺、建仁寺、東福寺、万寿寺が五山だそうです。鎌倉尼五山てのもありますね。

明月院(禅興寺?)の北条時頼廟

こちらが北条時頼の私邸時代からの持仏堂だったのでしょうか? と思いたいところですが実際には北条時頼廟(びょう:死者をまつるお堂)です。時頼存命の頃の持仏堂もおそらくこれぐらいのものだったのでしょう。

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ピンクの梅が綺麗でした。そういえば明月院にはこの色はここだけだったような。

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さて、北条時頼死去の様子を吾妻鏡から。

吾妻鏡 弘長3年 (1263年 ) 11月22日の条 己亥 晴

未の刻小町焼亡す。南風頻りに吹き、甚烟御所を掩う。仍って御車二領南庭に引き立て、御出の儀に儲く。爰に前の武州亭前に至り火止む。戌の刻入道正五位下行相模の守平朝臣時頼(御法名道崇、御年三十七)最明寺北亭に於いて卒去す。御臨終の儀、衣袈裟を着し、縄床に上がり坐禅せしめ給う。聊かも動揺の気無し。頌に云く、業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然。
 弘長三年十一月二十二日道崇珍重々々
平生の間、武略を以て君を輔け、仁儀を施して民を撫す。然る間天意に達し人望に協う。終焉の刻また手に印を結び、口に頌を唱へて、即身成仏の瑞相を現す。本より権化の再来なり。誰かこれを論ぜんや。道俗貴賤群を成しこれを拝み奉る。尾張の前司時章・丹後の守頼景・太宰権の少貳景頼・隠岐の守行氏・城四郎左衛門の尉時盛等哀傷休み難きに依って、各々鬢髪を除う。その外御家人等の出家、甄録に遑あらず。皆以て出仕を止めらる。また武蔵の前司朝直朝臣落餝せんと欲するの処、武州弾正少弼を以て頻りに禁遏を加えらるるの間、素懐を遂げずと。

私も古文は半分ぐらいしか解らないのでその前後も含めてこちらのサイトに教えを請いましょう。

弘長3(1263)年11月13日、最明寺入道時頼は急病に罹り、もはやこれまでと悟り、は11月19日に最明寺北亭にこもって死ぬことを決め、翌20日に北亭へ移り、22日に座禅の姿で寂。同寺はかつては円覚寺に隣接する広大な寺域があったと思われるが、時頼の死後、嫡子・時宗が幼少であったことから、有力一門が執権職を継ぎ、最明寺は顧みられずすぐに廃寺となってしまった。翌年末にはすでに「最明寺旧跡」とされている

と言うことらしいです。あれ? 日にちがちょっと、直しておきましょう。 しかしこちらのサイトは詳しくてとても助かります。

明月院・北条時頼の墓

その脇に北条時頼の墓があります。

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こちらは白梅ですね。

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北条時頼の墓がここに有ると言うことはこの明月院の前半分は禅興寺だったのでしょう。そして当初の明月院は緩い階段を登ったあの門の向こう側? 地形を考えてもそんな気がします。おそらく禅興寺は横須賀線の線路から明月院に至る小径、谷戸から更に、明月院の前の左に折れる道をちょうど喫茶店「笛」のあたりまでの尾根の内側全域を占めていたのでしょう。私の想像で根拠がある訳ではありませんが。

 

こちらが江戸時代に徳川光圀が家臣の河井恒久 等に命じて鶴岡八幡宮の記録なども元に編纂した「新編鎌倉志」(1685年)にある明月院−禅興寺の挿し絵です。江戸時代には禅興寺はだいぶ小さくなってしまっていますね。 「僅かに古堂ばかり残りて明月院の持分なり」と。

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う〜ん、山内上杉管領屋敷は右側のあの辺であったか。
奧の明月やぐらは上杉氏の石塔とありますね。開山堂は出ていません。

明月院の茶屋

持仏堂の向こうに見えるのはつい数年前に建てられたお茶屋さんです。お茶室でも無いんだよね。高いので1回しか入ったことがありません。

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しかし逆光に梅の花が綺麗でした。

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