鎌倉の梅 2006/3/15   英勝寺の梅と歴史.1

太田道灌の屋敷跡・英勝寺

鎌倉駅を西に出て、今小路を北鎌倉側に進むと、寿福寺の隣に太田道灌屋敷跡石碑が立っています。ここが梅で有名な英勝寺です。

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此の地は武略文藻兼備へ忝くも 武蔵野は萱原の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな テフ叡感にさえ預りたる道灌太田持資が江戸築城前の邸址なり  寛永十一年今の英勝寺と為る其の創立者水戸藩祖頼房准母英勝院は道灌の嫡流太田康資の女なるより晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり  孤鞍雨を衝いて茅茨を叩く少女為に遣る花一枝 の詩趣ある逸話は道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり
 (鎌倉市青年團)

私が太田道灌を知った最初は小学校か中学の遠足で武蔵野のどこかでバスガイドの方(と思う)にこの太田道灌と山吹の歌の話しと江戸城を造った人と言うことです。山吹の話しがどういう話しなのかと言うと。こちらをご覧ください。太田道灌と山吹伝説 太田道灌と山吹の里伝説

ガイドの説明は「戦国時代の武将も和歌の勉強をしていました。みなさんも広くいろんなことを勉強しましょう」と言うようなオチだったと思います。

太田道灌は室町時代中期の1432年に関東管領家のひとつ扇谷上杉家の家臣で、相模国守護代を務める家に生まれ、扇谷上杉氏の家老の様な人です。
山内上杉氏と比べれば格下だった扇谷上杉氏が山内上杉家をしのぐ勢力に拡大し南関東を支配する大大名へと成長したのは武蔵国に江戸城、河越城、岩槻城などを築城した家宰太田道灌の力によるところが大きかったと言います。
また、江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学んで歌集「慕景集」を残し。世に軍法師範と称される程の文武両道の英傑でした。1458年には剃髪して道灌と号し、のちに主君である扇谷上杉定正に謀殺されました。同年代の武将に北条早雲が居ます。


こちらがその石碑から見た英勝寺の鐘楼です。一見鐘楼には見えないのですが。それについてはまた後ほど。

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去年源氏の系図をまとめていて、この太田道灌が摂津源氏源三位頼政の子で頼朝の元で平家と戦い初期の鎌倉幕府で重きを置かれた駿河守源広綱の子孫であることを知りました。
しかし頼朝の時代に源広綱は足利義兼と同格。それが何で足利家の家臣上杉氏のそのまた家臣に? と思ったのですが、そのあたりはこちらのサイト太田家の事歴に詳しく書かれています。

太田道灌の生誕と関東の情勢も良くまとめていますが、「太田氏は、資国の代になったとき、摂津守に任じられ」は私は却下します。源広綱から太田資国までの事情は前述のサイトに述べられていますが、そうでなくとも太田資国の代に至ってまで「守」の地位を得ていたなど北条政権下ではあり得ません。
ちなみに源広綱の出家ですがそのまま居たら反頼朝の陰謀に巻き込まれるか、疑われるか、ともかく身の危険を感じたのかもしれません。甲斐の武田一族への仕打ちを間近に見ていたでしょうし。

それはともかく、太田氏が支えた扇谷上杉氏のその扇谷の地に太田氏の屋敷がありました。それがここだと言われています。

鎌倉扇ヶ谷・東光山英勝寺の門

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とは言え、ここが太田道灌の屋敷跡だと言うのは、その子孫で徳川家康の側室となったお勝の方がどこからかそう聞いて、後年太田道灌ゆかりの地としてここに寺を建てたからです。太田道灌の屋敷跡だと言うのはそれ以上の根拠はありません。嘘だとは言いませんしこのあたりだったことは確かでしょうが。

しかしこの門、通用門なんだそうですがいつのものでしょう。なんか「鎌倉の洋館」シリーズに登場しても不思議でなないような雰囲気が有りますね。(笑)

英勝院お勝

でその英勝院お勝と言う人は?

 小田原の北条氏が豊臣秀吉によって亡ぼされたあと、秀吉は家康を関八州250万石に移封します。
家康は関東に入国して江戸城に入ると、関東の名門出身の者を集めます。没落していたとは言えそれらの者は関東の人心を掴むの有効と考えたのでしょう。隣国の更に向こうから突然やって来たのですから有る意味融和政策ですね。太田道灌の子孫にも声がかかりましたが、当主の太田重正は京都にいたため、まず13才の妹が召し出され、あれこれあって家康の側室となります。名前は何度か変わりますがこれが後の英勝院で、お勝の方と言います。
英勝寺は代々水戸家の女性が継いでいるので水戸徳川家初代徳川頼房の母かと思っていたんですが違うんですね。
お勝の方は美貌だけでなく聡明で、質素倹約につとめて家康の信頼も厚く、家康との間に市姫を生みますが、その市姫が四歳で死んだあと、家康はこのお勝の方を遇するために水戸徳川家の祖となった徳川頼房の養母とします。これが水戸徳川家との強いの始まりです。

お梶の方は兄重正の子である甥の太田資宗を養子とし、譜代格として徳川秀忠に出仕させています。その資宗は順調に出世し、徳川家光にも取り立てられて、六人衆(のちの若年寄)から下野国山川藩1万5千石の大名に、その後浜松藩3万5千石まで登りつめ、子孫は幕府の要職を歴任して老中まで出しているようです。

家康が亡くなるとお勝の方は英勝院と号しましたが、水戸徳川家はもとより、二代将軍秀忠と、特に三代将軍家光の信頼を得たそうです。
1634年(寛永11)英勝院は鎌倉扇谷の上杉氏の屋敷前が太田道灌の屋敷跡と聞いて、将軍家光に菩提寺建立を願い出て、1636年(寛永13)扇谷の寺が出来ると英勝寺と名付け、徳川頼房の娘小良姫を開山(初代門主)として自分が開基となったそうです。仏殿はその時作られたという棟札があるそうです。

1642年(寛永19)に英勝院は亡くなり英勝寺裏山に葬られました。法号は英勝院長誉清春。現在の墓は頼房の子徳川光圀が建立しています。

開山の徳川頼房の娘小良姫(玉峰清因)以来、代々水戸徳川家の子女を門主に迎えていため、「水戸御殿」や「水戸の尼寺」ともいわれたようです。
英勝寺は浄土宗の寺で山号は東光山。現在鎌倉に残る唯一の尼寺として知られています。

英勝寺の梅

そのような訳でこの英勝寺は鎌倉時代とは何の関係もない、歴史も新しい(鎌倉では)お寺で、おまけに拝観料が300円と高い(当家比)ため塀の外から梅や紅葉を覗くだけだったんですが、今回は梅シリーズと言うこともあり、思い切って入ってみました。

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狭い境内です。見物出来る範囲ではですが。実は源氏山の上の方にまで伸びていてそちらにお墓もあります。

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北鎌倉を中心に写真を撮り始めて、こちらは後回しだったせいもあり、若干ピークを過ぎてはいましたが確かに梅はなかなかでした。

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天気と私の腕のせいで写真がいまいちなのがちょっと・・・、ですが。フキフキ "A^^;