古道三浦道    宇津宮辻子御所

宇津宮稲荷神社

さて、日蓮上人の辻説法跡がある道は小町大路です。今の小町通りがなんでああいう名になったのかは判りませんが、本物の小町は若宮大路の反対側(東側)です。その小町大路と若宮大路の間の路地裏に小さなお社が。

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ところがこの小さなお社が、鎌倉の幕府(将軍の御所)がこの地に有ったことの証になるんです。

江戸時代の「新編相模風土記」でも「今その遺構を知らず」と書かれるほどだったものを、この場所と気がついたのは明治時代の歴史学者で鎌倉史では有名な大森金五郎氏です。土地の古老に宇津宮稲荷なら有ると聞き、喜び勇んで(多分)やてきたら、松の古木に囲まれた林の中にこの稲荷社があったと。

宇津宮辻子御所

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その幕府の移転に関する吾妻鏡の記述は以下の通りです。

吾妻鏡1225年(嘉禄元年) 10月3日
相州・武州御所に参り給う。当御所を宇津宮辻の地に移せらるべきの由その沙汰有り。 また若宮大路東頬に立てらるべきかの旨、同じく群儀に及ぶと。

10月4日
相州・武州人々を相具して、宇津宮辻子並びに若宮大路等を巡検す。始めて丈尺を打たる。隠岐入道行西奉行として、事始め以下日時の事、国道朝臣に尋ね問わる。今月十三日・十二月五日、両日の間御意在るべきの由これを申す。而るに来二十二日は故二品の百箇日なり。その御仏事以後、これを始めらるべきに依って、十二月五日を用いるべきの旨、治定せしめをはんぬ。旧御所は破却せらるべしと。今日天火日なりと。

この宇津宮辻子御所が使われたのは通説によると12年で、若宮大路に面した場所に御所(幕府)が移されたと。

吾妻鏡1236年(嘉禎2年)3月14日
若宮大路の東、御所を立てらるべきに依って、来二十五日御本所として田村に御一宿有るべきの間、太白方に当たるや否や、方角を糺すべきの由、駿河の前司に仰せらる。
仍って陰陽使を武蔵大路の山峯に相伴い、これを糺せしめ帰参す。田村は若くは戌方の分か。正方西に相当たらざるの旨これを申す。

3月20日 
幕府並びに御持仏堂等を若宮大路の東頬に新造せらるべき事、今日御所に於いてその定め有り。日次以下の事、陰陽道の勘文を召す。晴賢・文元等連署せしむ所なり。

4月2日 
若宮大路の御所造営の木作り始めなり。大工束帯を着し参入す。事終わり酒肴禄物等を賜うと。今日、宮寺羽蟻の事御占い有り。病事を慎ましめ給うべきの由、六人一同これを申すと。

8月4日 
戌の刻将軍家若宮大路新造の御所に御移徙なり。武州の御亭より渡御す(御束帯、御乗車)。・・・次いで陰陽の助忠尚朝臣(束帯)反閇に候す。庭中に於いて呪詞を唱う。
西廊に昇り、二棟御所の南縁を経て、寝殿(五間四面)の南面中の間に入御し、南に向かい着御す。水火前行し同間に入りをはんぬ。

ただし、その宇津宮辻子の御所と、若宮大路新造の御所とは建物は別物としても、敷地も新たに移ったのかどうか。

「鎌倉市史総説編」で高柳光寿氏は若宮大路の東側に面し、南に宇津宮辻子(小径)に面し、北は北条泰時の館、東は小町大路に囲まれた敷地の中で、最初の御所(建物)は東側にあり、その12年後に同じ敷地の若宮大路側、すなわち西側に新造の御所を立て直したのではないかと書かれています。
これはなかなか利にかなった、と私は思うのですが、その後、割と最近秋山哲雄氏は『中世都市鎌倉の実像と境界』に納められた「都市鎌倉の形成と北条氏」の中で、高柳光寿氏以前の説を踏襲されています。その間に高柳光寿氏の説を覆す証拠とかが有ったのでしょうか。

追記:
幸いにしてその秋山哲雄氏とビール片手にお話をさせて頂く機会が有りました。
で、聞いてみました。やはりあったようです。物的証拠ではないですが、松尾剛次氏の『中世都市鎌倉の風景』(吉川弘文館 1993)に書かれているとか。早速アマゾンで注文しました。・・・が。

う〜ん、それはおかしいですね。飾り物とはいえ摂関家の子にして将軍。いや飾り物だからこそ飾らなければならない。「方一町」の屋敷は格式の象徴です。あそこで全く重ならない方一町などとれません。ついでに云うなら、嘉禄元年10月3日条の「始めて丈尺を打たる」は方一町を計ったのでしょう。もうひとつ。平安から鎌倉時代の陰陽師は「便宜の為」の言い逃れを沢山、日常的に使います。ご存じないのでしょうか。

宇津宮と宇都宮

宇津宮は実は宇都宮と同じなようです。平安時代でも鎌倉時代でも音によった当て字は当たり前の様にあります。この由来でも今は宇都宮稲荷神社と。

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宇都宮と言うと、栃木県の宇都宮を思い出しますが、その通りでその宇都宮です。

頼朝の頃の有力御家人に宇都宮朝綱がおり、その屋敷がちょうどこの辺にあって、その屋敷の中にこの神社を建てたのが今に残っているようです。

さてその宇都宮氏とは。少なくとも表向きの系図では他の武士とはちょっと変わっています。

宇都宮大明神と呼ばれた二荒山神社の神職は、古くは下毛野氏であったと思われますが、古いことは分かりません。貞観二年(860)大中臣清真が二荒山神社の神主となり、日光山神主職の初代とされます。

前九年の役の際、石山寺の座主であった藤原北家の藤原道兼の曾孫・宗円が宇都宮に下って賊徒平定(源頼義、義家の奥州安倍氏討伐:前九年の役)を祈った功により、宇都宮(現・宇都宮市二荒山神社の別称)別当職に任じられ、所在の神主らの上に座したと。
しかしこれは如何にも後生の系図装飾のような筋書きです。『宇都宮市史』は宗円を藤原道兼の子孫とするのは誤りとしているそうです。

その宗円の子八田権守宗綱(1083年−1159年)は宇都宮社務と日光山別当を兼ねます。宗綱は宇都宮宗綱、中原宗綱とも呼ばれ父宗円と同様、詳細な血縁関係はかなり不明な部分があります。
子に宇都宮朝綱、八田知家(?)が、また娘の一人は小山氏に嫁ぎ、のちに源頼朝の乳母となった寒河尼で、結城氏の祖となる朝光を生んでいます。
宗円の孫にして宗綱の子・朝綱は朝廷に出仕し、鳥羽院武者所から白河院(後白河院では?)北面の武士を経て左衛門尉となります。当時の関東の武者としてはなかなかの官位です。

頼朝の旗揚げに際しては小山氏とともに馳せ参じ、有力御家人に列して宇都宮検校と称し両職を兼帯しています。その宇都宮朝綱の屋敷がこのあたりと言うことになりますね。

その孫の宇都宮頼綱は北条時政の娘婿となります。また、藤原定家とも親交があり、歌人としても有名です。その後の宇都宮氏は南北朝時代、室町時代を経て戦国大名として宇都宮の地に勢力を張っていました。