古道三浦道      東勝寺橋と東勝寺跡

東勝寺橋

小町大路を更に北に行くと、宝戒寺の手前に東に折れる路地があります。その先にあるのが東勝寺橋が。そこに鎌倉町青年団の石碑があります。

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青砥藤綱旧蹟
太平記に拠れば、藤綱は北条時宗・貞時の二代に仕へて引付衆(裁判官)に列りし人なるが 嘗(かって)て夜に入り出仕の際、誤って銭十文を滑川に堕し、五十文の続松(松明)を購ひ、水中を照らして銭を捜し、竟に之を得たり。時に人々小利大損哉と之を嘲(笑)る 藤綱は 十文は小なりと雖、之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖亦人に益す、旨を訓せしといふ。 即ち其の物語は此辺に於て演ぜられしものならんと伝へらる。(鎌倉町青年団)


これがその滑川です。ここより下流では本覚寺近辺で夷堂川、炭売川、閻魔川などと名前を変えます。まあ、夷堂の脇の川、閻魔堂の脇の川、ぐらいの軽い意味ですが。青砥藤綱はここで10文を落としたのでしょうか。

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有名な話ですね。私も子供の頃に絵本で読んだ覚えがあります。でも、太平記の創作らしいです。何でわざわざ作り話を挟んだのかと言うと、五代執権・北条時頼の頃の善政を、聞く者に納得しやすい形で伝える為に、と言うこことではないかと言うのが一般的な意見です。

「そんなことは無い、実在したんだ」と言い張る学者さんも居るらしいですが。ん? あの石碑、ちょっと間違っているんじゃないかしら? 北条時宗・貞時の二代だったっけ。その頃の御内人はとても褒められたものじゃないと思いますが。


その脇に、今度は銅板の碑?が。

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東勝寺橋の構造形式は、上路式鉄筋コンクリートアーチ橋で、関東大震災における復興期の典型的なものだそうです。その東勝寺橋を宝戒寺の方から。

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東勝寺跡

さて、その東勝寺橋を渡り、ぜいぜいと急坂を登ると、おんや? 

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あの先に行って判ったのですが、この一帯がかつては東勝寺であったようです。3つの谷戸から構成されていますが、発掘調査でも本堂がそのうちの何処にあったのかは判りません。

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国指定史跡となったのはこの小径の左側ですが、小町亭との位置関係からは右側だったのかもしれません。そこからは小町亭も鶴岡八幡宮も一望できますので。ただまあ、やぐらがあることからこのあたりが一番可能性が高いということなんでしょう。道の右側は違うのかというと、その当時はあんな道は無いはずなので、右も左もありません。

東勝寺の創建

現在史跡として保護されているのはその道の左側だけになりますが。あの矢倉は鎌倉時代のものでしょうか?

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東勝寺の創建は、はっきりとしたことは判りません。

「東勝寺は鎌倉幕府第三代執権北条泰時が母の追善と北条宗家の菩提寺として栄西の弟子退耕行勇を請じ嘉禎3年(1237)に建てられた」とも言われますが、嘉禎3年(1237)の「北条泰時が母の追善」云々は吾妻鏡の読み間違いのようです。吾妻鏡にあるのは後の常楽寺のことです。北条泰時の一周忌法会と十三回忌は常楽寺でとり行なわれています。

退耕行勇が開山とする根拠のひとつは「本朝高僧伝」らしいですが、そこには浄妙寺も北条泰時の開基と。そんなむちゃくちゃな。江戸時代のものですからアテにはできません。あとは「延宝伝燈禄」、しかしこれも江戸時代のもの。
最後に「寿福寺歴代住持書上帖」。退耕行勇は寿福寺の出で2世住持を務めた人ですからそこに書かれているのならそうだったのかもしれません。

三代執権北条泰時が開基であれば1224年から1242年の間、退耕行勇が開山であれば。それは1241年よりも前と言うことになります。金沢文庫の古文書に1258年にはその名が見えるらしいのでそれ以降と言うことは無いかと。

宗派は

「鎌倉幕府三代執権、北条泰時創建の臨済宗の禅寺(北条氏の菩提寺)」と書かれたりもしますが、退耕行勇は、1200年に栄西に師事して禅を学び、1219年に高野山に開創した金剛三昧院も禅蜜兼修の道場でした。ですから退耕行勇が北条泰時の下での開山だとしたら当初は禅密兼学だったはずです。浄妙寺は栄西に師事する前ですから禅は含まれずに真言宗だったとされますが。

また、金沢文庫の年代不詳の古文書にも「大阿闍梨東勝寺」と出てくるそうです。阿闍梨とは日本では天台宗・真言宗など密教系の高貴な身分の僧、天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられる職位です。禅宗では聞いたことがありません。

確かに約翁徳倹とか有名な禅僧が何人もここ東勝寺の住持を勤めていますが、当時は宗派はいまほどはっきりはしておらず、ひとつのお寺にいろんな宗派が同居しています。ですから宗派と言うより学説ぐらいの意味に考えておけば良いかと。尚、先に引用したこちらでは「山号を青竜山と号し臨済宗と密教の兼修寺院で」とちゃんと書かれています。

北条得宗家代々の墳墓の地

太平記には「是は父祖代々の墳墓の地なれば」とありますが、北条高時の父北条貞時の廟所は円覚寺の塔頭仏日庵、その父時宗も仏日庵、その父時頼は現在の明月院である最明寺(禅興寺)。その父北条泰時は常楽寺ですからここの墓は無いはずなのですが。

言ってみればお墓と仏壇みたいな感じでしょうか? 後期の得宗家(北条氏本家)が本宅小町邸(現宝戒寺)近くで先祖の位牌を祭る仏壇が裏のここ東勝寺だったと。えらい大きな仏壇ですが。

吾妻鏡の1251年2月20日の条には滑川を渡ったあたりに将軍家の馬屋が有ったらしいですから葛西谷全体が東勝寺であった訳ではないようです。

2月20日
大御厩(この間新造、葛西谷口河俣)の後山崩顛す。人多く以て土石の谷に推されて、二人立ちどころに亡ぶと。

円覚寺の古文書によれば、北条氏滅亡の10年前、1323年の北条貞時十三年忌法要が38寺から2030人の僧衆を集めて行われたそうですが(凄い法要ですね)。そのとき東勝寺から53人の僧衆が参加しているそうです。ちなみに建長寺は388人、円覚寺は350人、浄智寺からの参加僧衆は224人ですからそれに比べれば中規模と言うことになりますが、38寺の10番目とか。

北条氏滅亡の地

1333年、新田義貞らの鎌倉攻めの時、北条高時ら一族郎党がここに退き、寺に火を放ち、自刃して最期を遂げたことが太平記に書かれており、北条氏滅亡の地として今に名を知られています。「太平記」にはこうあります。

鎌倉兵火事付長崎父子武勇事
去程に余煙四方より吹懸て、相摸入道殿(高時)の屋形(現宝戒寺)近く火懸りければ、相摸入道殿千余騎にて、葛西が谷(東勝寺)に引篭り給ければ、諸大将の兵共は、東勝寺に充満たり。是は父祖代々の墳墓の地なれば、爰にて兵共に防矢射させて、心閑に自害せん也・・・・・。

城郭としての機能を持たせて建設された」と書かれることもありますが、それは発掘調査で石垣(の痕跡)と石畳状の坂道が発見されたことからです。誰が言ったんだろうと思って発掘調査報告書を読んでみたらやっぱり赤星直忠氏でした。

谷戸に建設された寺院なら「城郭」を目的としなくともそうなるでしょう。その当時、今の人間が思うような「城郭」の概念は存在しません。「北条高時ら一族郎党がここに立てこもり」と言うことからも後の山城のようなイメージを抱きやすいのではないでしょうが。

尚、そのときの調査では、北条氏の家紋・三鱗文の瓦や、青磁・天目茶碗などの貴重な中国製陶磁器の破片も発見されています。

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こちらは道の右側。

ただ寺は北条氏滅亡とともに消滅した訳ではなく、その後直ちに再興されて、室町時代には、関東十刹(五山の次)の第三位に列したとか。廃絶は戦国時代になってからです。

腹切りやぐら

その奥には北条高時らが腹を切ったと伝えられる「腹切りやぐら」があります。

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ここにも鎌倉町青年会の石碑が。

東勝寺旧蹟
元弘三年(1333)五月 新田義貞 鎌倉に乱入するや、高時小町の邸を後に父祖累世の墓所東勝寺に篭り、百五十年来殷賑を極めし府下邸第肆廛の今や一面に焔煙の漲る所となるを望見しつつ、一族門葉八百七十余人と共に自刃す。其の北条執権史終局の惨澹たる一駒は実に此の地に於て演ぜられたるなり

これがそうなんですけど、本当でしょうか? 私にはもっと時代が下がってから掘られたものの様に見えるのですが。と言うか、北条高時は矢倉で腹を切ってはいません。

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北条高時の最後

「太平記」での北条高時の最後はこうです。

高時並一門以下於東勝寺自害事
去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける・・・・・

長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。

此小冠者に義を進められて、相摸入道(高時)も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。

・・・、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

「総て八百七十余人」「後に名字を尋ぬれば」ですから推定ですが、「総じて其門葉たる人二百八十三人」は実数と見ても良いかもしれません。

太平記はいい加減なところが沢山あって歴史資料にはならないと言うのが定説ですが、さすがにこの最後の日だけは敵味方、特に北条側の生き残りや従者からの聞き取り調査資料が沢山残されていたようで、脚色ももちろんあるでしょうが、位置関係なども正確な記述が多いようです。

尚、北条高時の墓は円覚寺続燈庵にあります。