鎌倉の秋2006.09.30  秋の初めの円応寺 

北鎌倉に住んでもう13年になりますが、巨福呂(こぶくろ)坂のこのお寺、円応寺に来たのは今日が初めてです。

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何故って、理由は2つ。北鎌倉側から建長寺を過ぎて巨福呂(こぶくろ)坂をあと少しで頂上ってとこにあるんです。ゼエゼエハアハアで脇なんか見ちゃいないです。

んで半日あちこちのお寺を廻って、陽も傾いた頃の帰り道、それも巨福呂坂の下りの途中にあるんですよね。もう自転車でヒャッホー!って処で、ブレーキなんかかける気にはなりませんて。(,_'☆\ ベキバキ


もうひとつの理由は、円応寺がここに移転したのは江戸中期。それまでは由比ヶ浜にありました。だから北鎌倉の歴史とはあまり関係が無いので。

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しかし、ここに移転する前からのお寺としての歴史は鎌倉時代の1250年に遡り、最初は長谷の方に、江戸時代には「由比ヶ浜の大鳥居の東南」に有ると「新編鎌倉志」にあります。
元禄16年(1703)の大地震と津波による被害を受け、それが原因で現在のこの巨福呂坂に移ったそうです。こちらの文献ではそのあたりをまとめている知ることが出来ます。

「鎌倉攬勝考」(らんしょうこう 文政12年:1829年編)に見る新居閻魔堂

 最初は由比浜大鳥居の東南に有しを、此地に移せしは、古き事にもあらねど、年とき定かに知りがたし。『鎌倉誌』を記せし比は、貞享のはじめにて、其時迄由比浜に有としるせり。されば遠からぬ事なれどもしれず。今在所は、建長寺前より、巨福呂坂へ行南のかたにあり、荒居山と号し、円応寺と書たる額を掲ぐ。
 『鎌倉年中行事』に、新居閻魔堂閻王寺と号すとあり。されば其後此所へ移さる。此より文字を替て、閻王の同音を用ひて円応寺は名付しならん。往昔建立は、建長二年の事也。開山智覚禅師といふ。堂領は建長寺の内三貫文を分付す。
 堂内の額は、開山智覚禅師の書なり。浜有しとき迄は、別当山伏にて、宝蔵院といひしよし、寛文十三年に此閻魔の腹より書付出たり。建長二年出来。永正十七年再興の事しるせりと云云。木像のうち惧生神・奪衣婆 -世にいふ三途川の姥なり- 外に鬼の像は、古への運慶が作なりとは、普く人も唱へ、閻魔並其余の像は、応安・明応の兩度、逆浪(さかなみ)の為に堂宇を打崩し、殊に大風にて有し由、ものに見えたれば、其時海へ曵れて、僅かに残りたるは右にゆふ木像なりしゆへ、永正十七年再興とあれば、閻王をはじめ其余は造りつきたるものならん。此とき閻魔のみ作り、古作の惧生神・奪衣婆のみにては、再興とはいひかたければ、その余の像も再興出来しければ、腹中に書付をも入置しことなり。応永大乱後、亡魂御弔の為に、施餓鬼の事を、扇ヶ谷の海蔵寺へ仰て、修せらるるとあり。 

 


さて、入ってみましょう。

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こちらは鐘楼です。

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鐘はそんなに大きくはありませんが、それはお隣の本山建長寺と比較しての話しです。

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その鐘楼の脇にも白い萩の花が。

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お庭には北条氏のミツウロコの紋の入った瓦がオブジェの様に。と言うことはこれは鎌倉時代からのものでしょうか?

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こちらが本堂、閻魔堂とも十王堂とも。これは一度はご覧になった方がと思います。1体の初江王像(重文)は鎌倉国宝館にありそちらで見ることが出来ますが、残りは全てここに安置されています。十王像もすばらしいのですが、それぞれの説明も読むことをお薦めします。

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中は撮影禁止なのでパンフレッドから閻魔さまを。でも迫力はやはり実物を見ないと。

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伝承では運慶作とか。でも伝承ですから。三浦半島には運慶作の仏像はありますが鎌倉にはありません。頭部は古いものでしょうが、躰部は元禄16年(1703)以降の後補かと。
「新編鎌倉誌」によると、寛永13年(1636)の修理のときに胎内文書が発見されていますが、 それによると永正十七年(1520)に再興したものであると。先の引用のこの部分です。

 建長二年出来 永正十七年再興 仏師下野法眼如円 建長役人徳順判

その再興が頭部も含めての再興なのかどうかは私には解りません。でも重文です。

その詳細はこちらのサイト「円応寺と十王像群・地蔵菩薩像他」が実に詳しくまとめておられます。あとこちらも。円応寺 ENNOH-JI 天空仙人の神社仏閣めぐり


ほんとうに狭いお寺なんですが、味わい深いお寺でした。

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