倉敷・高山の旅   姫路城・桜門橋から本丸へ  2009.4.10

姫路城の遠景と近景

ちょっと意外ですが、姫路城は娘のリクエストです。 まあ私も嫌いではないから良いですが。ところでこの写真、えらいピンぼけでおまけにモヤがかかったようなのは私のせいではありません。えらい遠くからで、それを無理矢理トリミングしてるんです。

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姫路城をこの角度から見たことのある人はあまり居りますまい。実は姫路駅で乗ったタクシーの運転手さんに「写真を撮られるなら良い場所がありますけどどうですか?」と言われた時には、すぐ近くからのビューポイントだと思ったのですが、車はどんどん姫路城から遠ざかり、ほぼ2kmぐらい西の名古山へ。ここからは標高の点からも真横。こんなに縦型だったとは私も知りませんでした。でも、運転手さん商売上手。(笑)


こちらが普通の観光客の見る姫路城の遠景です。でも、これは実は近景だったとは・・・

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桜門

パンフレットには載っていないのですが、とうも桜門橋というらしい。するとあれは桜門?

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葵の門

その桜門を潜ると広い三の丸で桜が満開。金曜日の昼なので会社関係は居ませんでしたが、ママさんと子供達のお花見宴会、というよりピクニック?が花盛りでした。で、それを過ぎると料金所、そしてこの葵門です。ここから先が世界遺産みたいです。

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冠木(かぶき)には木製の葵紋があったんだそうですが気がつきませんでした。冠木って、簡単に言えば扉の上の横に渡した太い木です。扉の内側は通路をはさんで左側に番人部屋。右側に馬見所と納屋があったそうです。馬見所って何だ?


ここを築いた実質初代城主の池田輝政も家康の娘婿だけど、ここが葵門と呼ばれるのは千姫の関係じゃないでしょうかね? 1617年(元和3)に池田氏は因幡鳥取に転封し、本多忠政がここに入ります。その本多忠政の嫡子で、家康の外孫でもある本多忠刻の妻が豊臣秀頼の妻だった千姫です。

その千姫の化粧料(いわば持参金)はなんと10万石の領地。本多忠政は15万石、それとは別に10万石の計25万石です。この左側が西の丸で、息子の新妻・千姫の為に本多忠政が拡張したようです。

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葵門を潜ると、桜と天守がそれは見事に。

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ところでこの姫路城、南北朝時代の1346年に赤松貞範による築城説があるそうですが、どうでしょう。中世の城は現在我々が抱く城のイメージとは全く違います。源平合戦から鎌倉時代初期にの「城郭」とは「かいだてを掻き、さかもぎを引いて」と言うバリケードと矢を射かけるための急ごしらえの臨時の櫓であり、恒常的な施設ではありません。なんせ当時の戦は一過性のものですから。それが恒常的な施設となってゆく時期は南北朝時代よりも後です。

代表的な研究者の説は「世界文化遺産・国宝姫路城」サイトの「姫路城の歴史」の中に橋本政次氏の赤松貞範築城説、石田善人氏の16世紀中頃説、その他を簡潔にまとめておられます。橋本政次氏は戦後でもかなり古い時代の学者さんで、その時代の城郭史論は現在ではかなり訂正されています。

石垣に囲まれた城郭は1550年頃には始まり、1576年から始まる安土城築城以降には流行し始めています。しかしその石垣はとてもとてもこんなに立派なものではありません。天守閣も織田信長の安土城から。でもあれは山城でこんな大工事ではありません。こんな大工事は多分1583年の大阪城からではないでしょうか。

1580年、まだ信長が生きていて安土城もあった頃ですが、羽柴秀吉が石垣を用いた城郭を築き、三層の天守を建てたといいます。あの大天守の脇に三層の小天守がありますが、あれぐらいです。左側が乾小天守。


天守までの間には堀があります。三国濠とか。その向こうが二の丸です。

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現在の規模に直結する姫路城を築いたのは戦国大名の池田輝政です。戦国大名ではありますが、ここ姫路に来たのは関ヶ原の合戦の翌年の1601年(慶長6)で、それから8年をかけて大工事を行います。それは池田輝政が自分の為に、というのではなくて、関ヶ原では西軍に付いた毛利、島津ら西国大名を牽制し、まだ大阪城にあって滅びてはいない豊臣家(秀頼)とを分断するための重要な軍事拠点として、家康の命により行ったようです。

家康はこの頃、築城を始めた近江国の膳所城を皮切りにいわゆる「天下普請」として、伏見城・二条城・名古屋城・江戸城・駿府城の再建・造営を、諸大名を動員した大改修・建築事業を行いました。その中で、彦根城篠山城亀山城上野城などは、大阪城を包囲する形で築かれています。
ここ姫路城は諸大名に協力させたのでなく池田輝政ひとりが担当しましたから「天下普請」には数えられませんが、意図としては一連の大阪城孤立化策の一環です。

いの門から二の丸へ

二の丸への入り口は表向きはこの「いの門」です。表向きにはね。

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ここから門の名前は「い」「ろ」「は」「に」「ほ」と続きます。本来のルートではね。

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ただしこの日はここから先は姫路城サイトや、パンフレットとは逆回りになっていました。

ここで「本来のルート」と言ったのは、ひとつには観光ルートの道順としてです。もうひとつは、「い」「ろ」「は」「に」「ほ」という名前の順番からも「攻め手はこちらからどうぞ」って、設計時点からの公式の道順です。でも「攻め手はこちらからどうぞ」って言うことは、「このルートでコテンパンにやっつけてあげるからね」って道順で、自分たち用にはもっと近い道順が用意されています。実は、さっきの三国濠で娘が天守を見上げている写真の右側の道の先は、行き止まりに見えますが、実は埋門(うずめもん)があったみたいです。埋門というのは扉を閉めて内側から埋めてしまえるって門です。最後のページで実物をお見せします。


こちらは「いの門」を入って「ろの門」を潜らずに、右へ行った二の丸の鉄砲を撃つ小窓。なんて言ったっけ。そうそう、鉄砲挟間でしたね。この大きさなら大砲もOKかも。

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弓を撃つ窓はもっと縦長です。

ぬの門から上山里

二の丸から天守へ行くのは「ろの門」が正規ルートなのかもしれませんが、この日のルートはさっき言ったように逆コース。こちらの「ぬの門」から上山里という曲輪へ入ります。しかしこの次の「りの門」もそうですが、閉じられた門をこじ開けようとうごめく寄せ手は三方から集中砲火を浴びますね。

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さっきの見落とした埋門(うずめもん)を潜るとこの「ぬの門」の手前、写真の右側に出ます。


その「ぬの門」から見た上山里曲輪。枝垂れ桜が満開でした。

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りの門

逆コースなので「ぬの門」の次は「りの門」です。

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備前門

その「りの門」を潜って先に進むと、この辺が帯の櫓。

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この折れ曲がった先が備前門、つまり備前丸とも呼ばれる本丸に入る門です。

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天守閣に目が取られて、備前門はチラッとしか写っていませんが。
さて、お次はいよいよ本丸(備前丸)から天守に入ります。

姫路城内の地図

天保6年、つまり1835年ですから江戸時代後期の絵図です。天守閣に展示してありました。
三の丸(下半分)はともかくとして葵門から先の門はほとんど残っていると言って良いでしょう。ただし、この絵図には「いの門」から「ぬの門」の間にもうひとつ門が描かれています。なんて名前だったんでしょうね。

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どの門が何処なのか判らない? ごもっとも。こちらと比較してもてください。

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@ABCDが水一門から水五門、Eが乾小天守、Fが西小天守、Gが東小天守、Lが備前門、Mが「りの門」です。