倉敷・高山の旅    姫路城・天守閣から城外へ 2009.4.10 

天守閣からの帰り道・水三門

さて、天守閣を後に帰り道で御座います。この帰り道が「攻めてこられた皆さんはこちらからどうぞ」という、有る意味正規ルートで。私と娘はそれを逆に行く訳です。我々がへそ曲がりなんじゃありません。この日の参観コースはこうだったんです。

姫路城_01

右の石垣の上が西小天守で、今まで気がつかなかった水三門が、この坂を下りた右側です。来るときは左側の欄干を上を見上げながら歩いていましたから、足下に門があるとはつゆ知らず。

もう一度地図を。パンフレットにはこのルートは書かれていません。上の写真はちょうどCの位置からBを見たところ。そのBからA@、そして「ほの門から赤い矢印を逆ルートです。

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ちなみにEが乾小天守、Fが西小天守、Gが東小天守です。

水二門

逆行ですから水三門の次は水二門です。この石垣は見事ですね。この上が乾小天守です。

姫路城_02

娘は「早く行かなきゃお昼食べる時間が無くなっちゃうじゃない!」とスタスタと行ってしまいます。

姫路城_03

困った娘で御座います。フキフキ ""A^^;

水一門と油壁

もう居ないし。(;^_^A アセアセ…

姫路城_04

この正面に見えるちょいと高い土壁は「油壁」または「油塀(あぶらべい)」と言って、文化財としての登録名は「水の一門北方築地塀」。姫路城の説明には必ず登場する有名なものです。

と言うのは他は白漆喰の白壁なのにここだけ土壁で、高さも連続性が無いんです。何で「油壁」と言われるのかは判りませんが、粘土に豆砂利と米のとぎ汁を枠にはめて固めたものだそうで、ここだけ異色なことから、秀吉時代のものじゃないかなんていわれますが、「じゃないか」ってのは「だったら良いな」も含んだ後付の推測で、根拠がある訳でも、全ての研究者がそう言っている訳でもないようです。

そういう時は石組みも参考になりそうですが・・・、でも秀吉の築城から池田輝政の築城までたったの20年ですからね。それにこの時代の石垣の石は新たに切り出されたものだけじゃなくて、付近の廃城や、場合によっちゃぁ古墳なんかからまで持ってきちゃいますから見分けはつかないでしょう。

ところでこの水一門から水三門。実は天守閣へのショートカットルートで一見天守閣とは関係無い脇道かの様に作られています。万一水一門に気がついてそこと水二門まで打ち破った敵兵が居たとしても、水三門は天守閣から遠のくような場所に、おまけに軽い下り坂。まるで「お帰りはこちら」とでも言われているように見えて、「せっかくここまで攻め込んだのに、外にでちゃ手柄になんないぞ! 一番乗りを捨てられるものか。早く上に攻め込まなきゃ!」と引き返すような作りです。GPSで位置を確認しながら戦う訳じゃないしねぇ。視覚が全て。

ほの門

その「油壁」の裏側がこの写真。油壁が1580年の羽柴秀吉築城の頃からのものだとしたら、当然この石組みもそのときのはずですが。

姫路城_05

しかしこの門も、扉を閉めて右側の石垣を崩して埋めたら、絶対に開きませんわなぁ。学生運動のときのバリケードも扉を閉めてロッカーとか机とかを積んだけど、そんな生やさしいもんじゃないですねぇ。デッカイ石ですから。更に土まで盛ったりした日にゃぁ。


その「ほの門」を出て振り返ったところ。壁の黒い部分が「油壁」の端です。その左下に「ほの門」があります。見上げると乾小天守が。なんか彦根城の天守とイメージが重なりますが。何ででしょうね。あの唐門風な屋根の反り? それとあの華灯窓(かとうまど)も彦根城と共通しますね。

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にの門

ここだけでも難攻不落でしょう。普通は門を破って一気になだれ込むってのが城攻めで最も盛り上がるシーンですが・・・。

姫路城_07

門というよりL字形に折れ曲がったトンネルです。扉を閉めてあとは何もしないなんてことは絶対にありますまい、埋めます。埋められたら、これを突破するのはトンネル工事です。そのトンネル工事に取りかかれたとしても、何処で折れ曲がっているかなんて判らないでしょう。

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あっ、娘ったらあんな先の方を。


上の突き当たりでUターンして振り返ったところです。天守が見えますね。映画がテレビの時代劇なんかにも良く登場するアングルです。黒沢明の「乱」にもここが出てきたような。
それは良いのだけど、ひどいときには徳川将軍の江戸城のシーンにここ姫路城が出てきたり。城郭が一番しっかりと残っているのがここだからまあ仕方がないと言えば言えるんですが。

姫路城_09


そして進行方向の上に見えるのが先ほどの「にの門」の上の櫓です。あの石垣が段差になっている処の中が、さっきのトンネルになります。

姫路城_10

はの門

その「にの門の櫓」の右に「はの門」があります。ここも仮に扉を打ち破ったとしても、目の前は階段で、周りから弓、鉄砲で射かけられて蜂の巣です。

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あれ? あん人、うちの会社の社員じゃない。平日なのになんでこんなとこ居るんだろう?
えっ、ちゃんと会社に居た? ・・・・生き霊で御座いましょうか。

ろの門

「はの門」の外は西の丸にも通じますが。既にお話したとおり、西の丸が拡張されたのは「戦」の現実味が無くなった大阪城落城後のことで御座います。そりゃそうでしょう、大阪城落城まで、千姫は豊臣秀頼の妻だったんですから。
だもんで、姫路城本来の防衛構造からは一旦除外して、外に出るにはこの「ろの門」。さっきの「はの門」の手前から、この「ろの門」の外側までまとめて「二の丸」らしいです。

姫路城_12


その「ろの門」を外側から。
この日の行きの順路はこの「ろの門」でなくて、「ぬの門」でしたが、それと比べると、この「ろの門」はあまり本気さが感じられませんね。さぁ破って下さいとでも言うような。

姫路城_13

この先、つまりこれまで見てきた「はの門」や「にの門」の方に誘い込む為の囮と思えてなりません。

いの門

その真っ正面がここ「いの門」です。ここは来るときに通りましたね。攻め手がこのいの門を突破すると目の前に上の「ろの門」が見えて、そこに殺到するのですが、しかしそこから先は見てきた通りに難攻不落。「待ってました」状態です。

姫路城_14

と言ってもこの姫路城、実際に攻められることを恐れて築いたというより、どちらかと言うと西国大名に対しては、「攻めても無駄だよ。ここを突破して大阪城に合流なんて無理だからね」。大阪城の豊臣家に対しては「姫路城を突破して西国から加勢があるなんて、あり得ないからね!」って牽制が最大の目的だったのではないかと。

そういう意味では、京、大坂への行き帰りの豊臣シンパの西国大名自身か、あるいはその家臣を本丸に招待したかもしれませんね。「い」「ろ」「は」「に」「ほ」「へ」「と」の表向き正規ルートを通らせて、難攻不落さを見せつけて、そんで「はぁ〜、この城を落とすのは無理だわ〜」と思わせる。

だって、築城開始が関ヶ原の翌年ですよ。反徳川がくすぶってはいても大勢は既に決した。しかし隙あらばと様子を覗っている状態にこの姫路城の大工事を行って、「もう無理。西国から大阪に合流するのは自滅行為じゃ、出来やせん。下手に動くと滅ぼされるぞ。豊臣とはもう縁を切ろう。」と諦めさせる為の城。政治的なジェスチャー、そんな気がします。
そしてこの姫路城完成の5年後、1614年11月に始まった大阪冬の陣には大名クラスは誰も豊臣方に組しませんでした。集まったのは主人や領地を失ったバラバラな浪人だけです。翌年の夏の陣では西国大名も攻め手に加わっています。島津は居ませんでしたが、それは来る途中でもう終わってしまったからです。

大体籠城戦に戦略的な意味があるのは、出城か、あるいは別の味方が居る場合だけです。時間が稼げればそれで城外の味方が大挙してやってくる。あるいは体制を立て直せる。食料難や雪で攻め手は疲弊するって場合だけです。他に味方が居なければ籠城はただの死に場所。そこが本拠地ならば負けたからこその籠城です。そういう意味ではここ姫路城は池田氏の本拠というより徳川家康の出城ですね。篠山城亀山城彦根城上野城もそうです。

葵門

さて、「いの門」を出ると正面はあの葵門。門としてはここが一番威厳と風格がありますね。表から見た方がメチャかっこいいですが。顔ですからね。

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桜門

そして三の丸からここ桜門を出ると、姫路城の外へ。

姫路城_16

姫路に居られる時間は3時間。その間にお昼も食べるはずだったのですが、結局全てここ姫路城で使い果たし、タクシーの運転手さんに聞いておいた穴子の美味しいお店にも行けませんでした。

娘は「パパがいつまでも写真なんか撮ってるからじゃん!」とふくれっ面。
しかしよくよく考えてみたら、娘が予定外の乾小天守なんか見ようと言い出したのが穴子を食べられなくなった真の原因ではありますまいか! 
・・・と思いつつも、優しいお父さんは城外の屋台村で「たこ焼」を奢ったり、バスなんか待たずにタクシーに乗せてあげたり、新幹線に乗る前には食べ損なった穴子入りの駅弁を買って、娘に食べさせてあげたりと、ご機嫌取りに勤めたのでありました。

わがままな娘をもつとお父さんは大変。涙なくしては語れませぬ。(。_・☆\ ベキバキ