鎌倉の秋 2010.11.03 円覚寺宝物風入・舎利殿 |
龍隠庵から方丈の方へ行き、通り過ぎると方丈のお庭が。あっ、ここも紅葉! といっても、あの低い木は毎年一番早くて、本当に他の木が紅葉する頃には枯れてしまっているんですけどね。池の向こうの建物は書院で、今日は人が沢山入っています。方丈と書院が宝物風入のメイン会場ですから。 がしかし、方丈は後回しにして、今回は先に舎利殿へ。この妙香池の紅葉は本当に見事です。 まだ始まってはいませんが。 さて、こちらが宝物風入の第二会場。といってもこちらは風入の必要は無いのですがね。 あの門の内側は円覚寺の専門道場で、普段は入れません。この宝物風入のときと、あとは大晦日深夜だけです。 門をくぐると、そこは円覚寺の正続院です。 そして正面の唐門の向こうに見える屋根が国宝の舎利殿です。 見えないのですが、その舎利殿の向こう側に開山堂があります。そこが開山・無学祖元禅師の墓所なのかと思っていたのですが、本当のお墓はその後ろの山の中腹にあり、開山堂はそこへの拝殿なのだそうです。知らなかった。 左側には古い蔵が。宝物はいつもここに入っているんですかね。判りませんが。 正続院の屋根は数年前に吹き替えたばかりです。 いよいよ国宝の舎利殿に近づきました。 左側に新しそうな矢倉があります。以前大晦日、というか元旦深夜に来たときは、正続院の障子を開けはなって、元旦の仏事らしきことをやっていたのですが、その最中にお坊さんはひとり出てきて、あの矢倉の前でお経を上げました。この日、たまたま近くにいたご婦人があの矢倉のことを聞いたら、食事の神様の・・・を祀っていると。 日本で食事の神様というと大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)なんですが、そう言ったのかどうかは覚えていません。 さて、ここが入口です。中ではお坊さんが解説をしてくれます。二人が交代で解説してくれるのですが、台本がある訳ではなく、同じ口上ではありません。少し待って二人とも聞くのがお薦めです。 今年の一人目の中年のお坊さんは、禅宗の二つの宗派、永平寺の曹洞宗と、こちらの臨済宗の違いについて話してくれました。同じ禅宗なので大きな違いは無いんだけど、円覚寺や建長寺の臨済宗は武士の都らしくお経の上げ方が力強くはっきりしている。一方曹洞宗は地の底から湧き上がってくるような感じだとか。とても公平に感覚的に判りやすく説明をしてくれました。 中は通常撮影禁止です。なので外から。舎利殿の中には入れません。出家して雲水になってここで修行をすれば入れます。 ところがもうひとつ中に入る方法があるんだそうです。そちらは出家しなくとも良い。どうするのかというと、檀家総代になれば良いのだそうです。ただしいつでも入れるのではなくて、ここ円覚寺の管長が替わるときに、新管長候補者の試験のような禅問答がここで行われて、それに立ち会えるとか。10年か20年に一回ですね。檀家総代になれば必ずではなくて、運が良ければですね。 撮影禁止の理由は聞いた訳ではないのですが、美術品のような財産権の問題ではなくて、ここが円覚寺の聖域だからじゃないでしょうかね。カメラを持つと普通の人でもハンターのようになって無遠慮になりますし。撮影出来ないのは残念だけど、でもここは撮影禁止の方が良いと思います。 あのお坊さんの後ろが、雲水の修行道場となっている正法眼堂です。選仏場は昔の禅堂。こちらが今の禅堂です。基本的に同じ作りなので、選仏場を見れば中が想像出来ます。凄い修行生活で、冬でも素足に草履。着るものも三枚まで。ひとり分のスペースは畳み一畳です。 あのお坊さんが話してくれましたが、修行時代に一日の中で一番嬉しかったのは、朝食のお粥なんだそうです。中華粥みたいに色々入っているお粥じゃなくて、本当に米だけのお粥です。鶏ガラスープで味付けなんか当然していません。でも、冬でも日の出とともに起きて、念仏とか修行をした後の冷え切った体に朝食のお粥の暖かさが本当に嬉しかったとか。この中には中世の生活が今も生きています。 ところで、今年の説明の最後に例年とは違う口上が入っていました。ここの写真では避けて撮していましたが、実は正続院の前に売店が出来ていて、そこで円覚寺の本と一緒に瓦煎餅を売っていたんです。で、その瓦煎餅は「一枚食べれば悟りの境地、二枚食べれば極楽浄土」なんだそうです。三枚食べるとどうなるのか、ひとり目のお坊さんは「どうぞ試してください」、二人目のお坊さんは「わかりません」。どうなるんでしょうね? 悟りを開いて、極楽浄土へ行って、その次ぎ? ま、まさか仏様になっちゃうんじゃ!(;^_^A
アセアセ… 仏舎利舎利殿というと仏舎利を納めている建物のことで、仏舎利とは釈迦の遺骨のことです。もっと正確には「入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰塵」ですから遺骨とは限りませんが。 無学祖元の塔所たる正続院が、後醍醐天皇の命により建長寺からここ円覚寺に移ったときに、以前からあった舎利殿の建物を正続院としたようですから、おそらく鎌倉時代からここに舎利殿があり、故に仏舎利もあったということは言えそうです。もちろん今の国宝舎利殿ではありませんし、その頃の仏舎利は足利義満が京都に移しています。 もっとも鎌倉には義満の知らなかった仏舎利はまだあって、2008年に金沢文庫は称名寺光明院に所蔵されている高さ20cmほどの平安初期の弥勒菩薩の修理の際、その体内から東寺と室生寺からのそれぞれ4粒の仏舎利(米粒ほどの貴石)が発見されたと発表しています。それが入れられたのは鎌倉時代であろうと。同じく金沢文庫の修理で運慶作と判明した大威徳明王像内のハスの実にも一粒の仏舎利と思われるものが埋め込まれています。それだけでも計9粒ですから、鎌倉時代の鎌倉にはもっと多くの仏舎利が来ていたことになります。しかしそれが判ったのはここ2〜3年のこと。 今の舎利殿がいつ何処から来たかは解明されましたが、納めてある仏舎利はいつ何処からここ円覚寺に来たのでしょうか。 円覚寺の仏舎利は実朝が中国のお寺からもらったという伝承がありますが、出所は『新編相模国風土記稿』です。江戸時代後期にはすでにその伝承が出来上がっていたということは言えますが、それを証明できる鎌倉時代の史料はありません。根拠はありませんがなんとなく江戸時代の仏舎利信仰ブームあたりが怪しいかも。 円覚寺舎利殿に納められているのは多分一粒なんですが、実は日本だけでも沢山あります。空海が中国から持ち帰ったという甲乙の2つの壺に入れた仏舎利と伝えるものが東寺にあり、多くはそこから配られたようです。東寺百合文書の中に「北畠親房仏舎利奉請状」というのが残っています。簡単に言うと仏舎利の受領書なんですが、それによると、後醍醐天皇が37粒、それとは別に北畠親房が2粒もらっています。 東寺にはいったい何粒あったのでしょうか。室生寺にも沢山あったようですね。学者さんに聞いた話では東寺の甲乙2つの壺の仏舎利は増えたり減ったりするんだそうです。あげたのは別にしてですよ。増えてるときは天下がうまく治まっている証拠つまり吉兆で、減っているときはよくないことが起こる前触れとか。不思議な話ですね。 円覚寺の仏舎利は知りませんが、仏舎利といわれるものはガラス(奈良時代からガラスはあります)や石(石英とか宝石なども含む)などの代替仏舎利が多いそうです。東寺の仏舎利が増える理由は知りませんが、代替仏舎利はこっそりと水増ししているとは限らず、中国の段階から高僧が石英、真珠、水晶などを持って、「真骨」とされるものの前で供養すると、それらが仏舎利の代替品になるんだそうです。それらも含めて全世界で2トンの仏舎利があるとか。桁違いに最高級なお札のようなものと思っていればよいのかもしれません。 他の季節は北鎌倉・円覚寺 indexからどうぞ |