2013.05.19 東慶寺天秀尼展記念講演会 |
天秀尼展講演会
記念講演会は2時から。そろそろ書院に入りましょうか。 前回で学習して、講演会開始のだいぶ前に会場に入り、最前列を確保しました。なのでスライドもバッチシ! なんてこれ、本当は休憩時間の写真なんですけどね。なのであのお姉さんストレッチ。 さて、その記念講演会は『豊臣家最後の姫―天秀尼の数奇な運命』を書かれた歴史研究家の三池純正先生。三池先生の云うには、歴史研究家は歴史家とは違うそうです。 もう少し正確に云うなら、歴史学徒とは史料にあるだけでは是とせずに、その史料はどれぐらい信用できるものかという史料批判の視点を常に持ち、史料自体を検証しながら、合理的な推論を行う人のことです。本当に「史料にあることしか云わない」のでは歴史学徒ではありません。洞察力がなければ、どの分野だって学者とは云えません。でも思いっきり縮めて云うと・・・、三池先生のおっしゃるとおりですね。(笑) 何故「史料自体を検証しながら」なのかと云うと、史料のほとんどは後世の言い伝えを元に編纂されたものだからです。例えば史料価値が高いとされる『吾妻鏡』ですら、顕彰の為の曲筆やら、誤認やら、「切り貼りの誤謬」やら、中には疑文書に基づく記述があったりします。まあそれは後世の編纂故に入ったノイズとも云えますが。 『吾妻鏡』程度のノイズならまだ良いのですが、中には丸ごと偽書ってことも。『甲陽軍鑑』、『三河後風土記』、『徳川歴代記』などは江戸時代から偽書とされていましたが、宮本武蔵の『五輪書』に、お茶の世界では『南方録』も今では偽書とされています。最近知ってショックを受けたのですが世阿弥の『花伝書』も世阿弥が記したものではないようですね。まあ勝手に世阿弥だと思いこんでたら違ってってことで、偽書というのは可哀相な気はしますが。でも江戸時代は偽書が多いなぁ。 また、後世の編纂物の記述で誰もが疑わなかったことが、当時の公家の日記の翻刻を進めるうちにひっくり返されたなんてこともしばしば。なので史料の氏素性はとても大切です。史料にあるだけでは安心できません。
東慶寺以前の天秀尼
三池先生は、国松も天秀尼も大坂城落城の頃までは徳川方に全く知られてはおらず、おそらくは正妻千姫をはばかって、妊娠と同時に城外に出されたのではないかとおっしゃっていました。 ほぼ同時代の例では、第2代将軍徳川秀忠の庶子(千姫の異母弟)で、加藤明成改易の後に会津の藩主となった保科正之も同じ境遇です。『新訂増補国史大系徳川実紀 第三編』 「大猷院殿御実紀巻32」 寛永13年7月21日条に保科正之が信州高遠3万石から出羽山形藩20万石に加増移封された記事がありますが、その中に「世に伝うるところには・・・」と、家光が鷹狩の途中に身分を隠して立ち寄った小さな寺で、僧から正之が弟であることを聞かされ、初めて知ったと書かれています。まあその部分は「世に伝うるところには・・・」 に始まり、最後は「まことにしや」 で終わっていますが。 ついでに云うと、正妻じゃなければ側室というものではありません。側室って結構格式があるんです。豊臣・徳川の特殊な関係が無くとも、妊娠が明らかになったと同時に城を出されていたでしょう。そもそも城内の女性とは限りませんし。先の保科正之なんか、秀忠が鷹狩りにでかけたときの落とし種じゃないかなんて思われてるぐらいです。そうであれば一夜限りの夜伽です。そういう例は平安時代の『今昔物語集』にも、鎌倉時代の『吾妻鏡』にもあります。 後に出てくる会津四十万石加藤明成の子、明友もそういう境遇で、家臣に預けられていたけど結局正妻に子が生まれなかったので加藤家を継いだとか。 なので三池先生の「千姫側近も知らない秀頼の子の存在」は別に不思議ではなく、「豊臣家はなぜ完全な秘密主義を取ったのか」(講演会レジュメ)などと何かしら特別な理由を考える必要は無いのではないでしょうか。 母親の名も、天秀尼の俗名も判ってはいません。三池先生は、天秀尼の俗名は判らないんだけどそれでは不便なので「天秀法泰尼」から「泰」の字を採って、仮の名を「泰姫」としたとおっしゃっていました。 「泰姫」かどうかはともかく、4文字目を使ったのはさすがだと思います。というのは、禅宗では例えば蘭渓道隆とか、無学祖元というように4文字なんですが、最初の二文字は号で、次の二文字が諱(いみな)です。織田信長というときの信長も諱(いみな)です。実名とも云いますが。その一文字目はそのお寺の系字で、東慶寺の場合、江戸時代にはずっと「法」の字が使われます。なので、俗名が埋まっているとすれば、あるいは俗名に代用したいと思えば4文字目しかない訳です。 千姫が天秀尼を養女にしたのは夏の陣での落城後のことのようです。東慶寺の由来書にも「大坂一乱の後天樹院様の養女になされ権現様上意に依り当山に入り、薙染し瓊山尼の弟子となる。時に八歳」とあるそうです(前述『駈入寺』 p.48)。 「薙染(ちせん)し」とは「仏門に入る」「出家する」という意味。瓊山(けいざん)尼は東慶寺十九世の瓊山法清尼です。 天秀尼の母は成田吾兵衛助直の娘で、大坂場内から千姫の養女との説もあります。東慶寺の前住職、井上禅定師の昭和30年の著書『駈入寺』には「台徳院殿御実紀にそうある(pp.48-49)と。「台徳院殿御実紀」とは徳川幕府が19世紀前半に編纂した『徳川実記』の中の徳川秀忠の記録のことです。そこで当たってみました。『新訂増補国史大系-徳川実紀 第二編』、「台徳院殿御実紀」の巻37、元和元年5月12日条にこうあります。 大坂残党を搦取りて進らすべきよし。諸国の領主代官に令せらる。京極若狭守忠高は秀頼息女八歳なるを捕えて献ず。これは秀頼の妾成田氏(吾兵衛助直女)の腹に設けしを。北方養ひ給いしなり。助命せられ、後年比丘尼となり。鎌倉松岡東慶寺に住持して。天秀尼といえるはこれなり・・・(p.41)。 しかし『徳川実記』は19世紀前半に編纂物です。しかし『吾妻鏡』よりずっと楽なのは、各記事に参考文献があげてあることです。この日の記事の出典は「駿府記」、「武徳編年集成」、「慶長日記」とか。「駿府記」は当時の家康側近の記録でリアルタイムな一等史料で、『史籍雑纂』第二巻に収録されています。その元和元年5月12日条には「今日秀頼御息女(七歳)、従京極若狭守尋出捕之註進、秀頼男子在之由内々依聞召、急可尋出之湯由所々費被触云々」 とあり、細川忠興の書状にも七つとなっているので『徳川実記』の書き間違いでしょう。『徳川実記』同様に「京極若狭守尋出捕之註進」 (カッコ内は割書)とありますが、「秀頼の妾成田氏(吾兵衛助直女)」 の記述はありません。後世の伝承からの補完でしょう。ちなみに、『徳川実記』には国松が捕まったときの経緯が、有る説ではこう、またある説では云々、と三種類も出ています。これも後世の伝承部分かと。「駿府記」にはそのような記述はありません。 『徳川実記』は東慶寺の由来書とも違いますね。「北方養ひ給いしなり」 という部分がです。「北の方」とは正室千姫を指します。『大坂陣山口休庵咄』(『続々群書類従』4収録)などによれば、国松は7歳まで乳母に育てられ、8歳のとき、淀君の妹の京極高次妻常高院が、和議の交渉で大坂城に入るとき、長持ちにいれて城内に運びこんだとあるそうです。つまり国松も天秀尼も、父秀頼に初めて会ったのは大坂の陣の和議の最中。『徳川実記』と『大坂陣山口休庵咄』+『東慶寺の由来書』のどっちを信じるかという問題はありますが。三池先生と同様に私も後者が正しいと思いますね。 ところで、東慶寺の由来書にある瓊山尼とは、小弓公方足利義明の孫で足利頼純の娘。大平寺最後の住持青岳尼は叔母。その当時の東慶寺住持旭山尼も瓊山尼の叔母です。代々公方家の姫がここ東慶寺の住持となっています。瓊山尼の妹月桂院は秀吉の側室だった方で、秀吉の死後江戸に移り、家康の娘・振姫(ふりひめ)に仕えています。振姫は夫蒲生秀行を失い、この頃浅野長晟と再婚することになって江戸城に居たはず。井上禅定師が、天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」(『駆入寺』 p.51)と書かれたのはこういう背景からでしょう。
東慶寺での天秀尼
三池先生のお話では天秀尼は17歳で出家と書いてある書もあるということですが、霊牌の裏には「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」 とあるそうです。「当山薙染干時八歳」とあり、先に述べたように「薙染(ちせん)」とは「仏門に入る」「出家する」という意味ですから八歳で出家となります。先の由来書の文面でも入山とほぼ同時と読めます。それにこういう立場の者はすぐに尼なり僧なりにするのが普通でしょう。天秀尼は1615年5月の大坂落城のときに7歳とありますから、翌年に東慶寺に入ったということでしょうか。 もしかしたら千姫と天秀尼は対面したことが無かったのかもしれません。三池先生は、その天秀尼が千姫の養女になるにはその仲介をした天秀尼の後見者が居たのではないかと、そして今も天秀尼の墓の脇にある宝篋印塔に台月院殿明玉宗鑑大姉とあるのがその仲介者ではないか。更にその仲介者は成田甲斐姫ではないかとおっしゃいます。 甲斐姫まで飛躍するのはどうかと思いますが、「天秀和尚御局」と刻銘があるので天秀尼の付き人。付き人と云っても、墓は格式のある宝篋印塔で、「御局」とあるし、戒名が「院」ではなく「院殿」であることから、ただの付き人ではなく相当に身分の高い人であることは確かです。 もうひとつの可能性も考えられます。天秀尼は千姫の養女としてここ東慶寺に入寺していること。千姫の再婚に際し、豊臣との縁切りのため上州得川の満徳寺(も う一つの縁切寺)に千姫の名代として刑部局を入寺させ、それをもって豊臣との縁は切れたとした事例。東慶寺とその縁切寺法に、江戸時代を通じて「権現様御 声懸かり」という幕府の後ろ盾があったことは、秀頼の娘が住持だったことではなくて、千姫の養女としての天秀尼の立場だったことなどを考え合わせると、義 母千姫が自分の名代に付けた側近、母代り、お目付け役にして千姫とのパイプ役だったのかもしれません。天秀尼を千姫の養女にして助けるとは、千姫が養育と 監視に責任を持つということですから。 幼少の千姫が豊臣に嫁いだとき、嫁入り道具だけではなく、養育係も含めた大勢の侍女を引き連れていっているはずです。それ らは徳川将軍家とのパイプ役でもあります。いくら家康の娘に仕える月桂院の姉の寺とはいえ、寺に入れたらそれで終わ りということは無いでしょう。それに、徳川とは縁の薄い豊臣家関係の人を母代りに付けておくほど危険なことはありません。豊臣家との俗縁は切らなければな らないんですから。 東慶寺と千姫との関係を示す物として、古文書以外に一枚の棟板が残っています。翌年の寛永11年
(1634年)、前の年に切腹した駿河大納言徳川忠長の屋敷の一部が解体されて東慶寺に寄進され、客殿、方丈、総門などになりましたが、棟板はその建立の
ときのものだと思います。 客殿、方丈などは関東大震災で倒壊していますが、棟板はその旧客殿か方丈かに架かっていたものでしょう。そしてそこには千姫ばかりか三代将軍家光の乳母春日局の名前までが。
義母千姫の名代ならば「宝篋印塔」、「御局」、「院殿」、「住持の墓地の、天秀尼の墓の傍に尼でない女性の墓」は納得できます。また、井上正道住職の推測、「東慶寺にかなりの功績のあった人物、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた、天秀尼にとっての功労者」「常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物」「天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないか」ともピッタリと合致します。千姫、幕府とのパイプ役であれば、駿河大納言忠長の屋敷の移築による、客殿、方丈、総門などの再建では東慶寺内の中心人物で、「東慶寺にかなりの功績のあった人」と当然思われるでしょう。 「院殿」は今ではあまりなじみの無い戒名ですが、徳川家光の「大猷院殿」をはじめ、歴代将軍はみな「院殿」です。千姫の戒名も「天樹院殿栄譽源法松山禅定 尼」と「院殿」。千姫の伯母に当たる常高院の夫、若狭8万石の大名・京極高次の戒名も「泰雲院殿前三品相公徹叟道闡蜍庶m」と「院殿」です。三池先生は徳 川家では将軍の妾クラスも「院殿」だとおっしゃっていました。もともとは「院」の方が「院殿」より上だったそうですけどね。平安時代から南北朝の頃まで は。「院」の相場が下落して、逆に「院殿」が偉いまま残ったというのが江戸時代なんだとか。室町後期はどうなんだって? そこまでは知りません。 さらに東慶寺の縁切り寺法は「権現様(家康)お声懸り」と考え合わせて、千姫再婚が直接の発端ではないかとすら考えられます。開山と伝える覚山尼が「不法の夫に身を任せた女性を不憫に思い、この寺に駆け込む ことによって女性を救う縁切寺法を始めた」というのは後世の創作ではないでしょうか。こういう後世の創作は大平寺にもあります。池禅尼の姪が頼朝に願って許されたとか。 直接でない発端は、高木先生のおっしゃるような寺院のもつアジール(避難所)な性格でしょう。 二時間の講演会の間に一度休憩が。書院のお玄関を出て何気なく左を向くと、あれ? いつもは塀の隙間から 撮っているんですが、今日は逆方向からパチリ。今が一番の盛りですね。
会津四十万石改易事件
講演会の最後に、天秀法泰尼と会津四十万石改易事件との関係を最初に記した史料はいつ頃のものかと質問をさせて頂いたのですが、同時代の史料は無く、江戸時代中期の『武将感状記』が初出だとか。あらまあですね。 「感状」というのは、武士が本当に戦をしていた時代に論功行賞の中で、これこれこうこうで大いに功があったと主君からの今風に云えば賞状、感謝状です。もちろん戦に勝って主君の領地が広がれば恩賞は領地ですが、負けたときにでも「感状」をもらい、別の主君に仕えるときにその「感状」を見せて自分の武勲を売り込みます。 『武将感状記』は1716年(正徳6年)に刊行された有名なものですが、著者の熊沢淡庵の素性は解りません。江戸時代中期の武士の価値観を知る材料としては評価はされていますが、書かれた内容についての信憑性は???です。 でも目次を見ているだけでも面白いですよ。 それよりは評価のずっと高い通称『徳川実紀』の家光の章に会津四十万石改易のことは記されているそうですが、天秀尼は出てこないとか。確かにでてきません。 家光の章とは『新訂増補国史大系徳川実紀 第三編』に収録されている「大猷院殿御実紀」。その巻53、寛永20年5月2日条です。『徳川実紀』の成立は19世紀前半ですが、徳川将軍家の記録をベースにしており、史料価値はそこそこ評価されています。ただし、掘主水の一件は「世に伝うる処は」 に始まっており、幕府の記録(日記)に基づくものではないようです。まはその最後は「やがて其の身多病にして国務にたへず。封地ことごとく返し奉ると申して遁世したり。」 ですから、単純に外様だから改易されちゃったとか、天秀尼がつぶしたというのは後世の学者その他の後付解釈(想像)で、史料にそうある訳ではなさそうです。 『武将感状記』にはこの一件がどうかかれてるかって? 巻之十の「加藤左馬助深慮の事/付多賀主水が野心に依て明成の所領を召上げらるる事」にこうあります。
「天樹院殿」(千姫)が出てくるので「比丘尼所」(尼寺)とは東慶寺のこと。「比丘尼の住持」とは天秀尼のこと、「天寿院」ではないので千姫没後に書かれたものと判ります。この事件は1639年から1643年までのことなんですが、1716年当時、将軍家所縁の鎌倉の尼寺が加藤明成の引き渡し要求に応じなかったことが広く知られていたということは云えそうです。 ただし細かいところは。だって「頼朝より以来」なんてありますよ。東慶寺が出来たのは寺伝でも頼朝が死んでから1世紀ぐらいあとだし。他の史料で確認出来るのは更に後だし。 タイトルに「多賀主水」とあるのは、掘主水のことです。でも「野心」なんて云われてますね。何処が野心なのか良く判らないのですが、1716年当時の武士の道徳からすればそうなってしまうのでしょう。『武将感状記』の史料価値はそういうところです。 逆に掘主水の一件は武士がまだ武士であった頃の主従関係を物語っています。武士がまだ武士であった頃とは江戸時代の前の戦国時代だけではなく、平安時代まで遡ります。今日思われている「忠君孝心」、「「武士道とは死ぬ事と見付けたり」と云った『葉隠』的「武士道」は、江戸時代、戦が無くなった以降の儒教の朱子学の影響でむしろ異質。例外。平安時代後期なんて、主従関係は一代限りとか、それどころか国守は4〜5年任期なので主従関係も4〜5年単位。同時に複数の主君に仕えたりもします。終身雇用ではなくて元請け下請けの関係です。鎌倉時代の「御恩と奉公」の「御恩」とは所領安堵と恩賞です。「いざ鎌倉!」なんて云いますが、実際には「こい!」ということよりも「その必要は無いからこなくてよい!」という方が多い。何故かというと、来られたら着到状に証判を書いて、後に恩賞を出さなければならないからです。 良い例がこの主君加藤明成の祖父は三河国で最初は今川家に仕え、後に松平家康(後の徳川家康)の家臣でしたが、三河一向一揆で主君家康に背き、流浪の身となります。 東慶寺の前住職、井上禅定師の著書『東慶寺と駆込女』によると、この『武将感状記』よりは身元のはっきりしている『松岡東慶寺考』(1808年に水戸の史館で編纂)という書物があるそうです。そこにもこの事件が書かれていてその一部が引用されていました。こうあります。
これは『武将感状記』を書き写したものでしょう。先の引用の下線部分と比較してください。流石に「頼朝より以来」は「古来」に修正されていますが、あとは漢字をひらがなに直したしたぐらいです。
加藤明成は本当に暗君?
とことでこの天秀法泰尼と会津四十万石改易事件は、寛永16年(1639年)4月16日会津加藤家を出奔した掘主水が、結局は会津藩に引き渡されて処刑されますが、ここ東慶寺に匿われていた掘主水らの妻はどうなったのか。 天秀法泰尼が「明成を滅却せしむるか、此の寺を退転せしむるか、二つに一つぞ」と突っ張って、明成も会津四十万石と替えてもと息巻いて、結局会津加藤家は1643年(寛永20年)に改易された。と短絡する訳には行きません。
つまり明成が折れて、掘主水の妻は会津加藤家改易より前に会津の実家へ帰ったと。それも「明成殿」から「給わりたる」と。つまり掘主水妻の身柄は明成の元にあったということになります。 何に拘っているのかと云うと、加藤明成は本当にしょうもない殿様だったのかということです。 藩をまとめきれなかったというのはそうなんでしょうが、しかし城に向かって鉄砲を撃ったり、橋を焼いたり、関所を強行突破した逆臣に泣き寝入りしてはそれこそ他の大名の物笑いの種です。明成も戦を経験した武将ですから。しかし掘主水さえ打ち取ればその面目は立っています。天秀尼の抗議を無視して、会津四十万石を捨ててもと妻まで打ち首にしたのなら、本当にプッツン暗君と言えるでしょうが。 『武将感状記』が本当なら、会津藩の武士が力づくで東慶寺に入り、主水の妻達を連れ去ったということかもしれません。門前で引き渡しを要求したというだけなら「理不尽の族無道至極せり」にはならないでしょう。天秀尼が主水の妻らを渡さず、会津藩取り潰し後に主水の妻が会津に戻ったのなら「明成殿も御威光置きかたく宥(ゆる)して、先祖黒川喜三郎貞得に扶助すべしと給わりたる」にはなりません。 両方とも事実を伝えているとすれば、会津藩の武士が東慶寺から主水の妻達を連れ去ったが、天秀尼の猛烈な抗議に折れて以下跋文の通りということでしょうか。結構繋がる。とすると『武将感状記』も全部が全部ガセネタという訳ではないということになりますね。黒川家は元藩主に遠慮してそう伝えたのかもしれませんが、いずれにせよ後世の文書しかないので真相は藪の中です。 ところで、三池純正先生の『豊臣家最後の姫―天秀尼の数奇な運命』ですが、読んでみました。
東慶寺の講演会が終わって
東慶寺の講演会が終わって、さぁ、どこで夕飯を食べるかな? 久ぶりに山美にでも行こうかな♪ 実はこの子は15の頃から知っているんです。まだ高校1年生でしたが、当時彼女の友達達が入れ替わりでこの店でバイトをしていました。そういえば、彼女達の成人式のスナップを撮ったことがあったなぁ。その写真をメールで送ったら別の常連さんがカレンダーにしてくれたそうです。 マスター:「もうセピア色になってんじゃねぇ?(笑)」 高校生だの成人式だのって、そりゃ何年前の話だって? それを口にしたら私に戒名が付いてしまいます。まあ根はよい子なんですがね。(ヨイショ、ヨイショ) 他の季節は北鎌倉・東慶寺 indexからどうぞ |