2013.11.23   韮山城址から蛭ヶ小島  

江川邸裏の韮山郷土資料館で地図を貰うと、願成就院、円成寺跡方向に韮山城址が。というかすぐ近所。韮山城って何か聞いた覚えがあるなぁ〜。そうだ、北条早雲だ!
向うの山が韮山城址です。行ってみましょう。

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やっぱり。

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私的には階段より斜面の方が歩きやすいので端っこを登ります。

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女子高生が走ってる。何部だかは判りませんが、みんなすれ違うときに「コンニチワ!」と。
よい子達ですねぇ。でも息が切れるだろうに無理して言わなくともと思ってしまいましたが。

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あの階段の方向に「韮山城址」の矢印が。でもこの場所も韮山城址なんだけどね。三の曲輪とでもしておきましょうか。

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山城としてはかなり良好に残っている方ではないでしょうか。ここは二の曲輪、 向うの高いところが一の曲輪でしょう。

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よい景色。

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この上が一の曲輪。言ってみれば本丸ですが、山城の時代にはあまり「丸」という言葉は使わなかったように思います。城なんかの本を読んでいたのは何十年も前の中学高校ぐらいのときですが。

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広さはないけど、山城ですから。

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その南側の先の尾根にも山城の痕跡がはっきりと。

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よい景色ですね。真正面の黒く見える小山が守山でしょうか? 
あの麓に願成就院と円成寺跡があるはず。今日の最終目的地はそこです。

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さっきの一の曲輪の南側の先の尾根にも山城の痕跡が。土塁で囲まれた場所です。

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下を見るときつい斜面。現在有名な城は、まあ大坂城を例外とすれば実際には戦場であったことはありませんが、ここは違います。秀吉の小田原攻めのときに、城兵三千数百に対して四万もの軍勢が取り囲み、それでも100日持ちこたえたとか。山城の山の部分に三千もの城兵が立て籠もれる訳はないので、裾の現在高校ななってる平地部分、お座敷とか塩倉と呼ばれる部分に主力がいたのではないかと思います。この斜面での戦いは無かったかもしれません。秀吉の戦い方は力攻めではないし。100日間毎日白兵戦を繰り広げたということではないと思います。ここを力攻めしたら落とすまでに相当の被害を出してしまうでしょう。

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韮山城址を反対側に降りて、 頼朝が流人だった頃の蛭ヶ小島へ。とその途中に私好みの家を発見! いつごろのものでしょうか。そんなに古くは無く、大正ぐらい? いや、判りませんが。

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で、蛭ヶ小島。蛭ヶ島、蛭島とも。でも、その名前の印象から加納川の中州と思っている人が多いみたいですが、このあたりに大きな川があったことはありません。多分湿地の中のちょっと高い、木の生えてるところぐらいの感じだったんではないかと。だいたいそれが此処であるという証拠は何にもありません。

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なんてことは知ってるけど、でもまあ韮山に来たならばここにも来ないと中性子、じゃないや、中世史学徒としてはねぇ。それに願成就院への通り道だし。この石碑は江戸時代のもので現在市の史跡だかなんだかになってるとか。

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だども、城山で時間を使ってしまったのでもう2時。歩いてもいけるけど時間の節約でタクシーを呼ぶことにしました。で、気が付いたんだけど、 本立寺スタートなら伊豆長岡よりも韮山の方が近かったのね。最初のタクシー代半分ぐらい損した。

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おっ、富士山が。 「甲斐で見るより駿河よい〜♪」ってね(笑)。ここは伊豆だけど。昔はお風呂なんて滅多に入れませんでしたからねぇ。えっ、もうこのネタ、使っちゃったんだっけ。フキフキ ""A^^;