2015.06.07  東慶寺・二人の和紙展講演会 

そろそろ時間か、というので「二人の和紙展講演会」の会場である書院へ

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講演会の前に、書院の玄関先では奥出雲の斐伊川和紙七代目の紙漉き職人井谷伸次さんの手漉き実演が。実演だけどどちらかと云うと実演付き解説です。おかげて和紙というものがどういうものかが良く解りました。

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この大きさが元々の紙の大きさです。紙が日本に伝わってから中世まで。秀吉の頃に一大技術革新があって、もっと大きな紙が漉けるようになりますが、でもおそらく江戸時代でも基本はこの大きさだと思います。「折り紙つき」なんて言葉が今でも通用しますが、その折り紙とはこのサイズの紙を上下に折り畳んだものです。通常公式文書はこのサイズ。その名残が卒業証書とか賞状です。

平安時代から少なくとも鎌倉時代では、手紙はこのサイズの紙を二枚揃えて上の紙に書く。つまり白紙を一枚付けて、その二枚を折り畳む。返事はその白紙に書いて使者に渡すと聞いた覚えがあります。

追記:何年か前に聞いた話なので、別な先生に確認を取りました。答えはそういう例が多いと。
そうじゃない例はどういうものかと再度聞いたら、返事に白紙1枚を添えてやはり二枚揃えにすると。
当時、紙は安いものではないのでそれが礼儀だったんですかね? 想像ですが。

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巻物はこのサイズの紙を糊でつなげたものです。 ところで「折り紙」は同じ手紙でも非公式な、口頭伝達と同じような位置づけです。『吾妻鏡』に頼朝が後白河法皇にクレームを付ける一件が記されていますが、角がたたないように「折り紙」にしたなんて記事があったと思います。

「折り紙つき」という言葉がいつ生まれたのかというと江戸時代です。これは高木先生に教わったのですが、骨董品の鑑定書を「折り紙」に書いたとか。そこから由緒正しい、あるいは保証されたものを「折り紙つき」というようになったんだそうです。江戸時代は平安・鎌倉時代とは違って非公式な様式という感覚は薄れたんでしょう。宝蔵に残る重文の古文書にも折り紙があります。え〜と、あっ、これですね。寺法書(拘置御奉書)です。松岡御所(東慶寺)から駆け込み女の村の名主に送ったものですから公文書です。時代の違いを感じますね。

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 宝蔵は撮影禁止です。この画像は記事のために許可を得て年末の宝蔵休館日に撮らせていただいたもの。

 上と下と字の向きが逆でしょ。ふたつに折って裏表に書いたからです。中身を平たくいうと「慈悲の寺法、古来より御免の寺法により駆込女を拘え置く。だからもうお前の妻ではない。解ったらさっさと離縁状を書け!」ということを松岡一老(院代)言葉として侍者が書いた奉書です。詳しくはwikipedia 東慶寺をご覧下さい。それを拡げたこの大きさが中世だけでなく江戸時代でも紙の基本的な大きなです。というような話の続きは翌週の「東慶寺・二人の和紙展」をご覧下さい。

ところでこの「二人の和紙展講演会」の講師は井谷さんではなく、高知県立紙産業技術センター所長の関正純先生。日本を代表する紙博士のひとりとか。東慶寺で講演をなさるのはこれが二回目ですが、思ったことをハッキリという方で、コーディネーターの稲生さんが講演前だったか後だったかに「役人がそんなこと云って良いのか」と笑いをとっていました。
どんなことを云ったのかって? 秘密です。(笑)

ただひとつだけ。よくテレビなんかで和紙の紙漉きを紹介するときに「紙の繊維が絡み合って美しい和紙が出来上がる」なんて云ってるけど、もちろん悪気は無いんでしょうが大間違い!
と仰っていました。繊維が絡み合ってしまったら表面で玉になってしまって均等な和紙にはならない。それは井谷さんの実演付き解説でも実演してくださいました。数メートル離れた肉眼でも解るくらいに不均一な塊が出来ます。

あと、中国と韓国の手漉きのビデオを解説して頂きました。でもこまりますね。洋紙ではないという意味では和紙なんですが、外国なので和紙とは呼べない。まあそのあたりは後々追記するとして先に進みましょう。

関先生の講演会が終わりました。

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このあと記念パーティ(講師懇談会)なんですが、その準備が始まる間、鈴木さんがギャラリーから例の(というのは昨日の連中向けですが)パネルを持ってきて和紙の色合いとかの説明でしょうか。

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段々と準備が奥まで及んだのでみんな一旦書院を出ます。

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でも私は書院玄関の外で撮影。

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こんなときにしか撮れないので。

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パーティが始まりました。司会はコーディナーターの稲生(いのう)一平さん。
まずは斐伊川和紙の井谷伸次さんと、そのすぐ近くでお酒を造っているきすき酒造の社長兼杜氏川本さんの紹介から。川本さんはまたこの会のために特別なお酒を持ってきて下さいました。おまけに今年はこの会用のブランド名まで付けて。「光伸」だったかな? 鈴木光典さんと井谷伸次のお名前から一文字づつ取ったとか。

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今日のお料理は「光伸」の酒粕を使っているとか。先代ご住職の奥さまがその説明を。

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そして「二人の和紙展」 の二人を揃えて、鈴木さんの音頭で乾杯です。

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で、本日のお料理がこれ。

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毎回そうですが私が一番食べたんだろうと思います。奥さまに挨拶するときはいつも「また食い荒らしに来ました♪」ですから。どれも美味しいのはもちろんですが、私が「うまい!」と思ったのはご飯。そうしたら、このご飯(控え目な混ぜご飯)は東慶寺の梅で造った梅サワーを使っているとか。
梅? 気がつかなかった。あっ、私の名誉のために申し上げますが、奥さまのお料理の味付けは基本薄味なんです。隠し味ぐらい。隠されたらわかりませんよねぇ。私がドンカンなのではありませぬ。(世間の声:「そ〜か〜?」)
それにしても梅サワーって焼酎でしょ。と思ったら奥さまの話はどうも違うみたい。梅酒の焼酎の代わりにお酢を入れるんだそうです。知らなかった。ちなみに私はおと年から東慶寺に対抗して梅干しと梅シロップと梅味噌を作っているんです。(世間の声:「真似してるの間違いだろう?」)

でも今日(6/18)自転車で3km走って梅を買いに行ったら青梅が昨日よりキロあたり200円近く値上がりしていた。298円だったのに、ショック。1000円損したと思うか1400円得したと思うか、微妙なところでございます。お前んちにも梅の木はあるだろうって? めんどくさいのでほっといて、落ちたのを生で食べちゃいました。生だと梅も杏もたいして味は変わりませんね。

そのご飯を食べながら沢庵を囓っていたら、ご婦人に「美味しそうな音、このお沢庵ですか?」と。「これ美味しいですよ♪」と云ったんですが、その沢庵は漬けすぎたものを水でちょっと塩抜きして、前述のきすき酒造の酒粕で漬け直したんだそうです。

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井谷さんに写真もやってるデザイナーさんを紹介してもらいました。そのデザイナーさんと話をしていたら「じゃぁ俺も奥さまに挨拶してこようかな〜」と。で、奥さまの処へ行って「こちらは本物のカメラマン。こっちは偽物のアマチア報道カメラマン。風格が違うでしょ〜(笑)」と云ったら、「最近サボってますもんね。ホホホ♪」と。痛〜! 東慶寺のフォトギャラリーに時々投稿しないことがあるんで。でも今は載ってますよ。(;^_^A アセアセ…

鈴木さんに「13日の和紙ツアーにまた来ますから♪」と云って、私は1時間半ぐらいで先においとましました。(世間の声:「あらかた食べ終えたからだろう。」)

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書院の中はまだ宴たけなわ。 これは書院の中門。

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パーティに出るのは、東慶寺のお料理を満喫したいというのもあるのですが、
もうひとつはこれです。普段はみられない東慶寺の夕暮れ、夜が見られる。

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これはいつも撮れるでしょうが、こんな時間まではいないので。

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実はこのあとまた蛍を見に行こうかとも思ったのですが、お酒も入っていたし「昨日見たからまあいいか」とそのまま帰ってしまいました。

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