常葉殿調査 巻参  大仏切通の鎌倉入り編  2015.12.06  

13:06
コヤギヤを出たのが35分とするとこの休憩まで約30分。長〜い登り階段以降で約20分ですね。
ところでこれはほんまもののやぐらです。連署が「でも中には何にもないね」と。

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あっちのやぐらには風化した五輪塔が沢山あるよ。
と云ったら連署が登り始めましたが、「危ない、これは止めとこ」と。

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それを見た悪の秘密組織さんは
「まったく、修羅場を潜ってない堅気衆は使えねぇなあ。こうやって登るんだよ!」と。

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でも悪の秘密組織さんはそこで空になったペットボトルを見つけて回収。
悪の秘密組織も小さな善行なら積むんだね。初めて知った。


「堅気」をバカにされると、心底堅気で真っ当な常識人である私もしゃくにさわり、
久しぶりに登ってみました。

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おそらくこの近辺に散らばっていたものを、いつの時代か、信心深い人が集めてここに収めたんだと思います。だって重ねてあるものの大きさがいかにも不揃いだし、中には火輪が二つ重ねてあったりするからです。

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切通状態にしたのは明治時代でも、すくなくとも平安時代後期には道だったんだろうと思います。何故ってこの切通の両側が同じ地名「深沢」ですから。いや、今でなく鎌倉時代の話ですが。長谷の大仏は鎌倉時代には「深沢の大仏」です。同じ在地領主が開拓したんじゃないですかね。例えば鎌倉権五郎

という話をしていたらおじょうちゃんが「深沢? あっ、建長寺の前で殺された人だ!」と。
当たりです。あの人は多分ここから西側の何処かの地頭だったんでしょう。

鎌倉七口」という呼び名は江戸時代の観光案内以来のもので、鎌倉時代にはありません。鎌倉時代にはここはそんなにメジャーな道ではなかったと思いますが。ただ、都市鎌倉の境界の外側なので、極楽寺やら化粧坂、建長寺が建てられたあたり同様に死体を放置する場所、場合によっては火葬して埋葬する場所。つまり世に言う「地獄谷」でもあったのだろうと思います。この五輪塔ややぐらはその名残でしょう。

現場で連署に「切通のこっち側の人が作ったんじゃないの?」と云いましたが、訂正致します。


修羅場を潜った悪の秘密組織さんと私が登ったので、悔しくなった連署も結局登りました。
そして下りるとき、一瞬体勢が崩れ、私は心の中で「よし、滑れ!」と叫んだのですが・・・

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無事に生還してしまいました。残念。

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13:16
ここからUターンです。

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行きと帰りでは同じ場所でも違った景色なんですよね。一粒で二度おいしい。(笑)

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13:20
おっ、ほんのちょっとは紅葉もありますね。

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13:25
お嬢ちゃんのためにストックやらロープやら持ってきたのは、以前ここにこんな柵やら階段は無かったからなんです。 スリル満点だったのになぁ。何でこんなもん作っちゃうんかなぁ〜。

お嬢ちゃん談:「危ないからに決まってるでしょ! これだったのね! あたしにミニスカはかせようとした理由は!」 わし:「うん」

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