常葉殿調査 巻五 常葉殿調査でやぐらへ 2015.12.06 |
14:18 「でもあそこは本当に北条氏常盤亭跡なんですかねぇ。可能性はあるんですが、実ははっきりしません。まさか一向堂の跡なんてことは。フキフキ "A^^;」 と書いた「あそこ」とはこの看板の立っている谷戸なんです。地図にもこの地点に「北条氏常磐亭跡」と表記されています。 でもねぇ。「国指定史跡・北条氏常磐亭跡」はこの看板の後ろの谷戸だけじゃなくって、この黒線で囲まれたかなり広い範囲なんですよ。つまり「このあたりだけどその中の何処かは解らない」と云うのが「国指定史跡」の見解。この地図の下(南)の道の北側全部が範囲じゃなくて、特に左(西)半分は虫食いになっています。 外れた部分は「北条氏常磐亭跡」の可能性は無いと国が判断したのかというと、そういうことではありません。この航空写真を見てください。
外れたところはもう建物が密集し今更発掘調査は無理。それに今有る建物を建てるときに遺跡面は壊されている可能性も大。そこはあきらめて壊されていない土地を早く保護しようというのがこの「国指定史跡・北条氏常磐亭跡」の意味です。とはいえ、この看板の後ろの谷戸で色々発掘されているのも事実。 ところで何故常葉殿なのかというと、太田康有の『建治三年記』十二月十三日条に「奥州為上洛、今日門出干常葉殿云々」とあるのがキッカケです。 wikipediaによると。
私は常緑樹の山で常葉山。その麓で地名の常葉。それにカッコをつけて常磐、常盤じゃないかと思うんですけどね。そういうカッコ付けの当て字は古文書に沢山あります。だいたい『吾妻鏡』の「吾妻」だって、意味としては「東(あずま)」で、「わがつま」ではありません。 地名(小字)に「御所之内」があるんですが、「おいおい、山内殿だって御所とは呼ばなかったぞ」と思ったんですが、連署によると『新編相模国風土記稿』では、吾妻鏡の康元元年の宗尊親王常葉第への来臨が誤ってつたえられ、「御所之内」という地名となったとあるそうです。なるほど。それなら話はわかる。親王将軍が来ていた数日間は確かにそこが御所です。「あやまって」というより「将軍様が来たとこだぜ」ってんで名前が残ったのかもしれません。
14:22 14:26 14:27 14:30 かなり立派なやぐらが。 しかも三つだけじゃなくて・・・ その脇の岩壁下にはほとんど埋もれた崩れかかったやぐらが。 こっちのやぐらは埋もれてはいるけどエッジがしっかりしてますね。 あの三つのやぐらは実は二階分で、その下には埋もれかかった、というよりほとんど埋もれたやぐらがちょこっと顔を出しています。 一見後期形にも見えますが、掘った当初は木の扉が表にあったのでしょう。横木を差し込む穴があります。 中央のやぐらには短い羨道が。やはり鎌倉時代のものでしょうね。 こうしたはっきりした遺構が残るのがこの谷戸の特長なんですが。でもねぇ、屋敷の奥にやぐらなんて私は聞いたことが無いんですよ。ほとんど寺と寺の所有の山です。例えばこの谷戸に持仏堂があった。それに付随して奥に供養のためのやぐらを掘ったとかなら解りますがね。 |