法隆寺03西院伽藍 三経院と西堂 2016.05.12 |
三経院(さんぎょういん)と西堂(にしむろ)。かつては僧房でしたが11世紀に消失し、現在のものは鎌倉時代の寛喜3年(1231)に再建されたもの、国宝です。 でもここはまだ三経院ではありません。 この右側。 こちらが三経院(さんぎょういん)。 この築地塀とあの門の向こうが西室(にしむろ)。こちらからは見えません。 三経院の妻戸(つまど)妻戸がずっと並んでいます。簡単に言うと両開きの木の扉です。なんでそれを妻戸(つまど)と云うかというと、寝殿造では寝殿の妻、つまり側面にこの両開きの扉が付いていたんです。このあと見に行く大講堂にそれがあれば説明しやすかったんですが、妻(側面)に出入り口はあっても、扉が付いていなかったんですよね。 何でここにその妻戸(つまど)ばかりズラッと並んでいるのかというと、ここが僧房だったから。ということで済めば楽なんですが、本当に僧房だった頃はひとつおきに妻戸(つまど)だったようです。戸には他に蔀(しとみ)というものもあって、このあと出てきますが、そちらは開け閉めが結構大変、雨でなければ朝開けて夜閉めるという雨戸のようなもの。なので普通の意味での戸は平安時代後期までこの妻戸(つまど)でした。 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、引き違いの木の戸、舞良戸(まいらど)が普及します。しかしそれは上層貴族にとっては格下の下品なもの。この妻戸(つまど)は格が高いと認識されています。この三経院と祭室(にしむろ)は鎌倉時代に再建されたもので、もう舞良戸(まいらど)は浸透していたはずですが、格の高い建物との扱いだったのでしょう。 実際に中の部屋を使うときには開け放っていたと思います。でないと中は真っ暗でお経も読めません。 この肘木(ひじき)は鎌倉時代の絵巻によく出てきます。斗なしの場合が多いですが。 大斗肘木(だいとひじき)この先組物の話がしょっちゅう出てきて、おまけに複雑になるので、いまのうちに基本だけご説明しておきましょう。よく組物を斗栱(ときょう)ととも云いますが、その最小単位がこれです。まあ次ぎに出てくる舟肘木(ふなひじき)の方が単純なんだけど、あれは斗(ます)を使わないので斗栱(ときょう)とは云いにくい。 斗(ます)とは柱の上に乗っている四角い箱のように見えるものです。コの字形に彫り込んであって、そこに肘木(ひじき)は嵌め込まれます。屋根の垂木(たるき:こちらに向かって並べられている木)の下の横木を桁(けた)と云います。その桁を柱と大斗(だいと)と肘木(ひじき)がT形になって支えています。肘木(ひじき)はそのT形の上の横木です。なんでこんなことをするのかというと、桁にかかる屋根の重さを支えるためです。 柱だけじゃダメなのかって? 四枚の襖の入る八畳間の鴨居はそんなに太く無いって? 先の二間(ふたま)は生まれて初めて見る蔀戸の実物。 あっ、本気にしないで下さい。もしそうなら私は幽霊ということになってしまいます。 そして南端の庇だけ檜皮葺です。 舟肘木(ふなひじき)こちらは正面から。この斗を使わない肘木が絵巻で良く見るものです。舟肘木(ふなひじき)と云います。 といっても絵巻では屋根に隠れて普通は見えないのですが、例えば『春日権現験記・上』の22ページなど。これは関白藤原忠実の屋敷なので最高級の屋敷のつもりのです。肘木の長さが短いじゃないかって? 絵巻の描写は記号です。 三経院(さんぎょういん)を南から。 三経院では檜皮葺は正面の庇だけですが、屋根も檜皮葺なら寝殿造の対(つい)のようです。 実は廻廊の東側の聖霊院もほぼ同じ造りなのですが、そちらは蔀を上げて御簾も見えるので更にそっくりに見えます。 ただこの檜皮葺の庇は再建当初からあったのか、それとも再建後に追加されたものなのかよく判りません。もちろん私に判らないだけで本当は判っているのかもしれめませんが、現時点では私は後付けのように思えます。つまり切妻屋根の僧房の一部をお堂に流用したときに付け加えたような。 檜皮葺は二段になってますね。 右下の簀子縁が一段下がっているあたりから向こうが西室だろうと思うのですが。 「次ページ」の順番だと4ページも後なんですが、内容的には聖霊院とセットで見ていただけると。建物は西も東もほとんど同じ。でもあちらでは蔀戸が開いています。 update 2016.06.04 |