法隆寺05西院伽藍 平安時代の大講堂 2016.05.12 |
廻廊と大講堂のつなぎ部分です。右が大講堂。実は法隆寺に来たのは飛鳥時代の建物を見たいからではなく、それよりも伝法堂とこの大講堂だったんです。あとは割材と槍鉋仕上げと槍鉋そのもの。変ですか? 何故この大講堂かというと、立てられた時代が正暦元年(990)と寝殿造の推定初期と一致し、建物の構造も一致すること。そしてちょうどこの上、庇の部分が野屋根と化粧屋根の二重構造になっていて、かつその後の時代に比べるとまだシンプルで桔木も使っていない。まあ屋根は瓦ではありますが、寝殿造をイメージするには良い材料になるかと。あっ、建築当初には桔木は使っていなかったけど、今は入っているそうです。 野屋根と化粧屋根天井の断面図です。左側が母屋、右側が庇で、母屋には格子天井が。そして庇には天井がありません。屋根裏の垂木が見える。でもこの垂木は化粧垂木なんですね。本当の垂木(野垂木)はその上に隠れています。化粧垂木といっても単なる飾りではなく、この断面図で判るように、束で野垂木を支えていますから、構造材ではあるんですが。この構造を「野屋根」とか「野小屋」と呼ぶんですが、この大講堂はその野屋根が屋根全体に確認される最古の事例なんだそうです。
このあと東院伽藍の伝法堂にも行きますが、あれにも初期的な野屋根があったと推定されています。 現存するのに何故推定なんだって? 私はその論文を読んでいないのでわかりませんが、屋根って一番痛むのでしょっちゅう修理されるんですよ。なので初期の姿は柱に残る痕跡などから推測するしかないんです。おそらく現在の伝法堂は野屋根構造なんでしょう。 桔木(はねぎ)ところで、建物の中で屋根は一番傷むところです。そして屋根の技術は鎌倉時代に飛躍的に進化します。平安時代末期から始まっていたかもしれませんが。そのひとつが桔木(はねぎ)です。少なくとも平安時代以前に建てられた建物で、建築当時の屋根がそのまま残っているものなど無いと思っていた方が良いでしょう。 上の図は解体修理時に判った部材の痕跡からの復元図でしたが、下の図は日本建築学会編 『日本建築史図集』 (新訂第三版 2011)にある現状の断面図です。上の断面図と下の断面図で庇から軒先の部分を見比べてください。野小屋の中に太そうな木が一本追加されています。これが桔木(はねぎ)です。現在残っている平安時代以前の建築でも軒先の分厚いものにはこれが入っていると思ってまず間違いはないでしょう。雨の多い日本故の深い軒先を支えるために飛鳥時代から様々な工夫が重ねられてきましたが、この桔木(はねぎ)はその決定打といっても良いかと。 野小屋の中に隠れるので見かけなんかどうでも良いと、他の場所には使えないようなローコストな曲がりくねった丸太が使われます。古建築の屋根の修理で野地板や垂木を外すとこれが現れます。まるで大蛇がのたくっているよう。 どういう役割かというと、梃子の原理で軒先を跳ね上げるんです。だから桔木(はねぎ)。梃子の支点は側柱(▲)、つまり軒先に一番近い柱の上です。梃子でエイと力をかけて押し下げる方(↓)が母屋柱、つまり内側の柱の上です。何の力で押し下げるのかというと、母屋部分の屋根の重みです。それによって軒の先端は跳ね上げられる、垂れ下がらないと。その桔木(はねぎ)は野小屋の中に隠れて見えませんが、現在我々が見るこの講堂の化粧屋根の向こうにそれが隠れているはずです。 柱間寸法上の断面図で柱間(はしらま) を測ってみましょうか。方法はA4に印刷してノギスで測りましたが1mm以下は目分量です。断面図にも私の測定にも誤差があると思いますが。庇の幅が13.7尺(4m強)、母屋が30.5尺(9m強)、二間だから一間だと15尺強もあります。庇の虹梁(こうりょう)の中央下で20尺(6m)ですか。 いや、平安時代の入母屋造ということで寝殿造のスケール感を養うために見に来たんですが、全然参考にならないことが判りました。デカすぎ! このあと食堂(じきどう)や伝法堂も測りますが、この講堂は圧倒的にデカイ。でも木造でもこれぐらいの大きさは作れるということは判りました。 組入天井蔀(しとみ)のことを格子とも云い、それと同じなので私はこれを格子天井と呼んでいましたが、建築史的分類は組入天井だそうです。格子天井で良いじゃん、と思って検索してみたら、出てくる画像のほとんどは格天井(こうてんじょう)。これはまずい。でも奈良・平安時代の天井はほとんど全てこの写真の形です。もっとも平安時代末までは天井が貼られるのはこうした寺院ぐらいしかありませんでしたが。 ちなみに格天井(こうてんじょう)とは二条城書院の天井のようなもので、豪勢に絵なんか描かれたりします。 母屋の梁は直線? いや、本当の梁は組入天井の上ですので見えません。柱の上に大斗が直接乗り、皿斗がありません。七間四面の母屋庇構造にしてはこの西側の柱はおかしいですね。西に一間(ひとま)増改築しています。 出三斗(でみつど)右に2つ、左にひとつの斗拱(ときょう)はありますが、右に2つは平三斗(ひらみつど)です。左のひとつはそれと形が違いますよね。平三斗(ひらみつど)は肘木(ひじき)が一本ですが、左のものは肘木(ひじき)二本が十字に組まれ、それぞれが三つの斗(ます)、と言ってもひとつは共用で数は五個ですが、それを使って縦横の横柱、桁と梁を支えています。これが出三斗(でみつど)です。このように普通は平三斗(ひらみつど)で屋根を支えている建物でも角は横柱が交差するので出三つ斗(でみつと)になります。 角じゃないじゃないかって? 実はこの大講堂は桁行を一間(ま)増築しているんです。なのであの出三つ斗(でみつと)は元々の母屋の隅なんです。 ところで上のトリミングで気が付いたんですが、大斗(だいと)の上の肘木(ひじき)の上に三つの斗(ます)があるところまでは普通なんですが、その上に更に肘木(ひじき)が乗ってますね。肘木(ひじき)の二段重ね。上の肘木(ひじき)は長さが下のものの倍近くに見えます。母屋部分の屋根は重いので桁を守っている? それとも高さ稼ぎ? 庇の側柱の上はこうはなっていません。初めて見ました。 平安時代の虹梁庇部分の梁は虹梁になっています。
間斗束(けんとづか) |