法隆寺08西院伽藍 食堂と細殿 2016.05.12 |
綱封蔵(こうふうぞう)は二つの蔵がひとつの屋根で覆われている変わった蔵です。平安時代前期のものとか。 二つの蔵の間が吹き抜けになっていますが、馬道(めどう)とは云えませんね。馬は通れません。扉はその吹き抜けの方に付いています。 ちょっと変わっているのは土台になる柱の太さ。近づけないので良く判らないのですが、あの太い柱はあくまで土台で、蔵の建物はその上に置いてある感じです。建物の柱はあんなに太くない。どうなってるんでしょう。さっぱり判りません。
ちなみに食堂(じきどう)は奈良時代の8世紀中頃、細殿は鎌倉時代の建物です。ただ、両方合わせて奈良時代の双堂形式を伝える重要な建築です。現在の細殿は鎌倉時代のものですが、きっとその前の様式を踏襲して建てたのでしょう。でも西側からはあまり良く撮れません。垣根はあるし立木もあるし。 あっ、築地♪ 大宝蔵院を出たら食堂(じきどう)の反対側に。良いなぁ、あの梁の構造。 おっと、先走りました。奈良時代の「法隆寺伽藍縁起井流記資財帳」(747年)によれば、この建物は食堂(じきどう)ではなく、「二口政所屋」の大きさに相当し、そこでの食堂は現在の大講堂の前身のようです。「二口政所屋」の「二口」とは細殿と合わせた双堂の意味でしょう。 「政所」は公家社会なら公卿以上の家の家政機関、財政その他を司る事務機関です。奈良時代の法隆寺がどれぐらいの封戸(財源)を持っていたのかは判りませんが、これだけの伽藍ですから並の公卿よりは大きい財政規模だったと想像できます。ここはそうした財務の管理事務所だったということになります。でも当時は二棟の屋根がつながれて使用されていたそうですから、当時としてはそうとうに大きな事務所ということになりますね。でも軒をつないでって、どうしなってたんでしょうね。 屋根は奈良時代当時は一重ですが、軒先は食堂の方は飛檐垂木で跳ね上げ、細殿の方はそのままのように見えます。 食堂の方は現在も桔木(はねぎ)は用いてはいないようですが、野小屋、つまり野屋根と化粧屋根の二重構造に改造されているようです。平安時代以降の修理でしょう。屋根は最初に痛むところなので、何度も修理され、建築時の姿は解体修理時の過去の痕跡調査から推測するしかないというのが実情です。細殿の方は小さいのと、そもそも鎌倉時代の建築ですから、飛檐垂木も使っていないということは野小屋構造、つまり化粧屋根は使われていないと思います。あくまで画像で見る限りです。正確なところは図面が無いので判りません。あっ、図面はもってたわ。では断面図を見てみましょう。 ありゃ、食堂は桔木(はねぎ)が入ってるわ。鎌倉以降の修理では単廊を除いて必ず入れると思っていた方が良いかもしれません。しかし野屋根の傾斜も変えずによく桔木(はねぎ)を入れられたなぁ。と妙なところに感心。 柱間寸法柱間(はしらま)は食堂の母屋が7.5尺(講堂は15尺)、庇が7.2尺(講堂は13.7尺)、庇の虹梁(こうりょう)の中央下で地面から11尺(講堂は20尺)。まあ講堂と比べるまでもなくだいぶ小さい建物なんですが。ちなみに細殿の柱間(はしらま)は13尺(約4m)。ただし写真でも判る通り二間の母屋ですから半分の6.5尺です。 それにしても細殿が鎌倉時代の建物だということは木鼻(きばな▲)や貫(ぬき▲)で判りますね。後で出てくる転害門のように鎌倉時代の修理でということもあるんですが。 それにしてもすっきりした良い建物ですね。
嗚呼、望遠レンズに付け替えてもっとアップで撮ればよかった。まだ東院伽藍が残っているので気が急いていたんです。 遠足に修学旅行の生徒さん達が沢山。 おっ、築地塀の修復が始まるようです。パイプじゃなくて昔ながらの丸太を組んで足場を作っていますね。ちょっと嬉しい。 築地塀のあの門の中がトイレです。 築地塀の角。絵巻で良く見ますが、これは本物。 ここはたばこの吸える唯一の休憩所。 一息ついて東院伽藍に向かいます。 おっ、遠足の小学生?
update 2016.06.02 |