法隆寺13東院伽藍 夢殿の廻廊と礼堂 2016.05.12 |
11時35 分。夢殿の郭内に入りました。おっ、小学生の遠足? でも廻廊からです。 時代が下っていると云っても、東院伽藍自体は奈良時代初期なんですが、この廻廊自体はもっと後だと思います。礼堂が鎌倉時代だから同じ頃じゃないですかね。重要文化財になっているようですから調べてみましょうか。あっ、「名称:法隆寺東院廻廊、棟名:西廻廊、時代:鎌倉前期、年代:嘉禎3、西暦:1237」とあります。東廻廊も同時のようです。 あちらに見えるのが礼堂です。 「法隆寺東院礼堂、時代:鎌倉前期、年代:寛喜3、西暦:1231」二重垂木で野垂木も角材、丸材ではありません。上に乗る飛檐垂木があの長さということは、中に桔木(はねぎ)が入ってる? でも縁の厚みはそんなに無いので、端までは届いていない初期の形かもしれません。いや判りませんが。 廻廊の連子窓は、太さが揃っていないですね。今拡大して確認しているんですが、やはり割り材のようです。綺麗な角材ではありません。 礼堂(らいどう)には蔀戸が。蔀(しとみ)って、上下同じサイズかと思ってたら上の方が大きいんですね。絵巻には跳ね上げた蔀はえらい細く描かれることがありますが。 こんな風に。 やや、あれは! 釘でしょうか? 釘ですね。えらい太い。そういえばこの礼堂には釘隠しがありません。そう云えば、あの釘隠しは唄(ばい)とも云うんですが、「乳金物」とも云うそうです。 確かに云えてる。唄(ばい)じゃ何のことかわかんないし、「饅頭金物」とも云うけど、つまらん。当サイトでは「乳金物」を採用することと致しましょう。おや? 執権奥様からテレパシーメールが♪ 話を蔀(しとみ)に戻して。半蔀の上は上部が蝶番で長押(なげし)にぶら下がり、下を持ち上げて軒先に下がった金具に引っかけるんですが、下部の半蔀はこのように柱に打ち付けた溝に填めています。下も開放するときには蔀を持ち上げて引き抜き、別のところに片付けます。ものにもよりますが、これなんかかなり重い。半蔀の下の開放はそうとうの重労働です。 午後の部の室生寺に出てきますが、一間脇にのけるだけでもこうですよ。昔はこんなもの無いですから二人がかりでえっちらおっちら運んだんでしょうね。 東側の廻廊です。作られたのは西側と同じで鎌倉時代の1237年です。
梁間は四間(よんま)ですね。文化財データベースにも「構造及び形式等:桁行五間、梁間四間、一重、切妻造、本瓦葺」と。切妻屋根だから五間二面なんでしょう。 しかしこの蔀、開けて中を見せてくれればいいのに。ところで向こう側に東院南門(不明門)があったらしいのです。東院伽藍の構成としては、その南大門を入り、この礼堂が中門を兼ねて、夢殿が塔、その北の舎利殿・絵殿が金堂、夢殿を挟むこの礼堂と北の舎利殿・絵殿をつなぐ廻廊内が聖域で、その北側の伝法堂がその名の通り講堂という構成でしょう。講堂は僧が修行する場ですが、この廻廊内には通常は入れないと。この礼堂は夢殿の聖徳太子を拝む場ということでしょう。 東院伽藍の目的は伝法堂と唐門だったので、この礼堂すら関心外だったんですが。文化財データベースには東院南門(不明門)は「三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺。時代:室町中期、年代:長禄3、西暦:1459」と。東院の南大門より20年ぐらい後ですね。 東廻廊です。 11時43分。あちらに見えるのが舎利殿・絵殿です。 造り、というか建築技法としては礼堂と同じに見えます。大工は礼堂と同一人物か、同じ大工集団の一世代前ぐらいでしょうか。舎利殿・絵殿はひとつの建物なんですが・・・ 中央が吹き抜けで、その北の伝法堂に渡廊でつながっています。 その東側が舎利殿。 西側が聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められた絵殿です。 11時56分そろそろ中央の夢殿を見ていきましょうか。
update 2016.05.26 |