2016.06.26 泉ヶ谷・東林寺跡のやぐら |
めずらしく北鎌倉に寄らずに鎌倉駅に直行。それも西口から外へ。 向かった先はここ浄光明寺。あっ、雲水さんがではなくて私がですが。 実は今日「鎌倉の文化財、その価値と魅力〜比較研究から見えたもの〜(中間報告)」 連続講座第4回「やぐらの広がり」というのがあったんです。連署に教えてもらったんですが、連署は抽選に外れて私だけ参加。先着順にすれば良いのにねぇ。 まだ時間があるなぁ、と境内を見渡したら・・・、おお、もう蓮の花が♪(世間の声:ちゃうわい!) でも似てません? (世間の声:蓮が木に咲くか!) おっ、萩がもう咲き出してる♪ これはほんものですって。 ここのやぐらの中のお墓には変わったお墓があります。墓石に鳥居が彫ってある。
今日は晴れなので阿弥陀三尊像が拝観出来るとか。 まだ時間があるので表をぶらり。するとよさげな石垣の手前に鎌倉十井のひとつ「泉の井」がありました。泉ヶ谷の「泉」はこの泉なんでしょうか? 時間になって受付を済ませると、私は第一グループ。三つのグループに分けて別々に見てまわるようです。第一グループは最初に東林寺跡へ。えっ、あそこ見られるの? ラッキ〜! 浄光明寺南側対面のこの谷戸は、東林寺というお寺があった跡なのですが、そこにあるやぐら群を『鎌倉市史 考古編』では清水寺谷やぐら群と。何で? って思いますよね。いつの時代かに清水寺というお寺があったのかもしれませんが、良く判りません。それにしても亀ヶ谷の中の泉ヶ谷の中の清水寺谷なんて、ややこしいったらありゃしない。フキフキ "A^^; 右下の方が逗子市教育委員会の佐藤仁彦さん。ここのやぐらの説明をして頂きました。 その一、船底天井のやぐらです。やぐらって普通四角い箱なんですよ。現在天井が平らに見えないものが多いのですが、それは天井の岩が剥離して落ちたから。船底天井というのは化粧屋根裏のことです。昔は寝殿造のような貴族の住宅でも平天井はありませんでした。古いお堂には天井の無いものもあります。特に礼堂の方には。それを模したんでしょう。やぐらは墓穴ではなく、お堂の代用だという証拠のひとつでもあります。 でもここが元々船底天井だったと思われるのは剥離したような跡がなく綺麗な斜面であることと、あとは奥の壁もそうなっていることです。その奥の壁には柱を模したような彫り込みが。実際に柱が埋め込まれていたのかどうかは判りません。 その隣にはもっと大きなやぐらが。天井はこちらも船底のように見えるんですが、奥の壁が正方形なことから天井が剥奪したものだろうと。 もうひとつ。この二つのやぐらには羨道が無いですよね。でも倒壊して無くなってしまった可能性もあります。佐藤さんのお話では、羨道の無いやぐらでも発掘調査で地面を掘ってみると、羨道の跡が出てくることがあるそうです。 その奥の面には舟形天井の龕(がん)が。 中に置いてあるものは後付けですね。だって宝篋印塔の部分と五輪塔の部分が混じっていますから。骨壺が置かれていたのか、仏像がおかれていたのかは判りません。 こちらには四角い龕。 この東林寺跡だけで十近くのやぐらがあります。右は背は低いけど、大きなやぐらですね。 中を覗くと奥の中央には龕(がん)が。 そしてこの谷戸の一番奥にあるのがこのやぐらです。清水寺谷やぐら群の中で一番話題になるもの。アパート状の龕(がん)です。ここまで来ると龕(がん)と呼んでよいものかと。 類似の例は網引地蔵から更に上に登った冷泉為相墓と云われる宝篋印塔の後ろのやぐらにあると。そうだっけ、と思って昔撮った写真を眺めてみたら、そうなっていました。ただ、横一列で、こんなに上下二段ではないです。 もうひとつ。銭洗弁天のトンネルの上のやぐら群の堀方がなんとなく似てるんですよね。私はあれを見上げて前面はコンクリートで補強してるんじゃないの? と思ったんですが。これのことです。 ここ東林寺跡を見てから、あれ(上の写真)はコンクリートじゃないのかも、と思うようになりました。いや、まだ「かも」で疑惑が解消された訳ではないのですが。 |