鎌倉オフ Vol.6 安養院の石塔から八雲神社 2016.07.18 |
安養院寺伝では開山が願行房憲静、開基が北条政子と。そんなバカな。北条政子の没年は嘉禄元年(1225)7月11日。願行房憲静は建保3年(1215)年の生まれ、まだ10歳です。おまけに泉湧寺の月翁智鏡について北京律の戒法を学んだあと、意教上人頼賢に東密を学んだ、いはば戒律と東密の兼学僧で、北京律の中心、泉涌寺の長老になった人です。そしてここは「善導寺」と言う浄土宗の寺で名越派の本山でした。どうも浄土僧で建治2年(1276)没の願行房円満と混同されているようです。 「茨城県立歴史館報」10号で提禎子氏が「同じ房号を持つ憲静と円満の伝が混同するようになったのは『律苑僧宝伝』の記載あたりからではないか」と指摘されているそうです。 北条政子と願行房円満でも年代が合わないですが。その理由は1333年の北条氏滅亡の時に、この大町付近はかなりの激戦地で善導寺は焼失。同じく焼失した長谷の近くの旧前田侯爵邸のある笹目ヶ谷の長楽寺と合わせて再建し、安養院としたので、両方の寺伝がゴッチャになっちゃったんでしょう。「安養院」は北条政子の法名です。安養院殿如実妙観大禅定尼。でも安養院を名乗ったのは北条氏滅亡後ですから。 あっ、蓮。 ここにもあったんだ。 鶴岡八幡宮の蓮とも光明寺の蓮とも違いますね。 安養院の石塔その本堂の裏に鎌倉最古の宝篋印塔があります。 デカイ。 名越派と云うのは光明寺・良忠没後に門下の中で正統性をめぐって分裂が生じたためです。その論争の代表選手がここの尊観と、白旗派の派祖として今日ある浄土宗の基礎を作ったとされる良暁で、両派の論争は明治時代まで続いたとか。 石塔な方々はこういう花弁の形からも年代を読み取るそうですが、私には解りません。 『石造物が語る中世職能集団』 p.90 には「箱根山宝箆印塔では基礎に直接格狭間を配していたのを、反花座を設けてその下部を二区に分かち、そこに格狭間を配するように改めている。そして、基礎は一区に分かたれるが、内部には文様がない。これは心阿が創出したデザインだったようだが、関東における宝箆印塔の基本的意匠としてその後ながく定着した。」とあります。心阿の子の光広(法名)は、覚園寺に二基の大型宝鑑印塔の造立を行っています。それが大蔵派の足跡の最後ですね。 俗に云う北条政子の墓その左には俗に北条政子の墓とされるものがあります。「俗に」というのはここの半分の前身である長楽寺に政子が葬られたなどという記録は無いからです。もちろん寿福寺も同様。というか寿福寺の場合は、あのやぐらがそう云われるのは江戸時代の後期の『鎌倉攬勝考』からです。で、実際の記録はというと『吾妻鏡』を読む限り勝長寿院。あと藤原定家の日記『明月記』には骨(の一部?)が百ヶ日を目処に高野山にも送られたことが記されています。 じゃぁこれは何なの! ということになりますが、北条氏滅亡後にここが安養院を名乗った時点で、供養塔を建てるということは有りそうに思えます。笹目ヶ谷の長楽寺時代の供養塔かもしれませんが、しかしその造立は14世紀でしょう。政子が死んでから1世紀近く後です。隣の「徳治3年(1308)」の銘があるものが鎌倉でもっとも古い宝篋印塔とされているんですから、それより古い訳が無いじゃないですか。 もうひとつ古い宝篋印塔が有るんですが、これは何でしょうね。記録がありません。 八雲神社江戸時代にこの神社は「松堂祇園社」「松殿山祇園社」とも呼ばれていたことから祇園天王社(現八雲神社)は確かに鎌倉時代初期には既に存在していたんだろうと推測されます。 『吾妻鏡』のそれらしきものは安貞2年(1228)7月16日条です。「松童社の傍らより失火出来」と。 とっても強い武将であった新羅三郎義光はこのでかい石をお手玉にしたと。まあよくある話です。 あの向こう側の屋根の左端はなんとお岩さんが。 公方の話では本物のお岩さんは行方不明になっているので、ここに来ていても不思議は無いと。 その更に左には古い石厨子が。 ぼたもち寺祇園天王社からちょいと行くとぼたもち寺が。常栄寺というんですが、「常栄寺」より「ぼたもち寺」の方が大きく書いてある(笑) 悪の秘密組織さんがうろ覚えで「まんじゅう寺」とか「あんころもち寺」とか云うたびに私が「ぼたもち寺です!」と。「ぼたもち」に思い入れがあるのかって? 有ります。大好きです!(笑) 以前に自転車乗りの集団を案内したとき「あそこのぼた餅は美味しいの?」と。 他の季節は鎌倉の寺院と神社index・安養院からどうぞ |