建築史・京都編 建具の宝庫・祖師堂は・・・ 2018.04.22 |
祖師堂建具の宝庫・祖師堂は工事中です。それは去年から知っていました。でも行ってみましょう。
門を入って左側にデッカイ亀が。 ん? 亀? 中国の神獣でしょう、多分。
こちらはウィキペディアにある工事前の姿です。この写真は北側からでしょうね。 本来の大師堂、つまり後堂は左端に屋根の妻を見せている部分です。南面した東西棟で、それが最初の部分。南北朝期の康暦2年(1380)建造で五間四面で、南面の階、側面の妻戸の位置などは寝殿造と同じ位置です。その範囲の柱列はほぼ旧来の構造である母屋庇、もうちょっと正確に言うと、側柱(かわばしら)と入側柱(いりかわばしら)の構造に準じているのですが、部屋割りは母屋庇の構造では無くなっています。ただ、今の平面図を見る限りですから、創建時の姿は判りませんが。 こちらはその後堂の南面西端だったと思います。 この明障子はだいぶ後のものでしょうね。ハッキリとは知りませんがそんな気がします。 今年の12月まで屋根の檜皮葺の葺き替え修理だそうです。来年には先ほどのような姿が見られるはず。これは後付の中門の先端の妻戸です。後付部分ですが、後付と云っても同じ南北朝期で僅かに10年後です。 シンプルな蟇股(かえるまた)ですね。 好き♪ ところで、この上下の画像がわかり易いのですが、柱は丸柱です。この建物が建てられたのは南北朝期ですが、飛鳥時代から室町時代中頃までは上級の住居は基本丸柱です。 こちらはその左側、つまり北面です。 本来部分の南面外観は見られませんでしたが、「中世建具の宝庫」の建具はしっかりと見れたということで良しとしましょう。 この唐門は大師堂の東北門だったかな?
その後、宝物館で『東寺の建造物(古建築からのメッセージ)』という図録を買いました。宝物館の入館料は500円だったのですが、セットの拝観料は1000円と。セットってあと何処なんですか? と聞いたら観智院と五重塔だと。なのでセットで買うことに。 北大門北大門の内側。観智院はこの外にまります。 こちらは外側。 この門はいつの創建かというのはちょっと難しいですね。不明ということでは無いのですが。鎌倉初期に建てられて、文禄の大地震(1596)で倒壊。その後慶長10年(1605)前後に倒壊したときの材を極力用いて再建されています。なので基本的な姿は鎌倉時代のものですが、全体的な姿は桃山時代ということに。 前述の『東寺の建造物(古建築からのメッセージ)』という図録は「東寺諸門修復記念」だけあって、諸門修復時の写真が沢山載っています。屋根を一皮剥いた野垂木や飛檐垂木(ひえんだるき)の写真などそうそう見られるものではありません。この図録は大きな収穫でした。 観智院北大門の外に堀があり、北大門から見て右側に観智院が。 観智院のことは知らなかったんですが、こちらも初期書院造の典型とか。 ただ物知り顔のおじさんがいて、それを武者隠(シークレットサービスが控える処)だと。 本堂との屋根の継ぎ目。作合で良いのでしょうか。雨水を受ける桶(雨樋)があります。 室内は撮影禁止だけど庭ならとガードマンの方が他のお客さんに云っていたような。 室内撮影禁止の真意は屏風絵のストロボによる劣化防止、それは判ります。この写真はグレーゾーン。しかし破風(はふ)が写らない。(泣) ところで、先ほどの祖師堂では柱は丸柱でしたが、この観智院では角柱ですね。慶長10年(1605)の建立で、桃山時代の典型的な書院造りの建造物として国宝に指定されていまずが、丸柱から角柱への変化は寝殿造と書院造の違いのひとつです。私は製材用の鋸の普及に関係しているのではないかと思いますが、証明する手立てはありません。 これはアウトかもしれないけど許して下さい。 ほとんど鉋の削りかすぐらいに薄い板を編んでいます。 外観も屋根にか撮れません。恨めしやぁ・・・。(泣) といっても、間取りから見ると東西棟に見えるんですが、でも屋根は南北棟なんですよね。それ以外にもここの平面じゃ初期書院造の説明には使えないか。そう思えばそれほど悔しくはない。 |