大倉亭現地説明会(1) 鎌倉歴文館から二の鳥居へ 2019.08.16 |
今日は12時13分に鎌倉着です。 世間の声:まだ直してないのか! 本日の待ち合わせは1時。それまでにいつものロンディーノで昔なつかしナポリタンで腹ごしらえをと思ったら満席。なんだって〜! しかたがないので御成通りを歩いていたらラーメンとつけ麺だけのお店が。そこで腹ごしらえにしました。美味しかったですよ。日高屋より高かったけど。 世間の声:何処の店だって日高屋に比べたら高いだろ! 文学部系学会の某先生から時間通りに「着いた」と電話が。でも西口に行ったら姿が見えない。まさかと思って携帯に電話したら東口に居ると、「え〜、西口って云っといたじゃない!」 致し方の無いこと、古文書の世界では西と東は判読が難しいので御座います。 でもあそこに行くのにもやい工芸に顔を出さない訳にも。それに夏場は熱中症対策に小まめな水分補給は必要。というのでちょっとだけ顔を出して、廻りを見渡したら沖縄の陶器が中心。 世間の声:時間が無いなら寄り道なんかすな! しかしそこは転んでもただでは起きない受領のようなわたくしで御座います。やぐらの現代的利用方法を御覧に入れ・・・
大小の鄙びたトンネル(画像は小の方)を潜って、人とは全く違うアプローチで歴文館へ。 世間の声:まったく、へそ曲がりなんだから! 歴文館の正式名称は鎌倉歴史文化交流館と云うんだそうです。 でもここが歴文館になってからは始めて来た。でも建物は変わってない。なんで? と思ったら赤尾の豆単で有名な旺文社の赤尾好夫氏の邸宅が鎌倉市のものになって、その建物を殆どそのまま博物館にしたんだとか。いや、今の今まで赤尾好夫氏の邸宅は現在参道のようになってる方で、こちらは別物と思っていました。だって昔、もやい奥様に「あれってなんなの?」と聞いたら「新興宗教の本部らしいですよ」って云ってたんですよ。違うじゃん! 最初に目を引いたのは元弘三年鎌倉滅亡に関わる日付の掘られた五輪塔の地輪でした。本物だって。 釈迦堂切通近くにかってあったやぐら群が宅地開発で切り崩されているのを大三輪龍彦氏が発見。その造成地に火葬骨とともに転がっていたのがその地輪でした。 調べてみたら『鎌倉市史考古編』ではなくて大三輪龍彦氏の『鎌倉のやぐら』(pp.84-87)でした。その造成業者はまもなく倒産したとか。 北条一門の祟りなのか、それとも鎌倉考古学者の恨みなのか、そもそも因果関係があるのかどうかは定かではありませんが。
鎌倉石の切断面は明らかに近代のもの。しかしあの穴は? やぐらには見えませんねぇ。掘られたのは中世だとしても、岩からしみ出る水の採取場だったのかも しれません。寺院あとにはよくあります。浄智寺にも宝戒寺の裏手にも海蔵寺にも。その浄智寺型の可能性も。いや、あくまで館内から見た範囲での感想に過 ぎませんが。そのうちゆっくり見にいかないと。 あれはやぐらじゃないですね。聞いてみたら岩崎家の別邸だった頃のものではないかと。
これはやぐらでしょう。その前面を切り取った残りかと。2〜3mは削っていそう。
そしてお帰りは参道から。 普通の人はここからやってきてここから帰るのですが。でもここは古い日本家屋が建ってたんですよ。まあ塀があるので屋根しか見えませんでしたが。てっきりこっちが赤尾の豆単の家かとおもってた。確かに工事は両方一緒に始まったんで、あれ?とは思ったのですが。
もやいの帰りはお約束のここ。古賀邸です。 おや、強風の為かテラスにはお客さんが居ないですね。カフェで一番安い飲み物はダージリンティー ¥300。なんでそんなことを書くのかというと・・・、それはしばらくお待ち下さい。
さて、いよいよ現地調査&説明会です。これが亀ヶ谷から流れてくる川。 ここは本当は橋なのです。つまり向こうの建物は川の上に置いてあるということに。 ここから覗くと下が川であることが判ります。 正面左の道を歩いてきたんです。私の背中は若宮大路が。でもこの近代の橋桁の向きからすると川は若宮大路沿いに直角に曲がってるみたいですね。明治15年の地図でも確かにここで直角に曲がって下下馬の先の枇杷橋で折れて滑川に合流しています。 しかし『吾妻鏡』にある鎌倉時代の宗尊親王将軍の鎌倉入りの経路では「中下馬橋東行」ですから向こうの東に入る道の向こうあたりにこの川を渡る橋が有ったことになります。まあ中下馬橋を渡ったのかその手前なのかは判りませんが、その後の川の流れを考えると渡って東に曲がった。つまりあの小町口への道より南側なのではないかと。 この写真は18日に撮ったもの。口頭説明しながらだと画像説明写真に抜けが出来るんですよね。 ところで向こう側のあのビルの建設現場。前は何があったんだっけ。ビルで無ければ発掘調査があったはずなんだけど。ストリートビューで見ると・・・、だめだ、ビルが建ってた。(^_^;) |