大倉亭現地説明会(2)   小町口から東勝寺橋へ      2019.08.16  

では宗尊親王のように小町口に向かいましょう。

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この道の突き当たりが小町口です。 『鎌倉市史総説編』で高柳光寿先生はこの写真右の工事中のあたりと書いていますが、そちらは近代の旧字名からです。

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その突き当たりの蛭子神社。

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蛭子神社には何の関心もなく、真っ直ぐ奥に。

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蛭子神社から見下ろした滑川です。およそこの辺までは海からの舟から積み替えた小舟が入ってきたのではないかと大三輪龍彦氏が。

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ただ大三輪龍彦氏が子供の頃にこの川で遊んでいた頃から現在までの数十年間でも川底の様子は変わっています。なんせ鎌倉石ですから表面が砂や土に戻って流されて少しずつ深くなってるのではないかと。というのは、水面からのこの高さの説明が出来ないんです。こんなに高くこちら側を造成する訳はないので。

ちなみに私が10年以上前に作った鎌倉の海岸線推定図が下です。鎌倉史の勉強を始めた頃のものですのでまあお目こぼしを。白い◯は何だっけ? ああ、鎌倉時代より前からあったらしい神社と寺ですね。入江は下下馬のあたりまで達していたと思います。旧東海道とも言われる海沿いの道が大きく北に押されているのもそのせいかと。


どうやって作ったのかと云うと、カシミールという地図ソフトと2.5万図電子データ、そして50mメッシュ標高データから海面を3〜4m上げたものをベースに『鎌倉市史・考古編』の弥生時代の地形図などを参考にしました。日本列島の太平洋側は少しずつ隆起しているはずですので。

今見ると、あの入江はもう少し東にすれば良かったかと。下下馬の近くまで入江だったと信じているのは『吾妻鏡』に将軍が海水で身を清める行事を見る為に、御台所が下下馬の御家人(小山だったか)の屋敷に行ったとあるからです。屋敷から見たのか、屋敷を海の家のようにして、そこから浜に見に行ったのかまでは判りませんが、何れにしても至近距離のはず。

そう考えると、大町が大町と言われる理由も納得出来ます。他の町屋に比べてそこからの物流量が桁違いだったのだろうと。小町とはその大町の滑川を挟んだ飛び地のようなもの? 

この意見には鎌倉考古学な方々からも叩かれないと思いますよ。なにしろ赤星先生や大三輪先生の見解に沿ってますので。二人ともお前が目の敵にしていた人じゃないかって? 私が目の敵にしたのは切岸、切通の鎌倉城史観な部分です。やぐらについては両大先生様ですって。

忘れてたけど10年以上前には私は鎌倉時代には、大町・小町のあたりまで船で荷を運んだ名残が夷堂(現:本覚寺)だと書いていました。自分に一票♪ バキッ!!☆/(x_x)

 これが小町大路です。そしてこのT字路が小町口です。というのも『吾妻鏡』にある宗尊親王将軍の経路にある小町口とは此処以外に有り得ないのです。そしてここが小町の北限。某先生のお弟子さんの学芸員さんはそれに納得出来ないらしいんです。そもそも今日の現地説明会はその学芸員さんが「おかしい。納得出来ない!」と大先生に云ったことが発端。

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あの倉は自称「百年の倉」と。本当に百年かどうかは判りませんが、私の実家でも築60年なので、本当に百年の倉かもしれません。

ということで私の主張をまとめるとこういうことになりましょうか。

  1. 「小町口」とは「小町」の東西南北に開く入り口全部を指す訳ではなく、京の「町口」「町尻」と同じように町の北側のことというのが私の理解です。ただしそれは「小町口」と云う呼び名の由来という程度のこと。
  2.  私が「小町口」は「小町」の北限と確信するのは下の画像の道の南北で、発掘調査から明らかになる景観が全く違うからです。 町屋の遺構はこの道の北側から筋違橋まではありません。例外の一件は私が泰時の納所と推定している場所だけです。(【追記】参照)
  3. 以前には地名としての小町を江戸時代以来の小町村を引きずっていました。大森金五郎が良い例です。小町は地名である以前に町屋であるというのが私の見解です。
  4. 次ぎに幕府は二度町屋の位置を定め、場所を規制しています。その規制エリアが官庁街までズルズルと伸びるとどうして思えるのでしょうか。かつ、町屋は外部から物資が運び込まれるルート上にあります。小町は大町とともに海からの道です。規制されている場所を地図上に落とせば、その内側が中心となる官庁街&高級住宅地とほぼ見做せます。甘縄の高級住宅地はそれに対して郊外と見れば良いと思います。

それを裏返せば私の反論になります。

  1. 江戸時代や明治時代のことではなく、鎌倉時代初期の「小町」は「大町」と対になった「町屋」のことでは無いというのか。それならばその根拠は。
  2. 「町屋」が高級住宅地まで食い込んでいたとする根拠は何か。
     

大森金五郎の図のように高級住宅地は小町大路の西で小町は小町大路の東などというのはダメです。小町大路の東にも北条一門の屋敷があるので。

しかし私が一番怖れていたのは「バッカじゃないの?今頃なに力んでんのよ。そんなこと何年も前の◯◯論文以来常識!不勉強にもほどがあるわ!」って言われることでした。でも、プロがそういう違和感を持つということは、これまで私と同じことを論じた研究者は居ない、新規性は十分、一石を投じたと♪

(世間の声:一石?ひと砂の間違いだろ。その程度じゃ波はたたんわ、アホか!)

でも”京の「町口」「町尻」と同じように町の北側”というのは云い過ぎかもしれませんね。今『鎌倉市史』を見返しているのですが、「宝戒寺文書」に「当寺敷地白幡谷口四方各三十丈」とあります。この白幡谷は今で云う西御門の谷で宝戒寺が白幡谷口とは白幡谷の北とはなりません。あくまで入り口。これも書く者の視点が何処にあるのかで考えた方が良いように思いだしました。

(世間の声:もうボロがでた。)

でも実際の政務の中心である執権邸から小町大路を下って小町の入り口でも小町の北限であることには変わりありません。

【8/30追記】 
「町屋の遺構」と書いたのは方形堅穴建物のことです。タクシーの中で話題が出た斉藤直子さんの論文が載っている『中世東国の物流と都市』に田中克行氏の「荘園年貢の収納・運搬と問丸の機能」がありますが、そこでの「問丸」の倉庫があの方形堅穴建物群なのではないかと思い始めました。四半世紀も前の論文なので鎌倉考古学な方々には単なる「常識」なのかもしれませんが、私的にはピタリと当てはまるように思います。そしてそれがあの「小町口」以南であることと、そこから「浜」にかけて大量にあると云うことは、海洋の道から由比ヶ浦経由で大町小町に運びこまれるものが、鎌倉への物流全体の中でとても大きな比重を占めていたということにはなりませんか?
だから大町なんだろうと。

この道があの二の鳥居前から歩いてきた道です。松尾剛次氏はこれを宇津宮辻子だと。

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その道の途中から北へ抜ける小道です。 秋山哲雄氏はこれがを宇津宮辻子ではないかと。

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松尾剛次氏の云う通りなら何でこれがここに有るんだという宇津宮稲荷です。

 

あっ、この宇津宮辻幕府旧跡という大正時代の史跡碑は信用しないで下さい。大正時代には研究が進んでいなかった、江戸時代の『新編相模風土記稿』と明治時代の大森金五郎の『かまくら』しか無かったことに加えて、観光的に判りやすい場所、かつ地主の許可の取れるところに建てているだけですので。

そこから「粋な黒塀〜見越しの松に〜」な住宅に向かう途中で某学芸員さんが、「いわたさんこれ! このあと発掘調査があるんじゃないですか?」と。 何々、予定建造物は住宅とな、住宅だとねぇ、と思って計画図を見たら三階建ての鉄筋コンクリート。マンションみたいなもの。基礎工事に絶対70cm以上掘るぞ。こりゃ絶対に発掘調査になるんじゃない♪ とはじゃぎまくる二人。

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某先生は「こいつら何を騒いでいるんだろう」と怪訝な顔・・・、
をされていたかどうかは定かでは御座いません。

そこから更に進むと「粋な黒塀」その1が。

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更に更に進むと「粋な黒塀」その2が。
もしかして中に仇な姿の洗い髪な「お富さん」がいるんじゃないかと覗き込みたくなるんですが、昔ながらのこの板塀はよくできていて、風は通るのですが、斜めに庭のへりはちらりと見えるのですが、主屋の様子は覗えないんです。

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実はこちらは大仏次郎の客亭だった処で、
土日祭日なら中でお茶が出来るのですが、残念ながら平日は閉店です。

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中の様子は、銭洗弁天お帰り編.1「大仏次郎邸」、「大仏次郎邸の秋の公開」を御覧下さい。

その「粋な黒塀」の端に若宮大路幕府旧跡という鎌倉町青年団の史跡碑が。
鎌倉市ではなく鎌倉町だった大正時代のものです。この史跡碑の根拠は江戸時代の『新編相模風土記稿』が若宮大路幕府の位置について「土俗親王屋鋪と唱ふ。今置石町の民屋の背にあり 」としていたことでしょう。

嘉禄元年(1225)の新御所の敷地選定の記事によく「宇津宮辻子」が出てきますが、『風土記稿』には「今其遺称を聞ず」と書かれ位置は不明でした。それを見つけたのが明治時代の大森金五郎です。土地の古老に宇津宮稲荷ならあると聞いたのが発端。先ほどのこれですね。
しかし『新編相模風土記稿』が「土俗親王屋鋪」とした場所は『吾妻鏡』に従う限り、京より戻った泰時が入った「正家」「鎌倉亭」のはず。「若宮大路御所」と「宇津宮辻子御所」は同じ位置としたのが坂本太郎と『鎌倉市史・総説編』での高柳光寿です。で、私は高柳光寿氏と同様に坂本太郎派。
大森金五郎派は誰なんだって? 松尾剛次氏と秋山哲雄さんです。
そんな派閥が有るのかって? 今私が作りました。(,_'☆\ ベキバキ

とここまでは行きがけの駄賃。本番はここからです。

この画像は工学部系学会の大会で「鎌倉の亭第の南門つぶし」発表のスライド作成の為に撮りにいったもの。 

右京兆御亭の南端、東勝寺橋への小径です。京大稲葉ホールの銀幕にデカデカと映し出して「こんな小径に南門(晴門)を開くわけないでしょう!」と云ってやりましたわい。でも今回行ったらあの燕cafe って幕が無かった。止めちゃったんかしらと思ったんだけど、強風の為張らなかったみたいです。で、その先が東勝寺橋。ここにも史跡碑があります。


10年以上前の写真ですが。

あれ? 何してるの? 青砥藤綱が落とした銭を探してるの? 見つからないと思うよ。青砥藤綱が「五十文の続松(松明)を購ひ、水中を照らして銭を捜し、竟に之を得たり」って史跡碑に書いてあるもん。それに落としたのは十文だから、江戸時代だってかけそば一杯しか食べられないよ。

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と思ったらお子ちゃま達を遊ばせてたみたいです。うらやましい、こんな史跡で遊べるなんて。はっ、あの子は大三輪龍彦ちゃんでしょうか。世間の声:なわきゃないだろ!バキッ!!☆/(x_x)

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いや大先生と学芸員さんをここまで連れてきたのはこの両岸の地形をお見せする為です。 東側が高い。鎌倉時代には西側は河原だったはずです。そして川はその河原をクネクネと流れていたと。

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まあ、この見解にはたいした新規性は無いんですが。