大倉亭現地説明会(5) 由比ヶ浜のタイ村へ 2019.08.16 |
二階堂大路から鎌倉宮前まで行き、そこでタクシーを呼んで、向かった先は此処。由比ヶ浜です。 本日のブレッソンです。 でも本日のブレッソンは時々やるんですが、本日のデイヴィッド・ハミルトンはやったこと無いですねぇ。残念。( ̄。 ̄;) しかし波が荒い。風が強い! ここが夏場の私の根城です。昔もやい奥様が常連さんから「由比ヶ浜の海の家が始まった」と 聞いた瞬間、私がここでビールをあおっている姿が脳裏をよぎったと云っていました。 ちなみにあのもやい奥様は昔これを見て「いわたさん最近来ないと思ったら海外旅行なんかしてたのね。でもなんでメニューが日本語なのかしら?」と思ったとか。(爆笑) 「ここ?」 と手で聞いてくるので、こっちも「そこ、そこ」と手で。風が強くて声なんて聞こえないんですよ。 中に入ったら基本ガラガラ。 でも889の前だけお客さんすし詰め。889の大っきいママさんに「何でここだけ繁盛してんの?」と聞いたら「ここだけ暴風の直撃を受けないから皆集まっただけだよ、うちのお客さんだけじゃないよ」と。でもそこまもう満席。 したら大っきいママさんが「あそこなら風はこないよ」と。「え〜、テナントの入らなかった空きスペースじゃん。あんな場末はヤダよ、それならここの方が良いよ」とバーンウエンターの前のテーブルに陣取ります。 こっちがそのバーンウエンターのちっちゃいママさん。ほんまもんのタイ人です。バーンウエンターというのはあの宝戒寺近くで閉まっていたお店。夏場はここで営業です。 パースペクティブのせいで大っきくは見えませんが ところで、ビールを飲みながら「昔は中世考古学研究者を名乗っていたんで」なんて云いましたが、真にうけないで下さいね。何処で誰に名乗ったのかというとあのもやい工芸でもやい奥様にです。あるとき店に行ったらもやい奥様が「あら、背中に葉っぱが着いてますよ。いったい何処を歩いてきたんですか」と云うので、「家とここの間にあるやぐらの調査をしてきたんです。今は中世考古学研究者をやっているので♪」とボケをかましたことがあるだけです。 これは翌々日18日の光景。 強風で遊泳禁止でなければこれぐらいお客さんは入るんです。 大入りでしょ?まあ日曜日ということもあるんだけど。 7時半にそろそろ帰りましょうかと外へ。 ここの信号、押しボタン式なのを忘れてしばらく待ってました。変わる訳ない。(;^_^A アセアセ お帰りは江ノ電で。ここはかいひん荘。説明はこれで省略。しかし海から離れたら強風かピタリと止みました。建物のおかげで感じなかっただけ? 電車が来ました。しかしレンズが凄いことに。このフレア、強風で潮粒が付着したんですね。 このお帰りルートを逆に説明したのがこちら、由比ヶ浜・リトルタイランドへの道です。12年前なので海の家は変わり、リトルタイランドはタイ村に引き継がれましたが。 タイ村でのやりとりビールを飲みながら、タイ料理をつつきながらの某氏のツッコミは「大倉薬師堂と覚園寺の関連は本当にあるのか、証明出来るのか」「◯◯や××の遺文にも大倉薬師堂は出てこないじゃないか」と云うようなもの。「◯◯や××」が誰のことだったかも覚えていないんですが、想像するに一人は覚園寺六世長老思伯かな? あっ、これを読んだら誰のことを言ったのかメールを下さい。 去永仁四年、都元帥平貞時朝臣、為討太元寇賊、捨財貨営造之者矣 上申の趣旨を考えれば由緒は簡潔に「国を守るための寺だ、だから・・・」となるのは当然だと思います。ここで長々と「元は義時が自分を守るために建てた薬師堂で」などと書いたら現在のビジネス文書でも×です。そんなもん新人君しか書かず、書いても上司のチェックで突っ返されて社長まで届かない。だってそれでは減税してやろうという気にはなりませんもん。北条氏のことなどもはや気にしてない足利義満でもそうです。 最初のツッコミの「大倉薬師堂と覚園寺の関連は証明出来るのか」については証明できません。そこを一番証明したい覚園寺の大森順雄師ですら 薬師三尊が覚園寺仏殿の本尊になっていること自体、上来の見方、即ち薬師堂即覚園寺、これを否定することは出来ない。(『覚園寺と鎌倉律宗の研究』、p.13) としか云えないんです。もうちょっと証拠があるのかと思っていたのにガックリです。 在山11年で修理を要するということは永仁四年(1296)に建立した施設なればまず考えられないことである。 私のアプローチは
というものです。云ってみれば状況証拠。 きっかけは小町が出てくる『吾妻鏡』の条をEXCELで並べて、それを某講座の飲み会(小岩の「庄屋」)の最中に眺めていたときにひとつだけが孤立していることに気づきます。それが「戌神霊験譚」の中の「小町御亭」です。 そのとき思い出したのが『鎌倉の執権及び連署の本邸の沿革』の中の「少なくとも、後世の鎌倉には義時邸が大倉郷の外にあったという認識が存在したことが指摘でき」という部分でした。 藤田先生は建築史の方で『吾妻鏡』原史料論になどされている訳ではないのでそう思われたのでしょうが、例の大吉文庫の文献リストを参考に『吾妻鏡』原史料論の勉強をしていた私は(世間の声:えらそうに!) 「いや、『吾妻鏡』は原史料の要約はするけど文言は書き換えたりはしないぞ」(自信はないけど多分)というのが出発点です。『吾妻鏡』編纂者は原史料の分脈の意味も判らず文言をそのまま使ったので意味不明になった部分まで。 えっ、それでは盗作じゃないのかって? いやいや、藤田先生から「私としても非常にすっきりしました」とお返事を頂いているので訴えられることは無いと思います、多分。(^_^;) この件で「動かぬ証拠(物証)」とは何でしょうね? それよりも上記の状況証拠の推論はおかしいですかね。あるいはここのところの言い方、論理展開にいまひとつ工夫が必要とか。この点については全く自信がありません。その辺を改善しないと今後の論文でも説得力に欠けてしまうのではないかとかなり不安がっています。 手厳しいご意見、ご指摘をお待ちしています。 |