銭洗弁天お帰り編.1 鏑木清方記念美術館

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川喜多邸の端、目の前が小町通りと言うところで露地を右に曲がった突き当たりが鏑木清方記念美術館です。観覧料は通常大人200円ですのでちょっと覗いてみることをお薦めします。(地図はこちら


こちらは昭和29年建築当時の画室の部材をそのまま使用して再現したお部屋だとか。こちらから見るお庭はすばらしいです。

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私は28年前に整形外科で1ヶ月以上入院していたことがあって、これが身動き出来ずにただ単に骨がひっつくのを待っているだけで実に退屈。
そこであっちの業界の友人に当時既に絶版になっていた「鏡花全集」で残っているものを岩波の倉庫から持ってきて貰いました。全29巻の内「高野聖」が入った巻とか確か3冊ぐらいは欠けていましたが。それを、親爺が作ってくれた書見台にその本を挟んで斜め下から読んでいました。なんせ腰、お腹を固定されて首と手が動かせるだけでしたから。

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この「鏡花全集」、初版1刷が昭和17年、2刷が昭和50年、私が持っているのはその2刷の方ですが、この装丁が鏑木清方でした。こちらのサイトにこうありました。

お互いに二十代のころに初めて顔を会わせたそうです。ただ、二人は、実際に顔を合わせる前から、お互いの存在を、作品をとおして知っていたようです。挿絵画家の清方と小説家の鏡花のコンビは、五十年以上にもわたって、活躍をしたようです。

確かに鏡花と清方は描く世界が似てますよね。清方が「あやかし」ものを書いたとは申しませんが。鏡花にある女性の美化(憧れ?)は清方にも共通するし、一方で清方の「庶民の風懐にあそぶ」心は代表作にこそなってはいませんが鏡花にもあります。片方は筆をもって語り、もう片方は「ことば」を絵の具として描いたと。

日本画家としての鏑木清方には当時はあまり関心は無かったのですが、この「鏡花全集」の装丁、ほんとに惚れ惚れしますね。清方に関心を持ったのはそれからです。
清方は「ことば」の世界にも深い関わりと親しみを持っていたようで、父は「やまと新聞」の創刊者で戯作者でもある條野採菊とか。鏑木清方は、子どものころは小説家を目指していて樋口一葉の作品に傾倒し、噺家について旅をしたりもしたそうです。

清方は国芳・芳年・年方と続く浮世絵の画系を継ぎながらそこに明治の近代的な感覚を取り入れてところが伝統的な日本画とはひと味違った味を醸し出していると言われていますが、挿し絵画家として鏡花のみならず多くの文学作品、そして作家とともにあったこと、そして江戸の下町の風情、情緒も鏑木清方を語るひとつの柱になっていますね。
しかし私にとっての鏑木清方は「鏡花全集」の装丁から、挿し絵画家であると同時に優れたデザイナーとして刷り込まれています。


その鏑木清方の日本画の方ですが。
嗚呼、「清楚」を絵に描いたような美しさ(って、これ絵なんだけど) モデルは我が家の娘と同じぐらいのお歳頃なのですが、家の娘とは似てもにつかぬ。(ノヘ;) トホホホホ・・・ 

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しかし鏑木清方の日本画は、雑誌のグラビアの明治時代版と考えてみるとものすごく納得できません? 上の絵なんてこうやって切り取ってみたら挿し絵ですって。 (うんうん)


昭和2年 (1927) 第8回帝展に出品して帝国美術院賞を受賞した「築地明石町」と言う絵があるのですが、何でも美人画の大家としての鏑木清方の代表作なんだだそうです。その下絵が展示されていました。

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それはもう絵にだってお嬢さん、け、結婚してください!と言いたくなるような。(*^,^*)
かなり大きなもので下から見上げる感じでしたがその状態に合わせて縦横比を約1割変更。
真っ正面(絵はがき)だとこうですが、清方が書きながら見ていたのもこれぐらいかと。

 ところがなんとこのお嬢様は既にお嬢様ではなくて清方の絵画教室で絵を習っていた江木ませ夫人と言う方がモデルなんだとか。う〜ひと足遅かったか。 (ノヘ;)シクシク..
ほとんど1世紀じゃ! (,_'☆\ ベキバキ
ちなみにこの江木ませ夫人を鏑木清方に紹介したのは泉鏡花なんだそうです。
でも、下絵じゃない方の「築地明石町」よりも私は下絵の方が好きです。「高野聖」も下絵の方がむちゃくちゃ艶気がありましたね。


もうひとつ「孤児院」と言う絵が展示されていましたが、この絵は私は好きではありません。
ある意味では実に写実的です。何の苦労も知らない女学生ぐらいの良家のお嬢様がえらっそうに、でも本人としては自然に椅子に座り、テーブルにひじをついて、表情が暗く貧相な子供達のひとりひとりにお菓子の包みを手渡している図です。それに付き添う「梅干し食べてスッパマン」みたいなばあや。慈愛などどこにも感じられない。
 日本的な施しではなくて、明治時代に上流階級に輸入されたキリスト教文化での「施し」のような気がします。
ただ、私が嫌悪しているのはそこに描かれた情景であって、それを書き分けた清方の筆は凄いものがあると思います。清方は私が感じたような「欺瞞」を描こうとしたのか、それとも「慈愛」を描こうとして、ついついその情景、立場に写実的になってしまったのか、あるいは単に私がひねくれているだけなのかは判りませんが。