釈迦堂切通の道  妙法寺(苔寺)の歴史

妙法寺(苔寺)の総門

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こちらも、建長5年(1253)に安房から鎌倉に入った日蓮上人がここ松葉が谷に来て初めて草庵を結んだ所の一つと言われています。と言うかこれで2つ目ですね。当然こちらも他宗派の門徒に襲われ、焼き討ちにあったいわゆる松葉ケ谷法難の跡です。文応元年(1260)8月27日らしいです。いったいどっちがホントなんでしょうか?

でもこちらはなんか根拠がありそうですね。ここから京都に移転した本國寺のサイトにはこうあります。

建長5年(1253)8月、日蓮大聖人が鎌倉松葉ヶ谷に構えた法華堂を始めとする。
弘長3年(1263)5月には大光山本国土妙寺として創立された、宗門史上最初の祖跡寺院。

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妙法寺(苔寺)の本堂

要するに、安国論寺もこの妙法寺も同じ松葉ケ谷(谷戸)にあって、こちらが北側、あちらが南側です。こちらの草庵跡には日蓮を開山とする本国寺が建っていましたが、貞和元年(1345)に京都に移転し、その跡地にあの鎌倉宮の土牢で殺されたと言う護良親王の子、法親王日叡上人が延文2年(1357)に再建しました。

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この妙法寺の前身、本国寺はなかなかの寺格だったようで、鎌倉幕府崩壊当時の四世日静聖人の父は上杉頼重、母は足利氏の女、または足利尊氏の母方の叔父と伝えられています。1333年に鎌倉幕府は崩壊しますが、庇護者であった足利一族は京都へ転進たのはご存じの通り。

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その足利尊氏と後醍醐天皇が対立し、南北朝時代に突入するのもご存じの通りですが、その南北朝の対立がここに有ったお寺にも大きな影響を及ぼします。
こちらのサイトによると、後醍醐新政下で勅願寺となっていた同じ日蓮宗の妙顕寺に対抗し、京都の日蓮宗門徒を押さえる為に足利尊氏は自分の息のかかった日蓮宗の寺が必要になります。
そこで足利尊氏は六条楊梅に広大な寺域を得て鎌倉から本国寺を移転させ、自分が擁立した北朝・光厳天皇の勅定により、新たに帝の勅願寺としたらしいです。「本国寺文書」にそうあるそうです。末寺の引っ越しではなかったんですね。今の大本山本國寺です。
しかし日蓮宗に大本山ていくつ有るんでしょうね?

で、その松葉ケ谷の跡地に今度は後醍醐天皇の孫で、護良親王の子の5世日叡上人がこの妙法寺を立てたと。う〜ん、ややこしい。 (;^_^A アセアセ…

妙法寺(苔寺)の大覚堂

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熊本城の天守閣に祀られていた加藤清正の像が細川家から寄進され、それもこのなかに安置されているんだそうです。細川家もこのお寺に帰依していたようです。

妙法寺(苔寺)の仁王門

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江戸時代にはかなり興隆したそうで、日本で最初の川施餓鬼を隅田川で行ったとか。川施餓鬼と言うのは、功徳をあらゆる亡霊のために回向(えこう)しようという趣旨で、少しずつお金を出し合い、回向すべき故人の戒名を、日牌、月牌の二つの大きな位牌に記入し河原でおまつりするんだそうです
もっと学術的に知りたい方はこちらもどうぞ。 『日本民俗学 第218号』 日本民俗学会 1999.5 。今で言う精霊流しの原型でしょうか? 

江戸市民はもとより、大大名から将軍家までが帰依し、11代将軍徳川家斉もしばしば参拝したとか。そのため総門、仁王門、法華堂は朱塗りにしたのだそうですが、現在朱塗りなのはこの仁王門だけです。仁王様は・・・・、江戸時代末期ですね。杉本寺の伝運慶作の仁王像に騙されてから勉強しました。(笑)

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妙法寺・苔の階段

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このお寺は苔の寺として有名ですが、その謂われがこの石段でしょうか。残念ながら冬の写真なので・・・・。梅雨時以降に参拝されるといかにも、かもしれません。下の写真は法華堂の方、つまり上から見たところですね。

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妙法寺の法華堂

その苔の石段は保護の為に登れませんが脇の階段を登ると・・・見えてきました。

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法華堂です。日叡作といわれる厄除祖師像が安置され、9月12日のみ公開されるんだそうです。今年のその日は火曜日です。行けませんねぇ。
 そうそう、松葉ケ谷法難のとき、仏の化身の白い猿に元気の出る生姜をもらったとの逸話から、毎年9月12・13日に「厄除けしょうが」と呼ばれる供養を行っています。

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ちなみにこの法華堂は明治になってから建て替えたものでしょう。
それ以降も建て替えがあったのかどうかは知りませんが、上行寺の現在の本堂は1886年に名越松葉ヶ谷の妙法寺の法華堂を移築したものとのことです。あちらの梁の彫刻が見事なのは将軍家や肥後細川、加賀前田、水戸徳川、紀州徳川などの大大名の庇護のあったここ妙法寺の為に彫られたものだからでしょう。

妙法寺の鐘楼

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法華堂から左に行くと鐘楼があり、その脇からまた上に登る石段があります。

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その石段の上は・・・・

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妙法寺の御小庵の旧蹟

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日蓮が住まった「御小庵」跡だそうです。栞には「明確な記録及び歴史的根拠の点より見ても、妙法寺が御小庵の旧蹟であることは決定的であります」と書かれています。「明確な記録及び歴史的根拠」とは「本国寺文書」でしょうか? 確かに有力ですねぇ。

妙法寺の護良親王の墓

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そかから更に右の階段を登ると、日叡上人の父、護良親王の墓があります。
でももうひとつ二階堂にもありますが。

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「御小庵」跡から左に登ると、日叡上人の母、護良親王の奥さんの南の方の墓があります。日叡上人とともに鎌倉に来たのでしょうか?


ここから見る鎌倉の海の景色はなかなかのものです。あれは稲村ヶ崎ですね。

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後で知ったのですが、昔はこのお寺に例のおっきな三脚を持ったアマチアカメラマンが大挙して押し寄せたんだそうです。だもんで今はそういう人達はお断りみたいです。
けっこう迷惑なんですよね、あれ。