報国寺は臨済宗・建長寺派で、足利尊氏の祖父である足利家時が開基、夢想国師の兄弟子、天岸慧広(てんがんえこう:仏乗禅師)の開山と一般には言われています。
しかし報国寺の開基と開山はだいぶ離れていますね。また上杉重兼が報国寺の開基ともいわれます。良く判りません。
開山の天岸慧広(てんがんえこう:仏乗禅師)と言う方はかなり有名な方のようです。 鎌倉の禅宗(臨済宗)の始まりは建長五年(1253年)に建長寺開山の蘭渓道隆からですが、その没後、同じく中国より招聘された無学祖元が弘安五年(1283年)に円覚寺を開山します。 仏乗禅師はその無学祖元に師事(?)し、中国へ渡って修行を重ね、帰国後建武元年(1334年)にここ報国寺の開山となったそうです。北条氏が滅んだ翌年ですね。建武元年の「建武」はあの「建武の中興」と呼ばれるその「建武」です。 詳しくは こちらのサイトをご覧ください。しかしとても詳しいサイトですね、勉強になります。
それから約百年後の1439年に起きた永享の乱で関東公方・足利持氏は敗退し、自刃しますが、その子足利義久はこの報国寺で自刃しています。
報国寺の寺史は
もうすこし詳しく見ていきましょう。
これも先ほどのサイトで知ったのですが、寺史にはこうあるそうです。
当寺は、鎌倉市浄明寺宅間ヶ谷に在り、山号を功臣山といい、臨済宗建長寺派に属する。開山は天岸慧広で佛乗禅師とおくりなされている。 開基は足利家時とされ、建武元年(1334年)の創建である。足利家時は尊氏の祖父に当たり、報国寺殿と呼ばれていた。源義家の遺訓が自己の代におこなわれざるを歎じ、子孫三代の内に必ず天下を取る者の出でんことを八幡に祈り自刃したことは史上有名である。
えっ! そうか、あれが足利家時、それなら知っています。確か五味文彦の『吾妻鏡の方法』だったかで読んだ気がします。ん、有りませんねぇ、どこで見たんでしょう? 自刃したのはその通りですが、伝えられる「源義家の遺訓」はあり得ませんね。源義家の時代には天下を取るなんて概念も発想も無いですから。「7代のうちに第二の将門となれ!」なんて誰が思いますか。思ったとすれば「7代のうちに誰か公卿に登れ!」ぐらいでしょう。室町時代初頭に作られた脚色だと思います。足利氏の一族の武将今川了俊の『難太平記』ですね。現代語訳を引用します。
また、義家が御置文で、「我、七代の孫に生まれ替わりて天下を取るべし」と仰せになったのは家時の代に当たり、なおも時が至らないのをお知りになったためか、(家時は)「我が命を縮めて、三代のうちに天下を取らしめたまえ」と八幡大菩薩に祈り申されて、御腹をお切りになった。子細は、その時の御自筆の御置文に書かれている。まさしく両御所の前で故殿(今川範国)も我らも拝見させていただいた。「今、天下を取ったのは、ただこの発願によるものである」と、両御所(尊氏と直義)も仰せになったことがある。
足利氏は頼朝と並ぶ源氏の名門で、同族の新田は頼朝の代から冷や飯食いで御家人の家格はそれほど高くはありませんでした。しかし足利氏は頼朝に敵視されることなく、更に北条氏ともうまく付き合い尊氏の代となります。 しかしその間、実に細心の注意を払って鎌倉時代を生き延びています。正直良く生き延びられたとさえ。頼朝と並ぶ源氏の名門ですから将軍となってもおかしくない、つまり反北条得宗家の陰謀に一番祭り上げられやすい位置に居た訳ですから。 そのため代々北条得宗家との姻戚関係を結んでいますが、足利家時だけは北条得宗家の娘を母としていませんでした。それより前の代では家時の祖父足利泰氏が突然出家したことも。
『吾妻鏡』1251年(建長3)12月7日条。「史跡草子」さんの「北条時頼政権と足利氏−泰氏・頼氏−」に詳しいです。ちなみにその月の26日条には「今日未の刻の一点に及んで世上物騒なり。近江(佐々木)大夫判官氏信・武藤左衛門尉景頼(が)、了行法師・矢作左衛門の尉(千葉の介が近親)・長次郎左衛門の尉久連等を生虜る。件の輩謀叛の企て有りと云々。仍って諏方兵衛入道蓮佛が承りとして、子細を推問す。の一件に関係があるのかもしれません。翌年の2月に五代将軍藤原頼嗣は解任されて京に戻ります。
で、足利家時ですが、これも「史跡草子」さんが詳しいですね。
「難太平記」には、足利氏には源義家の「我7代の孫吾生かはりて、天下を取べし」と書かれた置き文が伝わっており、家時の代が丁度7代目に当たるが(実際は8代目)、未だもってその時ではないことを嘆き、八幡大菩薩に祈って「我命をつづめて、三代の中にて、天下を取らしめ給へ」と語って腹を切ったと書かれている。 家時の死には諸説があるが、北条時宗の死の直後である弘安7年(1284)6月に佐介流北条時光、時国が陰謀の廉で流刑となる事件が起きており、この事件に連座した、或いは連座を疑われた結果、6月25日に25歳で自害した、とする説がもっとも有力だろう。 (得宗専制期の足利源氏)
以前は「整理中」とかで他のサイトに引用されていたものからの孫引き引用だったのですが、今では整理・移転完了のご様子。というか、ご本人に会ってしまいました。突然言われて、「ヒエ〜、勝手に引用したのがバレてしまった〜!」 いや、怒られた訳ではないですが。(笑)
置文伝説については、こちらにも良くまとまっています。
さて、寺史に戻り
一方、開基は上杉重兼であるという説もある。天岸慧広は以前より足利家時の帰依を受けており、すでに家時の開いた一寺が在ったものを上杉重兼がさらに拡張再建したものかとも思われる。
う〜ん、そういうことですか。足利家時が自刃したのは何年でしたっけ? あるサイトでは(ん?今は404 not found...) 足利家時が自刃したのは文保元年(1317年)?
35歳ぐらいですが、孫の尊氏は1305年にもう生まれています。23歳で孫? なんか変ですね。と言うか子供の貞氏より親の足利家時が後に生まれていることになるし。
こちら では生まれは
1260(正元2/文応元)年、1284年(弘安7)の6月25日に自害。享年25歳.。これならわかります。でも嫡男足利貞氏の生まれたのが1273(文永10)?足利家時13歳のときと言うことになりますが。まあそれぐらいならあり得ない話しでは無いかも。誤差もあるし。 そこで天岸慧広(てんがんえこう:仏乗禅師)は1284年以前に足利家時の帰依を受ていたと言うことになりますが、天岸慧広は生没1273-1335年で建長寺で無学祖元の童行となったのが13歳のときです。 余談ですが、無学祖元は日本語をしゃべりませんでしたから、13歳の童行が「師事」と言えるほどの影響を受けられたかどうかは少々疑問です。それにしても、足利家時が自刃した1284年にはまだわずか10歳か11歳。有力御家人で名門足利家時が帰依とはあまりにも不自然ですね。
それから百年、室町時代には・・・
当寺には、開基足利家時の他に足利義久の墓がある。義久は鎌倉公方持氏の嫡男であり、永享十一年(1439年)京都の幕府勢との戦いに破れ、持氏は永安寺で、義久は当寺において自尽している。
「関東兵乱記」によると
永享十一年二月持氏御自害、若君義久十歳にならせ給ひけるを奉討べき由聞えければ、報国寺に御座せしが人々馳せ参りて此由申しければ仏前に焼香なされ念仏十返唱えさせ給ひ、御守刀引抜き左の脇に突立て引廻しうつっぷきに伏し給う
とあり、鎌倉公方として四代九十年にわたり、鎌倉を中心として勢威を揮った関東の足利氏終焉の地でもある。
「田楽辻子」でも触れた「永享の乱」の件ですね。鎌倉公方足利持氏は色々と問題のあった人のようで、小栗判官と照手姫の話も足利持氏絡みです。
それから更に数百年、江戸時代の様子は・・・、なかなかのものだったようです。
「相模国風土記稿」によれば当寺の境域は幕末頃は広大なものであったらしく
東西凡そ四・五町、南北十七・八町許りにして坤方の絹張山も境内に属せり
とあり、堂塔伽藍も整備され、その偉容を誇っていたようである。 もっとも寛永十年(1633年)、沢庵禅師が当寺を訪れた頃は「鎌倉遊覧記」にあるように、
ここ浄妙寺を出でてむかうの山に報国寺と云ふあり、総門に漸入佳境といふ四字を題す。是より踏み入れば岩のめぐりたる影に、佛殿方丈あり、さばかりのあとなり
とその当時の感慨を述べている。
報国寺の本堂
こちらが本堂です。ここまでは無料。
釈迦如来坐像、本尊 (木像:鎌倉市重要文化財)、 聖観世音菩薩像 (木像)、 佛乗禅師像
(木像:鎌倉市重要文化財)などが有ります。
国の重要文化財に指定されているものとして、 佛乗禅師像 (建武二年の自賛)、 東帰集
(紙本墨書)天岸慧広(仏乗禅師)自筆 、 佛乗禅師度牒 (弘安九年十一月八日)、 佛乗禅師戒牒 (弘安九年十一月八日)、堆朱印櫃入木印
佛乗禅師所用(天岸慧広) が有りますが、現在は鎌倉国宝館の方に保管されています。
新田義貞鎌倉攻戦死者の塚
新田義貞鎌倉攻めの際の由比ガ浜での戦死者の埋葬の塚と言うのがこれでしょうか?
そうみたいです。昭和40年秋のこととか。
報国寺・竹寺の由来の竹林
ここからが竹寺の由来の竹林です。
しかしデジカメを買い替えたのは正解でした。普通、自然光でここまでは撮れません。
境内裏にある休耕庵跡は、お茶席になっています。あれがそうですね。 ん? 竹林自体が休耕庵跡なのかな?
お抹茶を頂きました。
浄妙寺のお茶席が一番好きですが、ここも見事な竹藪、そして小さな滝を長めながらでなかなかのものです。
良いですねぇ。
良いですねぇ。ん? 貴方、何処を見ているんですか。フキフキ "A^^;
報国寺の石仏
竹林を出ると、石仏が有りました。
元禄時代のものが有りますね。
報国寺の矢倉
こちらの矢倉には足利家時と、ここで自刃された足利義久の墓が安置されているそうです。時代様式からすると、あそこに見えるのが足利家時の墓でしょうか?
報国寺の裏庭
1月の中旬だったのですが、黄梅が綺麗でした。
小径はそこからまた竹林に戻るのですか・・・
その途中から裏庭の方を眺めるとなかなかの景色です。
お帰りは・・
さて、裏庭と竹林からの出口です。スローシンクロを使ってみました。 なかなかではないですか。気に入った、このデジカメ。(^o^)
さてお帰りは・・・・、本堂正面よりも脇のこの小径を通ってみるのもお薦めです。
他の季節は竹寺報国寺・旧華頂宮邸indexからどうぞ |