古道三浦道 宝戒寺の歴史(北条得宗家の屋敷跡) |
萩の花など他の季節は宝戒寺 indexからどうぞ 金竜山釈満院円頓宝戒寺1333年に新田義貞に攻められて滅亡するまで北条宗家(得宗家)の屋敷が有ったところです。北条一族の怨霊をしずめるために後醍醐天皇の命令で足利尊氏が開きました。後醍醐天皇自らが開基との説もありますが開基は足利尊氏とするのが正しいでしょう。 建武2年(1335年)に天台宗五代座主の慈威和尚が開山を勤めています。正式寺名は金竜山釈満院円頓宝戒寺。今も天台宗のお寺です。 「天台宗金龍山釈満院円頓宝戒寺略縁起」
宝戒寺にある北条執権邸旧蹟参道入り口に「唐仏地蔵尊」の碑、「北条執権邸旧蹟」の碑があります。
2代執権北条義時が小町邸を造って以来北条一族がこの地に屋敷を置いていました。もっとも、北条宗家、つまり得宗家がづっと住み続けた訳ではないのですが、そのあたりはまた後ほど。ただし鎌倉時代の中期以降は1333年に北条氏が滅ぶまで北条執権の屋敷であったところです。 北条氏の最後は「寺南東側の“腹切りやぐら”で870余名といわれる北条一族全員が自害した。」と言われますが、870余名は大げさでしょう。この裏の東勝寺域870余名が最後の戦いをして時間を稼ぎその間に高時以下が自害したと言うことでしょうか?最後の激戦の地です。 実際には後醍醐天皇が北条氏の小町邸の跡に宝戒寺を建てさせたと言う記録が残っているので、北条氏の小町邸は宝戒寺のあったここだろうと推定されています。 当時は七堂伽藍に2ヵ院36坊を有した大寺院でしたが戦国時代の兵火、江戸時代の大火、明治初期の廃仏毀釈、そして関東大震災によりことごとく消失し、昭和になってから再建を図り、現在もその途上とのことです。 宝戒寺の春、3月この3枚の写真は2004年の3月14日のもの、枝垂れ梅、杏が綺麗でした。 2006年の梅の様子はこちら宝戒寺の梅 2006.3.12 をご覧ください。 私にとっての宝戒寺はこの上の枝垂れ梅と下の杏の白い花です。 宝戒寺の本堂、1月本堂の本尊地蔵菩薩坐像(国重文)は胎内銘から1365(貞治4)年三条法印憲円の作とわかり、京風のとても穏やかなお顔です。地蔵像としては珍しい座像で、子育経読地蔵とも呼ばれているそうです。同じ堂内に安置されるもう一つの小さな地蔵菩薩像は、足利尊氏の念持仏と伝えられています。 宝戒寺の歓喜天、裏から見た宝戒寺は「NEXT」でお進みください。 |