鎌倉の梅 2006/3/13   円覚寺の梅と歴史.3

円覚寺・北条時宗の開基堂仏日庵 

 開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺開基の北條時宗、その子貞時、孫で鎌倉幕府最後の北条氏の長・高時が祀られています。

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北條時宗は円覚寺が建立されてから2年後の1284年(弘安7年)4月4日に亡くなりました。その直後に開基廟が建立されたようですが、現在の開基廟は江戸時代1811年(文化8年)に改築されたものだそうです。 「新編相模風土記」にはお堂の下に各遺骨を納めた石櫃があるとの言い伝えがしるされているそうです。
 時宗公夫人は開山の無学祖元禅師について得度、つまり仏門に入り、潮音院覚山志道尼と号し東慶寺を開山しました。

北条貞時は時宗の子で、父の死によって弘安7年(1284年)14歳の時執権職につき、その後、円覚寺に力を注ぎ、来朝僧一山一寧をこの円覚寺の第7世住持にむかえます。

ちなみにこの一山一寧はそもそもは元寇(1274年、1281年)の後、1299年に元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するために来日した人です。それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていましたが一寧が大師号を持つ高僧であったことなどから修善寺に幽閉され、後に鎌倉近くの草庵に身柄を移します。その後、建長寺の住持、円覚寺、浄智寺の住持を経て1313年に後宇多上皇の懇請により京都の南禅寺3世となった人です。ちなみに南禅寺は禅宗では京都、鎌倉五山の上の国内最上位の寺です。1317年10月に南禅寺で病没。花園天皇より一山国師と諡号されました。

また1301年に洪鐘を造って国家の安泰を願いました。これが仏殿の右手の長い階段を登った先の佛殿横高台にある国宝の洪鐘です。 物部国光に鋳造させた鎌倉時代の代表的名鐘の一つで、高さ2.59mと関東で最大だそうです。建長寺のものも大きかったけどそれ以上みたいです。
1308年に北条貞時が朝廷に願い出て建長寺と円覚寺は定額寺(じょうがくじ:朝廷によって維持される官立寺院)となっています。ただしこの時代では財政支援は伴わず、名目=寺の格を示すものになっていますが。
貞時の時代には円覚寺僧侶の人数は二百人にのぼりったそうです。


その子、北條高時のときに北条氏の鎌倉幕府は亡んでいます。
現在は残っていませんが、この北條高時のとき、1323年の北条貞時13回忌に法堂が建立されたそうです。
北條高時は南山士雲禅師や夢窓國師(夢窓疎石)に参禅し、夢窓国師を円覚寺の住持としてむかえました。夢窓國師は後醍醐天皇や足利氏の信任も篤く、北条氏滅亡御も寺を護持することができたようです。 北条高時は新田義貞の軍勢に攻められて東勝寺で自刃し、黄梅院と正続院(無学祖元の廟所)に隣接した続灯庵に葬られています。 その後の円覚寺は「その後の円覚寺」に述べた通りです。

北條高時の墓は開基堂仏日庵と黄梅院の間の続灯庵にあります。こちらは参拝できません。

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円覚寺の黄梅院

その佛日庵開基堂の上が黄梅院で北條貞時の墓があります。この梅も見事でした。

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 北条時宗の夫人で東慶寺を開いた覚山尼が時宗の菩提を弔うために建立した華厳院が前身だそうです。
文和三年(1354)、その場所に足利尊氏が、師であり五山文学の隆生に功績を残した夢想疎石の塔所(高僧の墓所)として創建しました。開基は尊氏側近で夢窓疎石の弟子・饗庭氏直です。
黄梅院は足利尊氏の帰依を受け、疎石を師とする夢想派の関東における拠点となったそうです。応安元年(1368)には室町幕府・二代将軍足利義詮の遺骨が分骨され、これによって黄梅院は足利氏の菩提寺としての性格を帯びることとなったとのことです。なので元旦深夜にここにくると、他の塔頭はみな三鱗の北条氏の紋の提灯を門前に掲げているのに、ここだけは足利氏の紋の提灯なんです。

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こちらはお庭の様々な花で有名なところです。奧の白梅に手前の三椏の淡い色の組合せがとても綺麗でした。

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古いものではないでしょうが、鉈彫の観音様がありました。良いお顔をしていらっしゃいます。

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この白梅の老木も良いですね。如何にも「梅」って感じです。

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門の内側からさきほどの紅梅を見たところ。紅梅でも良いのかなぁ。

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