鎌倉の梅 2006/3/13 円覚寺の梅と歴史1 |
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円覚寺の前庭円覚寺も特に有名な花ってあまり聞きませんね。まあ円覚寺は円覚寺ってことで別に「出し物」は必要無いのかもしれませんが。だいたい「梅」と言う花自体が印象薄いですし。 3月の中旬、私は勤続○年の特別休暇を取って鎌倉の梅を撮りまくっていたのですが、若いママさんが1歳ぐらいの女の子を連れてお散歩に来ていました。そのママさんとっても美人! (ハート) おおそうだ「将を射んとすれば馬を射よ」と言うではないですか。 こちらは円覚寺前庭?の池の梅です。駅のすぐ脇で私が毎年春を実感するのがこの梅の花です。 正式には瑞鹿山円覚寺鎌倉時代後期の1282年(弘安5年) 北條時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建しました(ちょっと短絡させて)。代々中国からの招聘僧が住持となっていることが多い、めずらしい寺院です。 北条時宗が自分の私寺、円覚寺の計画を立てていたとき、開山は建長寺を建てた蘭渓道隆(大覚禅師)の予定で、場所の選定も蘭渓道隆と行ったと言われています。しかしその計画中に道隆が急死してしまい、建長寺住持(今で言う管長)が空席に。これはもう円覚寺建立どころでは無くなり・・・、という話もあるのですが、どうも後付の話ではないかと。 円覚寺の開山 無学祖元時宗は、道隆の弟子徳詮と宗英の2人を中国に派遣して建長寺の住持にふさわしい名僧を探し出させます。この二人は南宋天童山住持・環渓唯一を招こうと考えましたが、環渓唯一はすでに80歳を越えており、日本まで行くのはとても無理。そこでその弟弟子で天童山首座をつとめていた無学祖元がかわりに来日します。字(あざな)は子元(しげん)、「無学」は号でです。しかし「無学」だなんて、この方は当時の中国でも最高レベルの「学」の有る方です。 時宗は無学祖元を鎌倉に招くとただちに建長寺住持(管長)とし、自らその弟子となって足しげく通ったそうです。 無学は時宗の死後円覚寺を退いて建長寺に移り,1286年(弘安9)9月3日に61歳で亡くなりました。建長寺の方丈で端坐したまま示寂(しじゃく:亡くなる)されたそうです。寂後仏光禅師と勅諡(ちょくし:朝廷から死後に称号を贈られる)され,円満常照国師(朝廷から与えられた国家の師表たるべき高僧の称号)と追諡されます 円覚寺の寺域先ほどの池の桜のときの写真ですが、この写真を撮した位置自体が横須賀線のを越えた処、しかし、円覚寺の本来の境内はあのバス通りの向こう側に見える石垣のその外側までです。 この池は北条時宗が蘭渓道隆(大覚禅師)と一緒に円覚寺の場所を探していたときに、鶴ヶ岡八幡宮から鶴が飛び立ち、その後を追ってみたらこの池に降りたのでここに決めたとの言い伝えもあります。 こちらは北鎌倉駅の真ん前を渡ったところですが、本来の鎌倉中道(旧道)は自転車も向いている方。古い円覚寺境内絵図(南北朝時代初期)でもここだけ道が曲がっています。その曲がった部分の両側には円覚寺の門が有りました。冠木門(かぶきもん) です。 鎌倉七口と言われる切通しのうち、巨福呂坂も、亀ヶ谷坂切通しも執権北条氏が山内の自分の屋敷に行く為のものです。北条時宗は主にどちらの切通しを使ったのか判りませんが、多分巨福呂坂かな? まあそれを越えて真っ直ぐに道を行くと円覚寺の門に突き当たるとこういう訳ですね。そして、現在はその円覚寺の境内を横須賀線と県道山の内道が横切っていると言う訳です。 その後の円覚寺・北条氏滅亡から南北朝時代1333年に円覚寺のスポンサーであった北条氏が亡んだとき円覚寺を初め鎌倉の禅寺は真っ青になります。が、かつて後醍醐天皇の要望により南禅寺の住持となったことがある夢窓疎石(むそう そせき)が幕府滅亡の直前の1329年に1年だけ円覚寺の住持となっており、その夢窓疎石が建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて上洛したとき「禅徒歓呼の声は山林にあふれ、巷に満ちた」といわるほど、そしてその期待通り、円覚寺も寺領を安堵されます。 そしてこの頃、夢窓疎石は建長寺にあった円覚寺開山無学祖元仏光禅師の塔所(墓)を後醍醐天皇の勅使(天皇の命令)によって強引に円覚寺正続院に移してしまいます。このあたりから建長寺とちょいと焦臭くなる。ちなみに夢窓疎石の塔所は円覚寺の一番奥の黄梅院です。 ところがその後醍醐天皇が足利尊氏に追われて南北朝時代に突入。しかし夢窓疎石は足利尊氏の信任も厚く、円覚寺の寺領(収入)も安堵されます。円覚寺が鎌倉五山の第2位となったのはその尊氏のときです。その前は5位でした。 室町時代の円覚寺室町時代になると建長寺の蘭渓道隆・大覚禅師の教義を信奉する門派と、円覚寺の無学祖元・仏光禅師の教義を信奉する門派との対立が激しくなり、応安7(1374)年11月23日には建長寺派の僧侶が火を放ったため伽藍すべてが灰燼に帰したそうです。(正確には円覚寺内の建長寺派塔頭の僧。ややこしいので『円覚寺史』を読んでください。) 厳しい修行で悟りを開いたはずのお坊さんでも人間くさい怨念や敵愾心にとりつかれることもあるようです。大覚派と仏光派の抗争と言ったって蘭渓道隆・大覚禅師や無学祖元・仏光禅師ご本人にはあずかり知らぬことなんですがね。 江戸時代以降の円覚寺の再建その後も室町から江戸時代まで幾たびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸末期天明年間に大用国師(だいゆうこくし:誠拙周樗せいせつしゅうちょ、1745-1820))が僧堂・山門等の伽藍を復興したようです。 現在の伽藍は創建以来の七堂伽藍の形式が伝わっており、法堂はありませんが、山門,佛殿,方丈と一直線に並びその両脇に右側、浴室,東司跡、左側、禅堂(選佛場)があります。 参考: 臨在禅・黄檗禅公式サイト:円覚寺 円覚寺の山門山門は三つの門とも書きます。 円覚寺の禅堂(選佛場)選仏場(選佛場)は禅堂で7伽藍のひとつですね。このアングルは好きで雪の日にも撮りました。建物は1699(元禄12)の建立とか。 また元旦の深夜にはこの円覚寺や建長寺は開いていて鶴岡八幡宮の初詣の帰りにこちらにもお参りするのですが、真っ暗闇の中にこの選仏場の薬師如来を見ると、私のような汚れた心でも洗われるような気がします。 その薬師如来は南北朝時代の運慶派の作だそうです。良いお顔です。 円覚寺の仏殿その選仏場から仏殿を振り返ったところです。 関東大震災で倒壊し、現在のものは昭和39年に再建されたコンクリートのものです。 |
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