鎌倉の梅 2006/3/18 建長寺の梅と歴史1 | ||
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建長寺の総門現在の総門は昭和15年、方丈(龍王殿)とともに京都般舟三昧院より移築したものです。
建長寺の由来建長寺は5代執権北条時頼によって建長五年(1253)11月に創建されました。 蘭渓道隆は1246年(淳祐6)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺(鎌倉の円覚寺ではありません)にとどまり、翌年泉涌寺来迎院に入った。しかし旧仏教で固められている京都では活躍の場が少ないと考え日本に来てから3年後に鎌倉へ下向。時に36歳。 鎌倉ではまず寿福寺におもむき大歇禅師に参じています。これを知った5代執権北条時頼は禅師の居として大船の常楽寺に招き、そのもとを訪れては教えを受けたそうです。 一方、建長寺が建てられる以前のこの地は「地獄谷」でした。化粧坂の瓜ヶ谷地獄やぐら、名越坂のまんだら堂、極楽寺など、鎌倉の境界にあたる所は多くの庶民の墓地や葬送の場だったのです。処刑も行われたでしょう。化粧坂は日野俊基の処刑でも有名ですね。そして地蔵菩薩坐像を本尊とする伽羅出陀山心平寺があったそうです。
5代執権北条時頼は、建長五年(1253)11月、そのときの元号を冠した建長寺を創建し、禅師を請して開山説法を乞いました。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したそうです。 ここに宋朝風の臨済禅を修行とするきびしい専門道場が誕生しました。 専門道場の意味は、当時の寺院は天台宗と真言宗・浄土宗などを兼ねている例が多く、いわば宗教の総合大学だったのに対する専門大学院みたいなものでしょうか? 日本臨済宗の開祖は寿福寺で修禅をかさねていた栄西ですが、実際に臨済宗が広まっていったのはその没後40年、この大覚禅師の建長寺からです。 その建長寺で禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめました。禅師みずから書いた「大覚禅師法語規則」は現在も国宝としてのこっています。「法語」には寺内の僧に対し、怠慢をいましめ、修行に専念すべき旨が書かれ、「規則」は修行僧の日常生活について細かく規定したものだそうで、洗面の時間帯から簾(すだれ)の巻き上げ方まできわめて厳格に規定されているそうです。 建長寺の三門三門は空・無相・無作の三解脱門の略称で、一般には山門とも言われます。 現在のものは201世の万拙碩誼の努力によって安永四年(1775)落成したものですが、室町期の禅宗様式を踏襲した重層門です。万拙碩誼(ばんせつせきぎ)の労苦が「狸和尚」の伝承を生んだことでも知られています。重要文化財です。 上には宝冠釈迦如来像と銅造の五百羅漢像が安置されているそうです。1830-1856年頃に込型鋳造法により作られたもので近世鋳造作品の代表的なものだそうです。非公開で全体は写真でしか見たことはありませんが数体は鎌倉国宝館にあります。
昨年の2005年に重要文化財に指定された「建長興国禅寺」の額字は寺伝では後深草天皇の筆とされているそうですが、個人的には「後深草? あの『とわずがたり』の変態上皇?」と言う感じで有り難みが湧きませんね。
「とわずがたり」を本当に二条が書いたのかどうかも判りませんし全ては「薮の中」ですが、でも大通禅師西礀子曇(せいかんすどん)の筆との説が有力なようです。ホッとしました。 建長寺の洪鐘(国宝)開山・蘭渓道隆のもとで森厳な修行が始められた翌年の、建長七年(1255)二月、5代執権北条時頼は「建長禅寺ここにあり」という意をこめてこの梵鐘をつくり、鐘楼にかけたそうで国宝となっています。当初は三門の東南の山腹(円覚寺の鐘楼を連想すれば良いですね)にあったものを18世紀末に現在の地に移したんだそうです。 陽鋳の銘文は、蘭渓道隆がみずから撰文して書いたもので、末尾に「檀施をながく千祥にいたりしめ、この善利をもって、上は将軍宗尊親王を祝し、人びとの豊年や、天地が永久に栄えることをねがう」と結んでいるそうです。 確か鎌倉に現存する最古の洪鐘?・・・違いました大船常楽寺のものの方が古いですね。1248年(宝治2)で北条時頼が蘭渓道隆を常楽寺に招いた年です。 詳しくはこちらをご覧ください。建長寺物語(十一)時頼公、梵鐘をつくる 建長寺の仏殿
現在の仏殿は、江戸時代に芝増上寺の崇源院(徳川秀忠夫人)の霊屋(たまや)を建て替た際に譲渡されたもので、正保4年(1647年)にこちら建長寺に移築されました。三門とともに建長寺の象徴みたいになっていますね。国の重文です。 ん? 徳川秀忠夫人て織田信長の妹のお市の方と浅井長政の間に生まれた三女、淀君の妹じゃないですか。 寄棟造で単層裳階(もこし)が付きます。もともと霊廟建築として造られたものなので屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっています。屋根は入母屋造でなく寄棟造。天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの絵を描くことが多いのですが、この仏殿の天井は和様の格天井(ごうてんじょう)です。将軍家正室にして織田信長の姪の霊屋(たまや)にふさわしい装飾性豊かな建物です。 堂前にあるビャクシン(白槙、和名イブキ)の古木7本は開山蘭渓道隆手植えと伝えるもので、樹齢約750年といわれるそうです。 堂内は本尊の地蔵菩薩像(室町時代の作、像高2.4メートル)を中心に、伽藍神像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、元この地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像などがなどが祭られていますが本尊以外はどれがどれだか私には良く判りません。 ISO1600は強力ですね。(笑) 建長寺と旧心平寺地蔵堂ところで、建長寺で検索したら、鎌倉不思議散歩と言うサイトを見つけたのですが、5.建長寺・・・本尊の不思議と言うページにこうありました。
「建長寺はその地蔵堂が発達したお寺」と言うのは大夫ニュアンスが違うと思います。 確かに臨済宗の公式サイトにも
とはありますが、衰えて地蔵堂だけのこっていたような寺が突然そのときの元号を冠した国家的な大伽藍に「発達」したなんてことがある訳がありません。禅宗の国家的な大寺院を作ると言う意図が有ってその地に北条得宗家の私領であり、かつ鎌倉中に隣接したこの地が選ばれたと言うことが先でしょう。ここでは触れませんが建長寺建立の意図をその時代背景、京都と鎌倉の位置の中から考えてみるのも当時の鎌倉を理解する上で重要だと思います。 心平寺地蔵堂は建長寺建立にあたり、その場所を巨福呂坂(こぶくろ)上に移され、江戸時代初期に荒廃した建長寺の再興の為に延宝6年(1679)水戸光圀が寄進したと袖書きのある「建長寺境内絵図」にも「東海法窟」の額を掲げる東外門の南側に「伽羅陀山心平寺地蔵堂」と記載されているそうです。その地蔵堂(と言っても鎌倉時代のままではないでしょうが)は大正5年に三渓園に移されたそうです。地蔵菩薩座像(像高82cm)は建長寺仏殿に安置されており、「建長寺境内絵図」も「地蔵菩薩座像」も鎌倉国宝館刊「建長寺−創建七五十年」と言う写真集に見ることが出来ます。(実は今日、国宝館に行って買ってきました) 建長寺の本尊は元々あった地蔵堂にも敬意を払いつつ、しかしそれよりもここが埋葬の地であり、生と死を司る、死者の霊を抑えると言うことが地蔵菩薩を本尊とした本当の意味ではないでしょうか。 なお、鎌倉の禅宗のお寺には地蔵菩薩像を本尊にしているところが沢山あります。他の地も同様に谷戸であり地獄谷であっのでじょうし、また建長寺からの禅宗の流れと言うこともあるのかもしれません。円覚寺は違うけど。
これは江戸時代に徳川光圀が延宝二年五月(1674)に鎌倉を巡視したあと、家臣の河井恒久等に命じて鶴岡八幡宮の記録なども元に編纂した「新編鎌倉志」(1685年)のことじゃないでしょうか? でもこのサイトとても面白いです。よく調べていらっしゃるし。 建長寺の法堂仏殿の後ろには法堂があります。大法を説く堂、古代寺院では講堂に当たるそうです。 建長寺方丈の唐門仏殿と同じく江戸時代に芝増上寺の崇源院(徳川秀忠夫人)の霊屋から移築したもので、こちらも重要文化財です。意匠はゆったりとおおらかな桃山風です。唐門(からもん)とは屋根に唐破風(からはふ)があることからで、中国式の門と言うことでは無いそうです。 建長寺の方丈龍王殿「竜王殿」とも呼ばれ。1943年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から総門と一緒に移築されたものです。般舟三昧院は後土御門天皇によって建立された皇室ゆかりの寺院だそうです。 こちらは方丈の中。宝冠釈迦如来像を安置しているそうです。 3/25に桜を見に行ったら方丈からもくぎょうの音と読経の声が。で、方丈に上がってみたら何かの法事の最中、右には檀家の人なのか背広の着た人が20人ぐらい。お経が終わると「管長猊下からご挨拶を」と言われて中央の朱の法衣の方が立ち上がり、まず右に居たお坊さんにお辞儀をされました。右側が客分の方なんでしょうか。 しかし「猊下:げいか」と言う言葉を初めて聞きましたね。文字では良く見かけますが。フランスのルイ13世や三銃士の頃のリシュリュー枢機卿も、ローマ法王も「猊下」と呼ばれています。「司教」ぐらいじゃ「様」ですね。 おおきなもくぎょうです。 梅を見つけました。と言うかさっきの梅ですね。 建長寺方丈庭園国指定史跡です。夢想国師作と書いてあるサイトもありますが、建長寺では開山大覚禅師(蘭渓道隆)の作庭と説明しています。確かに夢想国師は庭園で有名ですね。大覚禅師の頃からあった庭に夢想国師が手を入れたとしても不思議ではありません。また夢想国師が手を入れたままの姿が今目の前に広がっているとも思えませんけど。 他の季節は北鎌倉・建長寺 index からどうぞ。まだ続きますけど。 | ||
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